東海道-小田原宿→箱根宿



 何か頬を引っ張られている感じがする。千鶴が頬に痛みを感じて目を覚ましてみると、目の前には風間が怖い顔をして見下ろしていた。


「やっと起きたか」
「な、何してるんですか?」
「昨夜まで病人であったこの俺が起こしてやっていたのだ。有難く思え」
「こ、こんな起こし方はありなんですか?」
「ふん、これはまだ序盤だ。これで起きないとなると……」


 千鶴の頬はと言うと、風間の両手によって餅のように伸ばされていた。


「い、いい、痛い! 痛い! 風間さん、痛いですったら! 何でこんな酷い事をするんですかっ?」
「何でだと? いつまで寝ているつもりだ? いくら呼んでも起きんからこうしているのだ。しかし……お前の頬は餅のようによく伸びるな。これから起こす時はこれをする事にしよう」


 昨日から熱を出していた風間は本調子に戻っているようで、俺さま口調も麗しい上に千鶴の伸びる頬が余程面白かったのか、一向に頬から手を離そうとはせずに伸び縮みを繰り返している。


「早く布団から出ろ」
「で、出たいんですけど……風間さんが邪魔で起きれません」
「まだ起きぬと言うか?」
「ち、違います! 起きたいんですよ!」
「仕方あるまい。最後の手段だ」
「えっ、ええっ!?」


 千鶴の頬を伸ばした手をそのままに風間の唇が近付いてきて千鶴の唇に重ねてきた。


「ふううぅっ! うううぅっ!」


 何の予告もなしに全てが突然で意思を確認しない風間の行動に、千鶴は戸惑ってばかり。ようやく唇を離した風間が、


「起きるか?」


 と尋ねてくると、


「だから起きたいけど起きれないって言ってるじゃないですかっ!」


 と、頬を未だに引っ張り続けている風間の手首を掴んだ千鶴が叫んでいた。






「あーあ……熱を出している時の風間さんの方がましだったかも……。大人しかったし、こんな事しなかったし」


 風間から引っ張られていた頬をやっと開放された千鶴が、赤く腫れたそれを両手で擦りながらぶつぶつと文句を垂れていると、


「ほう、この俺に文句を言うとは度胸のある口だな。全く可愛げのない女だ。客商売とはいえ、店の女の方がよっぽど愛嬌があって可愛らしいぞ」
「私は客商売なんてした事がないですから。愛嬌も何もなくてすみませんね」
「いや、客商売でなくとも愛嬌のある女は大勢いる。お前のように愛嬌も何もなく、強情だけの女は希少だな」
「風間さんは愛嬌のある女の方がいいんですか?」
「そうだな、少しはあった方がいいのではないか? だからお前も少しはそれを持て」
「でも、こんな女でも嫁にしたいと思ったんでしょ? 高望みはしないで諦めて下さい」


 風間の言っている客商売とは遊女や芸者の事だとは思うが、その後は千鶴と同じように普通の生活をしている女たちより劣って比べられている事に、少し嫉妬に似た怒りを感じ出していた。


「ふん、高望みなどしておらん。女の性格などを変えるのは簡単だ。西の里へ連れて帰れば俺好みに調教してやるから楽しみにしていろ」


 風間の自信ありげな言葉、その中の内容に驚いた千鶴が


「ちょ、調教って……風間さん好みって何ですかっ? 全然楽しみなんかじゃありません!」


 と怒鳴ると、


「何ですか? ……という事は興味があるから教えて欲しいのか?」


 くいっと顎に手を添えられた千鶴の顔は風間の顔と至近距離にあり、顔面に血が上るのを感じると、それを見ていた風間はにんまりと笑みを零した。


 教えて欲しいようだな――と、吐息のような囁きと共に耳朶を甘噛みされた千鶴の顔面は、更に血が逆流してくるかのように上り始めて眩暈を起こしそうになった。


「お、教えてくれなくて結構です!」


 千鶴は風間の身体から離れると忙しなく動き始め、動揺を見せないように出立の用意を始めた。


 風間は、そんな千鶴を面白可笑しそうに細めた目の奥から覗く緋色の瞳で見つめている。


「何がおかしいんですか?」


 背後からの低い笑い声に気を悪くした千鶴が文句を言おうと後ろを振り向いた途端、風間の両腕が千鶴の後頭部と腰をぐっと掴んで唐突に口付けを交わしてきた。


「むふっ! はふっ!」


 風間の腕の中で暴れながら必死に離れようとする千鶴だが、女の力で風間の束縛には抗う事も全くの無駄であり、最後はされるがままになってしまう。そして、やっと口付けが終わった頃、千鶴の呼吸はぜいぜいと荒々しく、それを見ていた風間は更に楽しそうに笑みを浮かばせていた。


「全く、未だに口付けの時に呼吸もできんとはな。これは調教のし甲斐があるというものだ。西に近付くにつれ楽しみばかりが増えて忙しくなりそうだ」


 風間はふっとからかいの笑みを千鶴に見せると、ゆったりと部屋を出て行った。


「風間さん、冗談に見えない顔でからかわないで下さい。風間さんったら聞いてます?」


 あいつの感じる部分の一つは耳朶か―― 千鶴といると、全くと言っていいほど飽く事がない。


 先程からのやりとりで、からかわれていたという事をやっと知った千鶴が風間の後ろ姿を追って走って来る。そんな千鶴を待ってやりながら足を止めて満足気な表情を浮かばせていた風間は、自分に追い付いてきた千鶴の華奢な手を優しく握ると、次の宿場へと歩みを進めて行った。




「今日はどこまで歩くんですか?」


 毎朝の日課である千鶴の問い掛けに風間が答える。


「今日は三島宿まで歩く。この箱根峠は難所だからな。気を抜かずに歩け」
「は、はい!」


 少し歩いて行くと、早川という大きな川の所に辿り着いた。そこは川幅が広く、三つの橋が架かっている。橋の名がこれまた面白く、小田原から順に【地獄橋】【極楽橋】【三昧橋】となっている。この橋を渡ると早雲寺があり、その寺に逃げ込むとどのような罪人でも罪を免れると言われ、追手も地獄橋までは罪人を追うが、その後は追わないらしい。


「確かに、極楽橋まで追われたら意味ないですもんね」
「というよりも、そのような名を付けたが為に罪人を野放しにするとはあまりいい橋ではない」
「罪人にとっては嬉しいでしょうけどね……で、最後の【三昧橋】は何なんですか?」
「その先は仏三昧に生きよという意味らしい。まあ、結局は閉じ込められるのだがな」
「助けになるのかなってないのか、よく分かりませんね」
「生き延びられるだけでもありがたく思えという事だろう」


 二人は三枚橋を見ながらその橋の名の由来について議論を投じていた。


 その早川を超えて巣雲川の合流点にある【湯本温泉】の前を通り過ぎようとした時、


「温泉……」


 と千鶴が呟く。


 この湯本温泉は箱根温泉郷の表玄関となっている。風間曰く、奈良時代に始まる箱根で最古の温泉として知られているらしい。またこの温泉には、寺に参詣する武将たちが必ずこの湯本温泉に入った事から【足洗いの湯】とも言われていたのだそうだ。


「入りたいか?」


 と風間が問い掛けると、暫くその場に立ち止まっていた千鶴は考え込んでいたが、顔を上げると風間に微笑んできた。


「今回は止めておきます。またここに連れて来て下さい」
「西の里に入ればもう、お前は外には出られんぞ」
「そんな酷い事言わないで、一度だけでいいですから」
「今で一度目だ」
「そ、そんなぁ……じゃあ、今から入ります!」


 千鶴が拗ねながら湯本温泉の所に行こうとする。しかし今から箱根峠を越えなければならない為、ここでのんびりしている暇はない。風間は本当に温泉に入りに行こうとする千鶴を呼び止めた。


「……いつか連れて行ってやる」
「本当ですか? 嘘じゃありませんよね?」
「俺は嘘は吐かん。いつか……だ」
「いつか、絶対にって言って下さい」
「うっ……」


 千鶴がそうでなければ今から絶対に入りに行くと駄々を捏ね始める。その光景を周りの旅人たちが見て笑う。それを恥ずかしく思った風間が千鶴の腕を掴んで囁いた。


「いつか、絶対に連れて行ってやる」


 その言葉を聞いた途端に、千鶴の表情が明るい色に染まる。


「約束ですよ」
「ああ……」


 本当は西の里に閉じ込めたまま、一生外には出さないつもりでいたのに――


「何という約束をしてしまったのだろう……」


 喜びに溢れたような足取りで先を歩く千鶴を見つめていた風間は、深い溜め息を吐き出していた――。


 昨日から降っていた霙雨は雪に変わる事も積もる事もなかったが、それが与えた湿り気は箱根宿へと続く向坂を滑りやすくさせ、その場所を歩く旅人たちの脚をなかなか前に進ませようとはしなかった。


 【天下の険】とも呼ばれる箱根路を歩き続ける風間と千鶴。しかし、慣れない上に足場も悪い所では危険がつきものだ。


「い、痛い……!」


 先程から繰り返し足を滑らせている千鶴の顔や着物は泥だらけになっている。歩く時には必ず手を引いてくれる風間なのだが、千鶴が滑って転ぶと分かった瞬間に何故か手を離し、転んだ後には決まって押し殺した笑いと共に手を優しく差し伸べてくれるのだ。


「何で転ぶ前に助けてくれないんですか?」


 泥だらけの千鶴が滑りやすい石畳を慎重に歩きながら風間に訊ねると、蹴り倒したくなるような答えが返ってきた。


「俺はお前に引っ張られても転ばないと確信しているから助けてもいいのだが、お前の転ぶ姿が鬼とは思えんほどかなり滑稽だから繰り返し見たくてな。つい、手を離してしまうのだ」
「何気に酷い……」


 再び転びそうになり、手を離そうとする風間のその手にしがみ付いた千鶴が全体重を掛けて共に転ぼうとした瞬間、ふわりと身体が宙に浮かび上がり、何が起こったのかと驚きながらよくよく見てみると、風間に横抱きにされていた。


「今、俺を転ばそうとしたのか?」
「何の事でしょうか? 風間さんが何を言っているのかさっぱり分かりません」
「俺を転ばそうとしただろう? そんな悪戯にこの俺が引っ掛かるとでも思ったのか?それにこれを見ろ」


 横抱きしていた千鶴を石畳の上に降ろした風間は、己の胸の辺りを指差した個所には、白地に金の桜の刺繍を施している風間の着物が先程の千鶴を横抱きした事によって、泥で汚れてしまっていた。


「あらあらあら……どうしましょう」
「何事にも完璧であるこの俺に泥を付けるとは……この落とし前をどうしてくれるつもりだ?」


 風間は自分の着物の胸元を指差したまま、じりじりと千鶴ににじり寄って来る。その近寄り方に恐ろしさを感じた千鶴は、足元を確認しながら後退りをした。


「どうするもこうするも、風間さんが私を抱くからこんな事になったんでしょう? 大体、こんな旅に白い着物なんて汚れが目立つじゃないですか!」


 千鶴が風間の攻めから逃げようとした時、足が泥濘に取られてしまって、後ろに転ぶどころか前にのめり込むように倒れてしまいそうになる。


「ぎゃああぁっ!」


 何かにぶつかるように倒れた千鶴が、恐る恐る目の前の物体を確認しようと身体を起こす。


「千鶴……貴様……」


 千鶴は見事に風間の上に乗っかっており、彼の白い着物は泥濘にはまってしまっていた。目の前の緋色の瞳はこのような侮辱を今まで味わった事のないような様子で怒りに燃え、千鶴の方を睨んでいる。


「あのですね! これは仕方のない事で……わざとじゃなくて事故です! 事故……」


 慌てて弁解をしようとするが、目の前の怒り狂っている威厳高い男にそのような事が通用する訳がない。風間の口からは次々と悪態が吐き出され、最後には訳の分からない言葉が千鶴の耳に流れ込んだ。


「許さん……三島に着いたら覚えておけ。たっぷりと仕置きをしてやるわ!」
「仕置きって何なんですかぁ〜?」


 千鶴が恐怖に慄いたような震える声で聞いてはみるが、風間は鼻をつんっと上に上げながら見下すように視線を送ってくる。


 蛇に睨まれた蛙とはこの事を言うのだろうか?


 箱根峠には多くの名がついた坂があるのだが、それらを登った途中での箱根峠から見下ろす芦ノ湖は美しかったに違いない。峠を下る箱根西坂の急な下り坂でも滑りやすく辛いものがあったろう。しかし、千鶴には美しい景色を見て感動する事も、峠を下る時に何回も滑って転んだが、その時の痛みさえも今では何も感じる事ができなかった。何故なら、そのような感動や痛さを感じる前に、三島宿に着くまでずっと燃え滾る緋色の瞳に睨まれ続けられている事の方が恐ろしく感じ、千鶴は小さくなって歩くしかなかった。


「昼はここで休むとするか」


 箱根峠を越える途中のドロドロの二人だが腹は減る。風間と千鶴は、箱根の間の宿である畑宿にある茶屋に立ち寄った。


「あらぁ! 箱根峠で転びましたか」


 茶屋に入った二人を出迎えた主が目の前の泥だらけの姿を見て笑う。その笑いに不快感を表す風間に恥ずかしそうに俯いた千鶴は、この場所の名物である蕎麦を頼んだ。


「初夏頃になると鮎の塩焼きが美味しいんだけどね」


 主は二人分の蕎麦を風間と千鶴の前に置きながら畑宿の説明をしてくれる。


「箱根細工も有名なんだよ」
「箱根細工?」


 言葉を繰り返して質問をする千鶴に、主は箱根細工の詳しい説明をしてくれた。


 箱根細工とは寄木細工であり、この箱根の伝統細工らしい。色が事なる数種の木片を複数寄せ合わせて幾何学的な模様のある箱ものなどを作るらしい。その話を聞いていた千鶴が風間の顔をジッと見つめる。


「そんなに俺の顔が美しいか?」
「違います……」
「では何だ?」
「寄木細工の箱が欲しいです」
「旅の邪魔になる」
「小さいものでいいんです」
「また連れて来るという約束をしたろう。その時に買えばいい」


 風間の最後の言葉に千鶴は納得をしたようだが、その後にニッコリと微笑んで、


「約束ですよ」


 と、風間に二度目の約束をさせていた――。


 西梅小坂の石畳を登り、橿木坂を歩く。この西梅小坂と橿木坂は道中一番の難所であるらしく、そこでも千鶴は激しく転び続けていた。そして沢に架かる小さな木の橋の山根橋を渡り、だらだら坂をひたすら歩く二人。その先にまた橋があった。その橋の名は甘酒橋。風間はその名を聞いた途端に、酒が呑みたいなどと言い始める。それを何とか宥めて歩き続けると、猿滑坂に突入。ここも最初の二つの坂に並んで東海道きっての急坂と呼ばれているところであった。


 その難坂を歩いた後に追込坂に入る。この坂は緩く、歩きやすいのだが、先ほどの急坂で足ががくがくの千鶴は何もないところで何度も躓き、その度に風間に馬鹿にされていた。そしてようやく笈の平に到着した二人は、そこにある四軒の茶屋の中の一軒に入って休憩をしていた。そこで風間は珍しく甘酒を、千鶴はここで有名な力餅を頼んでいた――。


 笈の平を出立した二人は、林間にある於玉坂を歩く。この場所は、元禄十五年に、伊豆大瀬村の農家の娘たちが関所破りをして、ここで獄門に掛けられたのだそうだ。


「何で関所破りなんてしたんでしょうね?」
「さあな、何か帰らねばならん理由があったらしいが、関所手形がなかったらしい」
「関所破りは大罪ですものね……」
「ああ。しかしこの関所破りをした於玉の処刑は冷酷非情だと非難する声が多かったらしいがな」


 その坂の脇に小さな石碑がある。それには何も掘られてはいないのだが、団子や甘酒などが供えられており、千鶴もそこに屈み込むと静かに手を合わせていた――。


 この先は美しい石畳の続く白水坂の途中でに双子山を眺めた二人は、かなり急坂である天ヶ石坂を登り切り、下りの権現坂に入って箱根宿へと向かって歩いて行った。


 風間と千鶴が関所門を潜る。明治に入った今では日の本中の関所は全て廃止されたが、建物は当時の威圧感を残している。この関所は関銭重要視されていたのだが、この箱根関所は幕府の政治的警察的目的の為に作られたものであり、他の関所に比べると、かなり厳重で通常の往来手形の他に、箱根関所宛の関所手形を持っていないと通行できなかった。


 箱根宿の本陣は東海道の中で最大の数であったが、旅籠は最初よりも減少したのだと風間は言う。


「関所の側で本陣の多い宿場を敬遠したのだろう。旅人の多くも隣りの三島か手前の小田原で泊まるからな」
「ここは出女の取り締まりの厳しい所だったんですよね?」
「ああ、江戸に人質として住んでいた西国大名の子女が逃げ出さぬように設置されたようなものだ」


 そして風間が千鶴を見つめてこう思った。


 西の里にも箱根関所のような監視場でも作ろうか――


 千鶴が風間の傍から離れない事くらいは分かっている。それなのにこのような気持ちになるのはどうしてなのだろう。


 天霧からの文を読んだせいかもしれんな――


「風間さん……?」
「ん、何だ?」
「ぼんやりとしてましたけど、どうしたんですか?」
「いや、何でもない。早くこの峠を越えんと三島宿に辿り着かん。急ぐぞ」
「はい」


 二人は芦の湖を眺めた後、駒形神社という箱根七福神の一つ、毘沙門天でお参りをした。


「ここは実行力と勇気を与えてくれる神がいるらしい」
「じゃあ、箱根峠とこの旅の無事でも祈っておきます」
「ふん、神頼みよりも、旅慣れしている俺に懇願した方がよっぽど利がある」
「何で風間さんに懇願した方に利があるんですか?」
「神は食いもんをくれんが、俺はお前にくれてやれるだろう?」
「もしかして……」


 茶屋に視線を投じた千鶴の顔に日差しが照る。それが美しいと感じながらも、風間はツンッと顎を上に振った。


「今宵は三島に早く着き、お前に仕置きをせねばならんからな。ここで茶も飲まんし団子も食わさん」
「あっ……」


 千鶴が風間と自分の汚れた着物を見つめる。先ほどの日差しが陰って顔は曇りがちとなる。


 コロコロと変化する表情を楽しんだ風間が千鶴に手を伸ばした。


「これから先も滑りやすい道が多くある。これ以上、着物を汚されるのも敵わんが、お前がこけるのを見るのも飽きたしな。手を繋いでやろう」


 そして両脇に下している千鶴の片腕を強引に掴むと、三島宿に向かって歩き始める風間。


「あの、仕置きって一体どんな事をするんですか?」
「三島に着くまでに考えておく」
「考えずに忘れて下さい」
「これを楽しみにしながら三島に行くのだ。忘れるわけがあるまい」
「ええっ!」


 二人はこのような会話をしながら向坂を歩き、杉並木のある赤石坂を抜け、風越坂の鬱蒼とした石畳を歩き続け、箱根峠をようやく通り過ぎてから西坂の急坂を下り、一直線の甲石坂の石畳の上を覆っている笹の葉の上を歩き続け、石原坂、大枯木坂の見晴らしの良い道を通り抜け、今度は鬱蒼とした小枯木坂を歩く。


「この坂は急ですよね……」
「下長坂だ。このような急坂で長い為に、背負っていた米が汗と熱で強飯(こわめし、おこわ)になった事からこわめし坂と呼ばれるようになったらしい」
「そうなんですかぁ……きゃあぁっ!」


 この坂を歩いている時に滑りそうだなとは感じた千鶴が足を滑らせる。


「か、風間さん! 手、手を離さないでぇぇっ!」
「許せ……」


 そして千鶴は見事に滑って転んでいた――。



 いくつもの坂の上り下りを繰り返した二人は三島宿へと向かって歩き続けた。


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