東海道-原宿→吉原宿



 今朝の風間は千鶴の頬を引っ張るような事をしてこなかった。その理由は簡単である。


 二人は寝坊をしていた。


「か、風間さん! もう朝ですよっ!」
「何だと? あ……」


 日の光が高い位置にある。まだ南中央に傾いてはいないが、昼近くになろうとしている事は確かであった。


 二人は早々に出立をする準備をして宿を出た。


「昨夜は酒を呑み過ぎたか?」
「そんなに呑んでいませんでしたよ」
「ふん……疲れが溜まったか」
「いえ、それも違うんじゃありません?」
「では何だ……?」
「えっと……」


 二人の口付けは夜更けまで続いていたような気がする。それが原因ではないかと思って口に出そうとしたが、何となく恥ずかしくて口に出せないでいる千鶴を風間が見つめていた。


「な、何ですか……?」
「お前、よく起きれたな」
「あ、あれは……」


 千鶴は不思議な夢を見ていた。いや、不思議ではない。懐かしい夢だった。魘されるようなものではなかったが、新選組の仲間たちがその中にいた。それを風間に話そうとしたがなかなか喉奥から引き出せない。


「あれは……?」
「いえ、何でもありません……」


 千鶴がそう答えると、風間は何も言わずに溜め息だけを吐いて歩き始めていた――。




 北に富士沼、南に大洋漫々たり。その中の曠高(こうげん)なればこの名あり。原、吉原、蒲原を三原(さんげん)という――


 美しい景色は少しの間だけでも千鶴の頭の中を無にしてくれる。昨夜見た夢の中では新選組の思い出ばかりが蘇っていた千鶴の瞳の中にはその欠片さえ残っていない。


 江戸にいた頃は一時でも忘れた事がなかったのに――


 あの時の思い出をいつか忘れてしまうのではないかと、千鶴の心の中でその不安が押し寄せてくる。しかし千鶴の不安とは対照的に、このような寒さの厳しい季節にしては珍しく、景勝左富士の山が日の光りを浴びて見事な輝きを地に降り注いでいた。


 二人が歩いている原宿は飯盛女のいない宿で有名である。それが確かなように、この宿の街道にはそれらしき女たちが一人もいなかった。


「ここは他の宿のように飯盛女がいなくても経営ができたのは、幕府の課役の追加負担がなかったかららしい」
「どうして課役の追加負担がなかったんですか?」
「原宿を作った名主の大橋五郎左衛門という男が徳川家康からその功を認められて【諸役不入之事】の一札を取っていたらしい」
「諸役不入って、年貢などを納めていなかったんですか?」
「許されていたらしいな。宿場では珍しい例だ」
「そうなんですか……」


 からかいもなく、嫉妬もない穏やかな景色の中を、風間と千鶴は真面目な話をしながら吉原宿へと向かって行った。


 原宿と吉原宿の間の街道沿いには田園風景が広がっている。春はまだ遠いかな、その田んぼはまだ茶けた色が地面を覆い尽くしていた。


「ここ辺りは人家が少なく道中が危険だったのでな。街道の整備、そして農民の定着を兼ねて、幕府の奨励で新田開発が進められたらしい」


 風間がそう言いながら隣りを歩く千鶴の手を強く握り締めてくる。その手は大きくて温かくて安心ができたが、最近の千鶴は気持ちが不安定なのか、風間に身体の一部を触れられる度に心臓が驚きの音を鳴らす。ここで千鶴は昨夜の気付いた事が間違いだと納得ができた。


 風間に見つめられる度、身体に触れられる度に千鶴は動揺を起こして何もできなくなったり言葉が出せなくなるのだという事に気が付いた。


 強情なところも邪魔をしているのだろうが、殆どの理由は風間を愛しているから起こる衝動に違いない。


 千鶴の気持ちの変化が風間の考えていた通りになり始めている――。


 三島宿を出る前までは風間にはっきりと伝えられていたような気がした千鶴は、自分の心の中のちょっとした変化に戸惑いを感じ始めていた――。


 二人が歩みを進めていると、【六王子神社】があった。


「六王子神社って、変わった寺名ですね」


 と千鶴が風間に問い掛けると、


「この神社には言い伝えがあってな。沼川と和田川、そして潤井川とが合流している深い淵になっているところを三股と呼ばれていたらしい。その淵に龍が済んでいて、毎年の祭りのときに少女を生贄として下げるしきたりがあったのだそうだ。そこへある巫女七人が京に向かう途中、この生贄のくじを引き、一番若い【おあじ】という女が当たってしまった。残りの六人は国許へ引き返す途中に悲しみのあまり世をはかなんでここ浮き島ヶ原の富士沼に身を投げてしまった。そしてこの柏原新田の人々が六人の亡骸を一か所に祀ったのがこの寺だと言われている」


 と説明をしてくれた。そして千鶴が両目に潤いを作り上げながらその【六王子神社】の鳥居を見つめていると、


「というのは表向きの話らしいが、実際はかなり酷い話だ。たまたま通りかかった巫女のうちの一人を生贄にした村人たちは残りの六人を犯した。巫女は処女として生きる道を閉ざされてしまい、それを儚んで自害したというのが本当らしい。そしてその罪を償い、村人が祀ったらしいぞ」


 風間がもう一つの話の説明をしてくれたのだが、それを終えた後、両目に潤いを作っていた千鶴が【六王子神社】に向かって叫んだ。


「お、男って……本当に最っ低!」


 そして風間に振り向いた千鶴は、


「風間さんも最低ですっ!」


 などと言い放ってくる。


「俺が最低だと……?」


 風間が不本意な言葉を受けたと顔を顰める。


「そうです! 女遊びをする男は最低です!」


 千鶴がそう言って【六王子神社】の鳥居に向かってお辞儀をして去って行く。


「おい、俺のは犯したのではないぞ。同意のもとでの行為だ」
「女の身体だけを求める行為は犯したのと同じです!」
「違う!」


 風間が少し強い口調で反論をすると、目の前の千鶴の両目には再び潤いが生じている。


「お、男って……女の気持ちも分からない最低な生き物です!」
「待て千鶴! 全く、泣いていると思えば怒り、怒っていると思えばまた泣き……一体何なのだ?」



 言い合いの時だけは最後まではっきりと物言う千鶴の後を追い掛けていた風間もまた、千鶴の変化に気付いていたのだが、今まで女の感情には全く触れずに生きてきた為、多少の戸惑いと面倒臭さを感じる。そして、風間が全身に怒りを露わにさせながら歩き続ける千鶴を追い掛ける形で元吉原宿、中吉原宿を通り過ぎ、現在の正式な宿場である新吉原宿へと向かって行ったのであった――。


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