湯本温泉二人旅-sidestory-



 数年前に歩いた道に再び足を下した千鶴が気分を高揚させる。


 あの時の季節は春先間近の冬であったが、今は初夏。日陰の多い箱根峠の多くの坂は辛い道もあったがまだ歩きやすかった。


「千景さん、もうすぐしたら湯本温泉ですね」
「ああ、そうだな……」


 時が過ぎればあの時の約束など忘れてしまっているだろうと軽く考えていた風間が溜め息を吐く。


 千鶴はあの時の約束をしっかりと覚えていたのだ。毎日のように風間の休みを聞いてくる千鶴。何故にそんなに休みが気になるのだろうと問い掛けてみると、


「えっ、だって箱根に行くんですもの」


 と言い出したのだが、正直に言うと、風間はその事をすっかりと忘れてしまっていた。


「何故に箱根なのだ?」


 再び問い掛けた瞬間、千鶴の両目からは大粒の涙が溢れ出し、その場に崩れ落ちた。


「酷い! 鬼は約束を守るって言ってたのに!」
「あ……」


 約束という言葉で風間は東海道を旅している時の記憶を思い出し、泣き続ける千鶴を宥め、天霧に長い休みがある時期を教えてもらい、初夏に入る頃に千鶴との約束がようやく実現したのであった。


 湯本温泉に行くまでに二度目の約束である【箱根細工】を購入する。その時の千鶴は幸せいっぱいの笑顔を風間に向けていた。


 道中、千鶴の足取りは軽いが風間のは重い。


 初夏と雖も夏のむし暑さが苦手な風間にとっては酷暑。湯本温泉に到着するまでには夏バテ状態にまで陥っていた。


「早く湯本に行って冷酒が呑みたい……」
「もうすぐですから頑張って下さい」
「何故、この季節に長期間の休みを作ったのだ……天霧めぇ……」
「天霧さんだってわざとじゃないんですから」
「いや、あいつはきっと嫌がらせにこの時期にしたに違いない」
「そ、そんな大げさな……」
「くそぉ……」


 千鶴が愚痴り続ける風間を支えながら箱根峠を越えて行く。そうしてようやく湯本温泉で二人が泊まる宿に到着をした。




「やはりこの季節には冷酒だな」


 先程までの夏バテはどこへやら――風間が脇息にゆったりと寛ぎながら冷酒の入った盃に唇をつける。


「さっきまでの機嫌の悪さが嘘みたい」


 風間の上機嫌な姿を見た千鶴が苦笑を漏らす。


 実をいえば、ここに来る約束をしていた事を理由にしていた千鶴だが、風間と二人っきりの旅をもう一度してみたいと思っていたのだ。それを天霧に伝えると快く了承をしてくれた。ただ、人間と同じく鬼も春の田植時など色々な行事があり忙しく、結局それらが落ち着いた初夏になってしまった。


 数年が経ったが二人の間には子供ができなかった。それは天霧にとっても風間家の血が絶えるかもしれないという由々しき問題ではあったのだが、風間は少しの年数は千鶴と二人きりの暮らしがしたいと願い、子ができやすい時期の艶事にはかなり慎重になっていた。


 風間と二人きりの暮らしも悪くはなかった千鶴だが、やはり愛する風間との子供は欲しい。その願いをこの旅の中で風間に伝えようとも考えていた。


「そろそろ温泉に入って来い」
「そうですね。ところで千景さんは入らないんですか?」
「この酒を呑み終えてから入る」
「そうですか……」


 何か言いたそうな顔をしている千鶴を、唇に盃の縁をつけながらの風間が見つめる。何が言いたいのかを理解した風間が手に持っていた盃を静かに置いた。


「共に入るか……」
「はい、入りましょう!」


 何とも嬉しそうな顔をするのだと、千鶴の笑顔を見た風間も自然と笑みが零れていた――。


「この湯元温泉の他にも【箱根八湯】といって、この湯元、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉に木賀、芦之湯。そして開湯は古いがこの街道からは遠く離れた姥子の湯がある」
「えっ、そんなにあるんですか?」


 風間の説明に千鶴の目が大きくなっている。箱根温泉は有名な場所だが、育て親であった網道は千鶴をできるだけ人目に触れさせなかったらしく、風間に出会う前に京に赴いた時が初めての旅だったのだそうだ。だから、江戸の庶民にとって気楽な行楽地であるこの箱根に多くの温泉がある事も全く知らなかったのである。


「しかし、この箱根で一番規模が大きく有名なのはこの湯本だな。何せ街道沿いにある為、便利だったのだろうな」
「ああ、確かにそうかもしれませんね」


 風間は千鶴に親切丁寧に説明をしながら、そして千鶴は風間の説明をしっかりと聞きながら温泉に浸かりに歩いて行った――。




 幕を張って借り切りができる【小風呂】に入った風間と千鶴は、周りに音が聞こえないように静かに口付けを交わす。そんな二人の周りの湯も何かを感じ取ったのか、静かな小波しか起こさなかった――。




 温泉に長いこと浸かっていた風間と千鶴は部屋で夕食を食べてから布団の上で寛ぐ。


「こんなにものんびりしたのは久し振りだな」


 春先から忙しく休みの少なかった風間が欠伸をしながら呟くと、千鶴が本当に――と頷いていた。


「ようやく一段落しましたものね」
「ああ、そうだな……」


 風間が両瞼を閉じていると、目の前に千鶴が近づく気配を感じた。


「お前から温泉に誘ったり、そのような行為をしてくるのは珍しいな」


 瞼を閉じたままの風間が言葉を放つと、目の前の気配が一瞬だけ動きを止めた。


「千景さん……」
「何だ……?」
「あの……そろそろ子供、欲しいです」


 閉じていた瞼を上げた風間は、目の前にある千鶴の顔を見つめた。


「天霧が何か言ってきているのか?」
「いいえ……あ、それもありますけど……」


 天霧は風間の前でいつもこう言う。


 そろそろ――


 その後の言葉を既に理解していた風間は、天霧のその言葉に対して何も答えなかったのだが、どうやらその言葉が千鶴にも伝えられたようだ。


「だから、この旅も機嫌よく行かせてくれたのだな」
「これは私から天霧さんに頼んだ事ですから……」
「しかし普通、あの天霧ならば反対するはずだ」
「そうですよね……千景さんも何かと忙しいし……」


 布団の上でシュンとなる千鶴の頬に片手を添えた風間が問い掛けた。


「俺との子が欲しいか?」
「ええ、それは勿論です。でも、何でそんな事を聞くんですか?」
「風間家の跡取りが欲しいのではないのだな?」
「えっ……?」
「天霧が風間家の跡取りとなる子を早く作れと言ってきたから、この俺に懇願しているのではないのだなと聞いているのだ」


 風間の緋色の瞳が真面目な色を放つ。


 風間家の為の子は要らない。その経験は風間自身が味わってきたが、とても辛いものだった。だからこそ、自分と愛する千鶴の間に生まれる子にはそのような思いをさせたくはなかった。


「わ、私は、千景さんとの子が欲しいだけです。そりゃ、この数年間の二人の暮らしは楽しかったですよ。今も楽しいです。でも、子供がいたらもっと楽しくなるかなって思うんです」
「そうか……」
「風間家の跡取りがどうのこうのって私には難しい事は分かりませんけれど、愛する男(人)の子供が欲しいって思うのは当たり前じゃないですか」
「そうだな……俺もそろそろお前との子が欲しいと思っていたところだ」
 
 その返事を受け取るかのように千鶴が風間の唇に自分のそれを重ねてくる。最初は啄む程度の口付けが徐々に深くなり始めた。


 千鶴の頬に添えられていた風間の片手が首筋を通り過ぎて寝間着の襟元を静かに乱していく。その後には二人が布団の上にもつれ込む音が一瞬だけ部屋の中に響き渡った。


 西の里に向かう時の箱根では、千鶴はまだ風間のものではなかった。しかし、今は既に風間の正式な妻であり、誰のものでもなく、風間一人だけの千鶴だ。あの時とは違って、今回の旅では風間の持つ気持ちにも余裕がある。


 片手だけしか動いていなかった風間が両手を使い始める。箱根は標高が高い為、夜はとても過ごしやすく、風間の夏バテも既に解消されている。


 開け広げていた窓からは初夏の夜の涼しい風が流れ込んできて、それが部屋の中をぼんやりと照らしていた行燈の火を掻き消していった。


 暗闇の中で布が擦れあう音、そして二人の荒い息と喘ぎ声が聞こえ始める。



 外からは行燈代わりの蛍の光、そして夏虫の声がそれらに合わせて大小の鳴き声を放ち始めていた――。


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