東海道-三島宿→沼津宿



「痛い……痛いから止めてぇぇっ!」
「早く起きんか」
「だから起きようとしているのに風間さんが……い、痛いっ!」


 上に跨って頬の肉を左右に引っ張る風間に抗う千鶴。千鶴が起きる事を知っていてわざと知らぬ振りをして遊ぶ風間のこの行為は暫く飽きられそうにもない。


 ようやく布団から脱け出す事ができた千鶴が引っ張られた個所を赤いままに、鏡の前で乱れた髪の毛を整えていると、その背後に映る風間は悪戯ができた事に満足そうな笑みを浮かべていた。


「本当に性格の悪い……」
「全くお前の頬はよく伸びて面白いな」
「風間さん、聞いてます?」
「明日は腰の肉でも摘まんでやろうか。それとも……いや、胸は止めておこう。引っ張る程に肉がついておらんようだからな」
「か、風間さんっ!」


 三島宿の朝はこんな感じで始まっていた――。


 三島宿を出た二人は沼津宿に向かって歩いて行く。


 境川を渡り駿河国に入ると、他の宿では少なかった常夜灯の数がかなり増えていた。


 この常夜灯は街道筋に設置されており、一晩中灯火を点けておくものである。


「この駿河は地元の火の神である秋葉神社信仰と結びついているからな、他に比べて特に多く設置されている」
「夜はきっと明るいんでしょうね。私は暗いのがあまり好きじゃないですから、これだけの数の常夜灯があれば安心します」
「ふん、これだけあり明るいと、忍び愛もできんではないか」
「またそんな事言って……浮気は許しませんからね!」


 千鶴が嫉妬すると知っていてわざと男女関係の話題をする風間は、案の定、ふくれっ面をした千鶴の顔を見て楽しそうに目を細めた。


「お前が嫉妬をすると鬼特有の香りが出るな」
「……という事は、私はやっぱり鬼なんですよね?」
「ああ、そうだ。まあ、病気はあまりしないし怪我をしてもすぐに血が止まる。そしてあの小太刀が、お前が鬼だという証拠を見せてくれているが、どうも人間のように思えてならん」
「それって、鬼の力の事を言ってるんですか?」
「それと女鬼が醸し出す艶も足りん」
「なっ……!」


 千鶴が顔を真っ赤にさせて怒りを表すが、


「ここが八幡神社だ。お前を川に引きずり込んだという頼朝挙兵の報せに奥州平泉より駆け付けた義経がここで初めて頼朝と対面をしたらしい」


 と、違う話題に変えた為に、千鶴の中には怒るどころか恐怖が湧き起こってきた。


「よ、頼朝……」
「死んでもしつこい男かもしれんぞ。狙われんようにせいぜい気を付けるのだな」


 そう言って風間はその神社の中に入ろうとする。千鶴はその風間の腕を両手で掴んで引っ張った。


「は、入らずにそのまま次の宿に行きましょうよ」
「ここにはその時に腰かけたと言われる一対の石が残されているらしいのでな。見に行かんか?」
「い、嫌です……絶対に嫌っ!」
「ん? 向こうから人影が見える。足がないな……」
「か、風間さん!」


 千鶴が風間の背中に顔を押し付けて全身を震わせる。思う存分、千鶴をからかって楽しんだ風間は満足げな笑みを浮かべる。しかしこれがおふざけであると知られてはならない為、肩を大きく上下に揺らして仕方のなさそうな溜め息を吐き出した。


「では入らずに先に進むとするか……」
「は、はい、そうしましょう!」


 千鶴は風間の腕にしがみ付いたまま。それで気分を良くした風間はしがみ付いたままの千鶴を引っ張るようにして歩き始めた。


 その時には既に風間は気付いている。誰かの監視の目がある事を――。しかし、今はまだどこから見張られているのかが把握できない。鬼の中でもかなり力のある者の行動であるから――。


 風間が辺りをぐるりと見回すと、先ほどから恐怖を味わっている千鶴が震え声を出した。


「な、何かいるんですか?」
「いや、何もいない」


 風間はそう答えると、沼津宿の方に顔を向けて再び歩き始めていた――。


 街道にはよく見られる松並木の間を歩き続ける風間と千鶴は黄瀬川を渡り、沼津宿に入った。


 少し歩いた所に【潮音寺】という寺があり、その中には亀鶴観音堂と呼ばれる御堂がある。


「その観音堂には一つの伝説があってな。黄瀬川郷一の長者である小野善司左衛門政に子供がなくそれが唯一の苦悩であったらしい。そこでその夫婦がその観音に願をかけた。そして満願の日に子供を授かる事ができたらしい」
「すごいですねぇ……」
「しかし、だ。その子供は女だったのだが、その娘が七歳の時に夫婦は死んでしまった。その娘の名は亀鶴姫。成長する毎に美人になり、海道一の美人と言われるようになった。そして十八歳の時に遊女となったらしい」
「遊女、ですか……」
「まだ続きがある」
「まだあるんですか?」
「ああ、悲しい結末だ……」
「か、悲しい? 一体どうなったんですか?」


 風間の言葉に千鶴が喰いついてくる。どうやら千鶴もそこらにいる女たちと同じで悲恋話にはかなり興味があるらしい。


 風間は大磯宿の【虎御前】の話と関係があると伝えた後に、


「富士の裾野で源頼朝が曽我兄弟の仇討の巻狩り【軍事演習】を行った時に、頼朝は曽我兄弟に仇討された寵臣であった工藤祐経の愛人であった亀鶴姫に何度も声をかけたのだそうだが、それを断り続けた。しかし、相手は天下の将軍。その男からの誘いを断り切れなくなり、黄瀬川の百沢の滝に身を投じてしまったらしい」


 そこから黄瀬川の名が遊女の代名詞となる源氏名となった事を話そうとした風間だが、


「頼朝って生きている時から酷い男だったんですね!」


 と千鶴がいきなり怒りをあらわにした為、


「いや、仇討をしたのは頼朝ではないぞ」


 と伝えると、それでも何か納得がいかないのか、千鶴は自分の中にある考えを吐き出してきた。


「で、でも寵臣の愛人を……まあ、遊女ですからどのような男の方についても良かったのかもしれませんけど、その亀鶴姫は何度も断っているっていうのに、しつこく声を掛けるなんてしつこい男です」
「それ程に美しかったという事だろう」


 その言葉を吐き出した後、風間はねっとりとした視線を感じてその方に顔を向けると、やはり――嫉妬染みた表情を浮かばせた千鶴の顔が視界に飛び込んできた。


「風間さん……」
「分かっておる。美しい女に声を掛けるなと言いたいのだろう?」


 そう答えた瞬間、風間の横を好みの女がすれ違う。男という生き物は厄介なもので、そういう女が視界に入った時にはどうしてもそちらに目がいってしまうものである。そして風間も勿論そうしてしまった。


「か、風間さん!」


 その動きをしっかりと見ていた千鶴が風間の腕の皮を抓る。


「痛いではないか!」
「今、あの女の人を見たでしょ?」
「見ておらん!」
「見ました、絶対に見てました!」



 二人は再びやいやいと言い合いながら歩き始める。それを見ていた通りすがりの旅人たちには笑われるといった、何とも恥ずかしい旅の続きとなっていた。


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