東海道-箱根宿→三島宿



 大場川を渡った二人は、三島宿に辿り着く前に三島大社にお参りをしに立ち寄った。流石に伊豆国一宮である。広大な境内は荘厳たるものがあった。


 この社は源頼朝が旗揚げして決勝祈願した所である。千鶴は、数日前の馬入川での出来事を思い出してぞっとしたが、そんな事は今の風間の恐ろしいにらみで吹っ飛んでしまった。


 先ほどから続く坂道で何度も滑っていた千鶴は、最終的に風間にも巻き添えを食らわせていた。着物を泥だらけにされて機嫌の悪い風間は何も祈願する事がないのだろう。暇を弄ばせていたが、その着物を泥だらけにしてしまった張本人の千鶴は必死になりながら、風間からの仕置きが酷いものではないようにと、ぷっくりとした唇をもごもごと動かしていた。


 千鶴は正月の日に神社へお参りに行った時に、風間に言った言葉など既に忘れてしまっていた。


 願いなんてすぐに叶えられるものではないですよ――みたいな事を言っていたような気もするが、今の千鶴にはそのような余裕はない。


 風間の口から放たれた【仕置き】という言葉が、何故か千鶴の心を乱すと同時に、何かしらの期待感を起こさせた。


 自分は欲求不満になっているのだろうか、年頃の女はいつもこんな事を考えているのだろうかと顔を赤くさせた。最近、少し気が抜けた時に限って、千鶴の脳裏には必ずといって良いほど、この男女の行為の事が浮かび上がっていた。その行為が嫌なわけではないのだ。ただ、した事のない千鶴にとってはまだ未知の世界の事であり、不安ばかりが心を襲ってくるのだった。


「さて、そろそろ泊まる宿にも着く。部屋に入ったら早速やってもらうか」
「えっ、えっとぉ……もう少し祈らせて下さい」
「長々と何を祈るというのだ?」
「色々な事を祈ってるんです」
「またつまらん内容だろう」
「わ、私にとっては重要です」


 千鶴はそう言うと、再び境内に向かって両手を合わせて目を閉じる。その姿を見つめていた風間は苦笑を漏らした。


 風間には千鶴が今、何を考えているのかが手に取るように分かる。品川宿や戸塚宿の件以来、千鶴は嫉妬という感情をしっかりと把握したのか、考え方や行動も少しずつ変化してきていた。


 風間が熱を出した夜、引きずり込んだ布団の中で縋りつくように風間に身体を委ねて眠っていた千鶴。今までは意識のある中での行動ではなかった為に驚いた。それも恥ずかしげもなく身体を隙間なく密着させて、まるで誰にも取られたくないかのように、千鶴だけのものだと言わんばかりの仕草であった。その時に、熱があろうが千鶴を抱きたいと風間は考えた。しかし約束は約束である。一時、理性を失いそうにはなったが、風間はそれを破ろうとしなかった。


 今の風間と千鶴の関係は遊びではない。夫婦になるのを前提とした関係なのだ。遊びならば風間であっても約束は破っていたかもしれない。自分が気持ち良くあればそれでいいのだから。しかし、祝言を挙げる前の男女とは、まずお互いの信頼関係を作っていかなければならない。そして、やっと身体を許せる間柄となるのだと風間は考えている。


 三島宿の【時の鐘】が暮れ六つの時を知らせる音が聞こえてきた。


「そろそろ宿に行かねばならんぞ。」


 できれば宿に到着するのを少しでも遅らせたい千鶴は、その鐘の近くを流れる川に目を留めた。


 源兵衛川。この三島には冨士の雪解け水が町の至る所で湧き出していて、その用水堀が多くある。寒い空気が流れる中、この川の水は透き通っていて美しく、川の底が丸見えだった。


 千鶴が水の中に手を差し入れてぴしゃぴしゃと音を立てる。


「暖かい……」
「三島宿の中を流れる川の水温は冬の寒さよりも暖かいらしい。だから朝には朝霧が立ち込めて幻想的な光景を作り出すのだそうだ」
「そうなんですか。この水って飲めるのかしら?」


 千鶴の手が大きな動きを見せる度に、透き通った水しぶきが目の前で輝きを放ちながら飛び跳ねる。


「ここは湧き水に恵まれている。飲めん事はないだろう」


 千鶴はそっと両手でその水を掬い取り口の中へと誘(いざな)うと、五臓六腑まで染み渡るような甘みが身体中に駆け巡った。


「美味しいです。何か疲れが取れた感じがします」
「そうか、疲れが取れたのならば早く宿へ行こうか。お前には存分に仕置きをしなければ俺の気が済まんからな」


 【仕置き】という言葉をこの甘くて美味しい水で少しでも忘れていた千鶴の顔は、冷たい外気とは別のひんやりとしたものが打ち付けてくるように凍り始めた。


「仕置きを何にするか決まったんですか?」
「ああ、決まったぞ」
「一体、どんな仕置きなんですかぁ?」
「宿に着けば分かる。楽しみにしていろ」


 風間は不敵な笑みを見せ付けると、水で濡れている千鶴の手を握りしめて宿へ向かって歩いて行った。宿までの道のりを風間に引き摺られながら亀のように歩く千鶴の姿はとても哀れなものだった。


 宿に着いた二人はすぐにその宿の女将に風呂へと案内された。余程汚かったのだろう。着物は明日までに綺麗に汚れを落としてくれると言われ、その好意に甘える事にした。


 風呂から上がった千鶴が部屋に入ると、美味しそうな夕食が用意されていた。


「うわぁ、美味しそう!」


 千鶴は膳の前に飛び付くと、すきっ腹の中へ料理を詰め込んでいく。そして、そんな千鶴を意味不明な笑みを保ちながら見つめ続ける風間は酒を大量に呑んでいた。


 まさか、酔いの勢いで押し倒す魂胆じゃないでしょうね――


 腹の中が少しずつ満たされて周りの雰囲気を感じ取れるまでの余裕を持ち出した千鶴は、酒を浴びるほど呑んでいる風間の行動をずっと観察し続けた。


 風間の目の前には十本は超えているだろう、盆に乗った銚子は既に空となっているようだ。


「か、風間さんてほんとにお酒好きなんですねぇ?」


 顔を引き攣らせて愛想笑いをしながら言うと、風間は千鶴の方を見つめながらにんまりと笑みを返してきた。


「こうでもせんと、この後の興が冷めるからな」
「興が冷める……? 一体何の事ですかぁ?」


 できるだけ落ち着きながら惚けた振りをする千鶴の事などお構いなしのように、黙ったまま、しかし顔には笑みを浮かべて酒を呑み続ける風間だった。




 夕食も食べ終わり、膳は全て下げられたその場所には二組の布団が敷かれている。千鶴が知らぬ振りをして静かにその布団の中へ入り込もうとすると、背後から制止の声が掛かった。


「待て千鶴、まさか忘れたとは言わせんぞ」
「はい、何の事ですか?」


 惚けた振りを続ける千鶴に不敵な笑みを浮かばせた風間は、自分が寝る為の布団の上にうつ伏せになった。それを見た千鶴が首を傾げて問い掛ける。


「何してるんですか?」
「揉め……」
「へっ?」
「今日はあの峠でお前に散々迷惑を掛けさせられたからな。詫びのつもりで俺の身体を揉め」
「……仕置きって身体を揉む事なんですか?」


 千鶴が唖然としながら問い掛けると、うつ伏せになった状態のままの風間が睨み付けてきた。


「この体勢が他にどう見えるのだ? 明日も早くにここを出立せねばならんから早く揉め」
「あっ、はいはい。揉むくらいなら任せて下さい」


 少しの期待外れと安堵が交じり合った気持ちになりながらも、千鶴は笑顔で風間の要求に応えたのだが――


「おい千鶴、もっと力を入れろ。全く気持ち良くならんではないか」
「だって、風間さん……筋肉が硬すぎて揉むのが大変なんですもん」


 風間が息切れを起こしながら自分の身体の筋肉を揉み解している千鶴に文句の言葉をつらつらと並べる。


「お前のふにゃふにゃとした締りのない身体と違って俺の身体は鍛え上げられているからな。もっと力を入れんか」
「ふにゃふにゃって何て言い草を……こ、これは……なかなか……私の力では揉み解せそうもありませんから按摩(あんま)でも呼びましょうか?」
「これが【仕置き】だと言ったろう? 按摩になど頼まず、何が何でもお前がやれ」
「ひ、酷い……」


 春先近いとはいえまだ冬の寒さが続く中、風間の身体を必死に揉む千鶴の額からは薄っすらと汗が滲み出ている。時間が経つに連れて千鶴の揉む手の力も頼りなく感じられた頃、ようやく風間が身体を起こした。


「まあ、このくらいで良いか。余り解れたような気はせんが……」


 頭を左右に振りながら首をぽきぽきと鳴らしていると、


「わ、私、これでも頑張ったんですよ。ああ、疲れた! では……」


 風間からの許しがやっと出た千鶴がほっとしながら眠りに就こうとすると、風間の口から制止の言葉が放たれた。


「おい、まだだ」
「えっ、【仕置き】はもう終わったんじゃ……」
「ふん、あれだけで済まされると思うなよ」


 今度は座れと言われて渋々と布団の上に正座をする千鶴の膝の上に風間の頭が乗る。


「今度は何をするんですか?」
「膝枕だ。今宵はこのままで寝る」
「ああ、そうなんですか……って、ええぇっ? 私にこの体勢で寝ろって言うんですか?」
「器用なお前ならそのままでも寝る事ができるだろう。ふむ、なかなか寝心地のいい枕だな。これだと安眠できそうだ」


 風間はそう言って、千鶴に意地悪く笑い掛けた後から静かに寝息を立て始めた。


「もう……どれだけ私を苛めたら気が済むんですか? 着物を少し汚したくらいで、ほんと執念深いんだから!」
「少しではないぞ」
「うっ……!」


 まだ浅い眠りだった風間の耳に文句が流れ込んでいたようで、文句の独り言に対する訂正を受けた千鶴は咄嗟に口を噤んでしまう。


 風間の頭を乗せている膝の上が妙に熱い。その場所が徐々に重みが増す。先ほどは浅かったが今は深い眠りに入ったようだ。風間の口元からは定期的な呼吸音が漏れ出していた。


「【仕置き】だなんて言うから、変な事を想像しちゃったけど……」


 風間はあの約束を守ってくれている――


 千鶴は自分の膝の上にある黄金の頭を静かに撫でながら微笑んでいたが、その重みと温かさが眠気を起こし始め、こっくりこっくりと頭を揺らしながら、両瞼をゆっくり下ろしていった――。




「ん……?」


 胸の辺りに何かが落ちたような感覚が走り、風間が両目を薄っすらと開けた。


 いつの間にか寝てしまっていた風間が何かが落ちた場所に目を向けると、そこには千鶴の顔がのめり込んでいた。


 千鶴の膝に頭を乗せたまま大きく伸びをした風間は、よく眠った為か頭の中もすっきりとしていた。


 千鶴を迎えに江戸に着くまでの風間は深い眠りにつく事は少なかった。しかし、雪村の家でもこの旅での夜も、千鶴が傍にいる時は意識も深く遠ざかっていく。それは千鶴に対して気を許している、安心しているという証である。そして今まさに、先程の風間の言う通りに膝枕をしながら器用に眠り込んでしまっている千鶴がいた。


「本当に器用だな。寝ている俺の頭などすぐにでも退かす事が出来る筈なのにそれもしないで……」


 風間は独り言を放ちながら千鶴の膝から頭を上げ、自分の胸に乗っている小さな頭をそっと支えながら布団の上へゆっくりと横たわらせた。


 ぐっすりと眠りに就いている千鶴はこれくらいの事では起きる事はない。風間はいつものように千鶴の寝ている横へと滑り込み、優しく自分の腕の中へと包み込んだ。この仕草の感触を身体が覚えているのだろう。千鶴もいつものようにその小さな身体を風間の腕の中へ押し込むようにして入ってくる。


 甘えている小さな子供を抱き抱えている母親のようだと、苦笑染みた笑みが零れてしまうが、この腕の中で眠っている娘は自分の妻となる女なのだ。そう思うと包み込んでいる全てを愛おしく感じてしまう。


 とくんとくんと胸の辺りで小さく鳴り響く規則正しい千鶴の心の音が風間の心に安らぎを与えてくれる。目の前の寝顔を見ると、長い睫毛がその規則正しい音と共に微かに揺れていた。


 鼻と薄っすらと開いた潤いのある唇からは温かく優しい風を吹かせている。風間が額に唇を静かに落とすと、安心し切っているその寝顔からは笑顔が漏れた。


「まさか此処までになるとは……俺も愛するという感情を持っていた男だったのだな」


 風間は千鶴を抱き込みながら天井を見上げ、瞳を閉じてはるか遠い昔となってしまったような過去を脳裏の中に引き出してみる。


 両親を早くに亡くし、周りから常に命を狙われていた風間には人を愛する心など必要がなかった。いつも気を許さぬように、そして裏切ったとしても裏切られたとしても、それが当たり前のように思っていた。


 つまりは――風間は【緊張】【警戒】【生死】と言う張り詰めた言葉で包み込まれている世界の中で生きてきたのだ。


 生き残る為に必要な事は何でもしてきた。そのお陰で今この世に日の本の中でも最強の鬼である風間千景が存在しているのだと思っていた。しかし今、生き残る為にしてきた必要な事は全てこの千鶴の為にされてきたように思えてしまう。こうして生き残ってきたのは、千鶴に出会う為であったのだと――千鶴と共にこれからの人生を全うする為であったのだと――。


 惚気る事になるかもしれないが、千鶴の為なら何でもやってやろうと思う事ができる。それ程、風間にとって千鶴は必要不可欠な存在となってしまっていた。


「お前はただの【女鬼】ではない……俺にとって大事な【女】なのだ」


 早く千鶴を自分の物にはしたいが、この旅でもっと千鶴の隠された内面を知る事になるだろう。それからでも遅くはないのだ。千鶴は鬼として生きる道を選んだ。もう風間の手の中にいる。


 風間は千鶴の寝顔の方に再び向き直り、額、瞼、頬――そして最後に形の良い唇にそっと口付けると、深い眠りの中でもくすぐったいのか、その愛おしい顔は少し表情を歪ませている。


 江戸にいた頃に毎夜見ていたと言う新選組の男たちの夢は見なくなっているらしく、魘される事もいつの間にかなくなっていた。


「これからは、俺の夢だけを見るがいい……」



 風間はそう呟くと、腕の中の小さな温もりを更に自分に引き寄せてゆっくりと意識を遠ざけていった――。


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