東海道-大磯宿→小田原宿
降り始めた雨は更に激しさを増す。その雨のせいで二人の着物はびしょ濡れになっていた。それでも早く小田原宿へ向かおうと足を前に進ませる。そのような中、やはりどこか体調が優れないのだろう。風間の背中が小刻みに震えを見せ、荒い息遣いによって肩も激しく上下していた。
「風間さん、熱があるんじゃないんですか?」
もう我慢ができないと千鶴が風間の隣へ駆け寄って手を握る。
「すごく冷たい……」
「この雨で冷えたのだろう……」
いや、この雨で冷えたとしても千鶴の手はそんなに冷え切ってはいない。千鶴は江戸で医者をしていたせいか、恥ずかしげもなく風間の襟元の中へ片手を突っ込んだ。それを脇の下に移動させると、大きく目を開かせて風間を見つめた。
「すごい熱じゃないですか?」
「このような熱は明日になれば治る」
「昨日からでしょう? それにこんな高熱はすぐに治りませんよ! 少し何処かで休みましょう」
休憩できる場所をと辺りを目をあちこちに巡らすが、どこにもそれらしき場所が見当たらない。そんな千鶴に風間は溜め息と共に言葉を吐き出した。
「このような所で休憩などせんでも、小田原宿はすぐ目の前だ。このまま歩き続けるぞ」
「でも……」
「煩い。小田原宿に到着すれば宿で休める。俺は雨でぬかるんでいるような場所で休憩などしたくはない」
風間が小田原に向かって歩みを再開させると、千鶴はそんな風間に寄り添うように引っ付きながら歩いて行った。
ようやく小田原宿に到着すると、予め予約していた宿に入る事ができた。そして部屋に入った途端、風間は濡れた着物を身に纏ったままで敷かれてあった布団の上に寝転がろうとしたのを千鶴が慌てて止めた。
「風間さん、寝巻に着替えて下さい!」
「煩い、寝かせろ」
千鶴の制止の手を振り解こうとしながら身体を気だるそうに横たえようとする風間に、
「濡れたままで寝たら駄目ですよ。横になる前に身体を拭いて寝間着に着替えて下さい」
千鶴は風間の身体を支えるようにしながら濡れた着物を手早く脱がすと、宿の者に用意してもらった熱い湯で濡らした手拭いで身体を拭いた後にすぐ寝間着に着替えさせる。そして、ようやく風間の身体を布団の上に横たわらせた。風間の額に手を当てると、かなりあるのだろう。火傷までは大層だが高い熱だと分かる。
千鶴は、熱い湯が入っていた桶の中を水に換えて手拭を浸し、風間の額にそれをそっと乗せた。
「気持ちがいいな……」
額から手拭いの冷たさを感じた風間が薄っすらと瞼を上げる。
「だって、熱が高いですもの」
千鶴は風間の言葉に優しく答えると、自分の両手を風間の頬にそっと添えた。
「私の手も冷たくて気持ちがいいと思いますよ」
「ああ、確かに冷たくて気持ちがいい」
風間の頬は熱く、冷たい水の中に突っ込んでいた千鶴の悴んだ掌にその熱がじわじわと伝わってくる。
「熱がある証拠ですから今日はゆっくり寝て下さいね」
千鶴がそう言ってから両手を頬から離すと、風間が独り言のように小さく呟いた。
「しかしこの俺が熱を出すとは珍しい事だ。お前があの川に落ちてから具合が悪くなったのだからな、手厚く看病をしろよ」
風間は捻くれた言葉を最後に言い放ったが、それが全く気にならなかった千鶴の心臓がトクンと跳ね返った。
あの水底に差し出された逞しくて大きな手が千鶴の脳裏にまざまざと蘇る。
「やっぱり、あの時助けてくれたんですね」
「間抜けにも落ちるからだ」
「私が眠っていた部屋の火鉢の横に引っ付くようにして座ってましたけど、あの時から既に具合が悪かったんですね」
「冬の川の中に飛び込んだのだからな。あれで風邪を引かんのはお前くらいじゃないか?」
高熱を出し、荒い吐息の中でも捻くれた言葉を紡ぎ続ける風間は、千鶴にいらぬ心配をさせないように不器用な配慮をしてくれている。それがまた千鶴には申し訳なく感じ、素直な言葉が口から飛び出していく。
「あの川での事はすみませんでした。少し考え事などをしていて……」
「ふん、あの川を渡るまでのお前の態度はおかしかったからな。まあ、今はそれもお前の中で解決したようだが?」
「……」
気遣わせないようにしていたはずなのに、千鶴に謝罪された事によって風間のからかいはそこで終止符を打つ。
「何、もう済んだ事だから気にする事もないだろう。それに俺は鬼だからな。このような熱は明日には引くはずだ」
「明日に引くでしょうか?」
「ああ、昨日よりはましだ」
昨日よりは酷くなっているような気がするが、風間は荒い息をしながらも千鶴に気を遣わせるような言い方をしなかった。その優しさが千鶴の心を余計に締め付けていく。
「あの時、どのような考え事をしていたのだ?」
「それは……」
「言うがいい。今のお前は普通にしているが、まだ心の中では納得をしていないところもあるはずだ。吐け、さすれば楽になるだろう」
「……」
暫く黙り込んだ千鶴。しかし、風間が熱で気だるいのを承知で千鶴に悩み事を話せと言ってくれた為、思い切って戸塚宿での夜の事を聞く事にした。
「風間さんは戸塚宿での夜に会合があるって言って出て行きましたけど、それって女の人に会っていたんですか? 帰って来た時に白粉の匂いが強く香って、あの時の風間さんは様子がおかしかったし……」
そして、千鶴はあの料亭の名前を出した。
「風間さんが行った【丁字屋】って、遊郭で有名だって聞いたんです」
千鶴が出して来た言葉に静かに耳を傾けていた風間は、意地の悪い微笑みを向けてきた。
「そのような事であんなにも不機嫌だったのか。一昨日の夜も早々に帰ってきたら寝た振りをしているし、昨日の朝も機嫌が悪かった理由はそれか? お前が嫉妬している姿を見るのはまことに愉快だな」
布団の中で風間が珍しく声を立てて笑う。しかし女が関係している話で笑われるとも思ってもみなかった千鶴は気に食わない上に、悩んでいた二日間を嫉妬という二文字で片付けられそうになったが為に頬を膨らませながら反論をした。
「そ、そのような事に嫉妬ですって? 女は男と違って繊細な生き物なんです! 嫉妬だなんて……私がそのような事をする訳がありません!」
この感情は確かに嫉妬だ。しかしそれを認めたくはない千鶴は顔を朱に染めながら風間の額の熱によって冷たさを失った手拭を取り上げると、桶の中の冷たい水でじゃぶじゃぶと勢いよく洗い出した。そんな動揺をしている千鶴の横顔を、風間が楽しそうに見つめている。そして千鶴が額の上に手拭いを乗せた時、その手を優しく掴んでいた。
「一昨日の白粉の主は鬼の忍びの女だ。今回は日の本の中の情報を得る為に会う事になっていたのだが、このような宿場町では女の忍びの殆どが遊女か芸子に扮している」
「そうなんですか」
「それに、お前もあの新選組の中にいたのならば多少の事くらいは理解できるだろう?」
「そう言えば……」
風間に手を握られたままの状態で、千鶴は数年前の事を思い出した。
新選組の仲間たちも密談をする時には角屋でしている事が多かった。それに千鶴が芸者に扮して島原に潜入をした時に風間に出くわしたのだが、やはりあの時も密談の為に浪士たちが集まっていた。
「密談などは、あのような場所でするのが適しているのだ。敵方を警戒している者も遊郭などに入られたら手も足も出ない。ああいう場所は一種独特な決まりがあるからな。それにあそこにいる女たちは、店の信用の為に他言をする者はおらん。従って鬼の会合も同じ事だ」
「はあ、成る程……でもっ、風間さんが通っただけで白粉の匂いがすごくしたんですよ! あれはかなり密着してないとうつらないでしょ!」
何やら誤魔化されているような感じがした千鶴は、納得をしつつも風間に食いかかる。少し熱も下がってきたのか、風間の口からは自慢話が饒舌に流れ始めた。
「俺は嬉しいとも何とも思わんが、女が勝手に寄ってくるのだから仕方あるまい」
「それって、風間さんが女の方にもてるって事をさり気なく自慢してるんですよね?」
「俺のような美しさを持った鬼には女が集りやすいからな。お前も我が妻になればしっかりと俺を見張っておけ」
「風間さんの仕事には地方で開かれる会合も多いのでしょう? 四六時中見張る事なんて無理じゃありませんか」
千鶴が頬を膨らませながら出す言葉に、風間が嬉しそうに微笑む。幼い頃に両親を亡くした風間にとって、誰かに愛されたり嫉妬されたりしたのは今が初めてなのかもしれない。いや、愛されていた事もあったのだろうが、風間がそれらを全て拒絶してきたのだ。
自分には愛する者も愛される者も必要ない。ただ、鬼の血筋を絶やさない為の道具があればいいと思っていた。しかし、千鶴に出逢い、同じ場所で同じ時を過ごしてきた風間は愛したい、愛されたいと初めて望んだ。
風間が千鶴の手から自分の手を放してそれを頬に添える。
「俺はお前が思うそこらの男どもとは違って誇り高き鬼だ。妻になる女がいるというのに、正体も知れぬ女と身体を重ねる事などせん。そのようなつまらぬ事ばかり考えて、近々夫となる男を信じずに嫉妬するお前は馬鹿か?」
風間のはっきりとした物言いに、千鶴の頬がますます朱に染まっていくのが分かる。しかし、風間が女と関係を持っていないと知ると、ほっと胸を撫で下ろすもう一人の自分が千鶴の心の中に存在していた。
「し、嫉妬なんかしてません。苛々していただけです」
「それが嫉妬だとお前は理解しているのだろう?」
「……」
「素直になれ」
「素直になれと言われても……」
「素直になれない理由でもあるのか?」
「それは……」
普通に素直に嫉妬していると言葉にすればいいのに、それができないのは何故だろうか?
江戸にいる頃から近所の女たちの話を聞いていた千鶴。その女たちは自分の夫が浮気をしていても笑って過ごしていたが、きっと心の中では嫉妬の炎が勢いよく燃えていたのだろう。それでも何ともない顔をして暮らしているそういう女たちが賢く思えたのだ。
賢い女はどのような状況の時でも冷静に、そして明るく振舞う。それにあの弘栄堂の女も言っていた。細かい事でくよくよするなと。しかし風間はそのような女たちと反対の事をしろと言ってくる。くよくよするのならば正直に話す。黙っていないで表面だけで明るくするのならばそれも正直に話せと――。
「もしもお前が自身の中で嫉妬に狂いながらも正直に話さないのであれば、俺は毎日でも色町通いをするぞ。お前のその目まぐるしく変わる表情は面白いものがあるのも理由に入るが、自分自身を騙し続けて苦しみ続けるのも辛いと分かるだろう。それに夫婦というものは信じ合う者同士で成り立つ。俺は仕事で女の忍びと会う事も多い。それにいちいち疑いを掛けられていては迷惑だ」
「あっ……」
この言葉をどこかで聞いた事があると千鶴は脳裏を掻き巡らす。
そうだ、あの水底で不気味に響いた声音がそのような事を言っていた。
何があっても夫になる男を信じ続ける気持ちを強く持たなければならないと千鶴は感じたが、風間の最初の言葉に対しては別である。
「私の表情が目まぐるしく変わるのは全然面白くありませんから!」
千鶴は風間の額に乗せていた手拭を荒々しく剥ぎ取ると、じゃぶじゃぶと水を跳ねさせながら洗い出した。そしてそれを額に乗せた時、風間がその手を再び握り締めてきて、千鶴の顔を自分の口元に引き寄せると、熱のある吐息をかけながら我侭を言い始めた。
「まだ寒いから俺の横で寝ろ」
「風間さんが熱を出したのは私が川に落ちたのが原因ですから、今夜は寝ずに看病させてもらいます」
「寝ておかねば、明日が辛いぞ」
「一日ぐらい寝なくても大丈夫です」
「お前はよく寝る女だっただろう?」
「何でそれを知っているんですか?」
「蝦夷に行くまでの間もよく寝ていたではないか」
蝦夷に行くまでの間の夜、熾した火が消えないように風間はよく寝ずの番をしていた事を思い出す千鶴。その時の千鶴はいつも朝までぐっすりと熟睡していた。
「もう! 変なところばかり覚えているんだから!」
「お前がそういうところばかりを見せるのが悪いのだろう?」
「もっと違うところも見て下さいよ!」
言い合いを繰り返しているうちにそれをするのが面倒臭くなった風間は千鶴を無理やり布団の中へ引っ張り込んで言い返せない言葉を囁く。
「一昨日は助けてやったのだからお前は俺に逆らえまい?」
「ぅっ……」
風間の熱のある体温で無理やり引っ張りこまれた布団の中はぽかぽかしている。寝不足だった千鶴の瞼が徐々に重みを増してきた。
「風間さん……?」
先に寝てしまったのか、千鶴の顔の少し上では先程よりは荒さのなくなった風間の規則正しい息遣いが聞こえてきた。千鶴は眠りそうになるのを我慢しながら、そっと風間の額に手を乗せてみる。すると、熱かったその個所はかなり冷えてきていた。
「熱は下がってきているみたい。良かった……」
安心した千鶴に極度の眠気が襲い始め、風間の大きな胸の中に顔を埋める。そしてゆっくりと重い瞼を閉じていった――。
- 38 -
*前次#
ページ: