東海道-蒲原宿→由比宿



「風間さん、起きて下さい」


 千鶴が布団の上に横たわっている風間の身体を揺する。


「ん、もう朝か……」
「ええ、最近は起きるのが遅いんですね? 昨日の朝も寝坊をしましたし……」
「最近ではない。昨日と今日くらいだ」
「そうですけど……」


 本当はというと、風間はしっかりと目覚めていた。しかし、昨日の寝坊の時に千鶴に起こしてもらい、それも悪くないと感じて寝たふりをしていたのである。


 千鶴も昨日の寝坊騒ぎがあったせいか、いつもよりも早くに目覚めて風間よりも先に布団から出ていた。そして朝食が部屋に運ばれてきた時に起こしてきたのであった。


「ほら、そろそろ起きないと出立が遅れますよ」


 千鶴が風間の身体にかかっている布団を引き剥がす。それを狙ってか、風間の腕が千鶴の腰に絡み付いた。


「あっ!」
「全く朝から騒々しい女だ。少しは静かに起こす事ができんのか?」


 風間手によって身体を動かす事ができない千鶴が顔をフイッと背けながら口を尖らせる。


「だ、だって、風間さんがなかなか起きてくれないから……」
「このような起こし方をされれば誰だって嫌なものだ。もっと違う方法で起こせ」
「例えばどんなふうにですか?」


 千鶴が思惑通りの問い掛けをしてきたと、風間はニヤリと笑う。そして腰に絡ませていた腕に力を入れて強く引き寄せる。そして唇が触れ合う寸前のところまで顔を近付けた。


「例えば……そうだな。このように密着して男を誘うような感じでしてくれ。ちょうど今、お前の身体は俺の両足の間に挟まっている。これがまたいい……」
「えっ? あ、ほんとだ!」


 千鶴の身体、というよりも下半身が風間の股の間にぴったりと挟まっている。そこから慌てて退けようとしたのだが、風間の直角に曲げている両膝によってしっかりと固定されている為に脱け出す事もできない。それなのに必死になってそこから脱け出そうと試みる千鶴の顔は力み過ぎで真っ赤になっている。それを見た風間が楽しそうに目を細めながら唇を揺らした。


「ほう……無理に嫌がる態度を見せるとは、お前も男に抱かれるコツを覚えたか?」
「お、男に抱かれるコツって……そんな事できる訳がないじゃないですか! これは本当に嫌がっているんです!」


 しかし、風間は千鶴の言っている事など全く耳に入れずにいきなり唇を塞いできた。


「ん……っふ……」


 確かに風間の言う通りだ。千鶴は嫌がっている振りをしながらこの口付けを待っていた。


 身体が燃えるように熱い――


 身体の芯からその熱さによって溶かされた何かが溢れ出てくるような感覚が生じた。


「……ぁ」


 風間の唇が千鶴から離れると、名残惜しそうな漏れ声が薄っすらと開け放たれた口元から吐き出される。それを聞き逃さなかった風間が満足気な笑みを浮かべた。


「何だ、物足りなかったのか?」
「そ、そんな訳ないでしょっ!」


 風間のその言葉に慌てて反論をする千鶴。しかし、千鶴の心中の思いを既に見通している風間は更に笑みを濃くさせた。


「これから毎朝は口付けで俺を起こしてくれ」
「な、何で私が風間さんに口付けなんてしなくちゃいけないんですか!?」
「俺の唇に触れる事を許可してやったのだ。有難く思え」
「な、何が有難く思えですか! それに私は口付けなんて慣れていないんですからねっ!」
「何度も繰り返しているうちに慣れる」
「なっ……!」
「西の里に着くまでの予行練習だ」
「ま、またそんな事を言って!」
「騒々しく喚くな……」


 風間が流した吐息が千鶴の唇に吹きかかる。それだけでもう腰が砕けてしまいそうなほどだ。


 暫くの間、千鶴が風間を見つめながらボーッとしていると、急に腰の辺りが自由になり布団の上にぺチャンと尻餅をついてしまった。どうやら今までは風間の両足と腕で支えられていたようで、いくら腰を上げようとしてもなかなか立ち上がる事ができない。そんな千鶴を見つめていた風間が呆れ返ったような溜め息を吐いた。


「これくらいで腰が抜けるとは。子を孕ませる行為をしたとなれば一日中床から上がれんのだろうな。全く、ひ弱な……」
「ひ、ひ弱なんかじゃありません! これくらいの行為は毎日していたらすぐに慣れますから……いえっ、慣れて見せます!」


 最後の【ひ弱】という言葉でカッとなった千鶴の口からは咄嗟に自分でも信じられない言葉が解き放たれていた。そしてその言葉をしっかりと内耳に流し込んだ風間がニイッと口角を上げた。


「ほう……」
「あっ……」


 千鶴が慌てて口を両手で塞いだが既に手遅れ。風間はその両手を優しく掴むと口元から静かに引き剥がした。


「先程の言葉はしかと聞き届けたぞ。必ずや実行してもらうからな」
「あぁぁ……売り言葉に買い言葉……」
「ふん、これはまた興のある遊びを思いついたものだ。約束事に記しておくとするか」
「ええっ!? これって約束になるんですか?」
「当然だ。お前は慣れてみせると言い切ったのだ。これは約束の中に入るだろう」
「嘘ぉ……」


 千鶴この発言により、翌朝からは口付けで風間を起こすという約束が成立してしまったのであった――。




 蒲原宿の旅籠を出た二人は由比宿へと向かって歩き始める。
 
 蒲原宿は本陣一、旅籠四十五軒の宿場であり、総家数は四百八十八軒である。古きを重んじる町であるようで、かなりの年代物の建物がどっしりと構えている場所であった。


 この蒲原宿には【カンバラ】を逆さにして【バラカン気質】という言い方がある。この意味は気が荒く喧嘩っ早い。しかし裏表がなくて明るい性格の者の事らしい。


「さばさばしたような性格の方がそう言われているんでしょうね」
「さあな、これはどうやらこじ付けらしいとも言われているが……」
「そういう気質の方が多かったのかもしれませんね。まあ、風間さんには全く似合わない言葉ですけど」
「それは一体どういう意味だ?」
「だって、風間さんは気は荒い方でもなさそうですし、喧嘩っ早くはないですけど、表裏はありそうで、執念深くて、そして明るい性格ではありませんものね」


 確かに風間の性格は【バラカン気質】の要素を持ち合わせてはいない。しかしいくらそれが真実とはいえ、わざわざ口に出さなくてもいいような気がする。


 女らしい色気のある言葉など一つも出さずに相手の欠点はズケズケと述べる千鶴を風間は睨み付けた。黙らすにはただ一つ。風間は歩みの速度を上げると、


「か、風間さん、速すぎます!」


 千鶴は追いかけるのが必死になり、【バラカン気質】の会話はそこで打ち止めとなっていた――。


 暫く歩いていると、風間の隣で千鶴が鼻をヒクヒクと動かしている。


「くしゃみでも出そうなのか? 別にしても構わんが口を押えてからしろ」


 と風間が言うと、その子供扱いのような問い掛けに気を悪くした千鶴がプウッと頬を膨らませて言い返してきた。


「匂いを嗅いでいたんです。風間さんにはこの匂いが分かりませんか?」
「匂い……?」


 千鶴にそう言われて風間も鼻を動かすと、確かに潮の香りが鼻腔に流れ込んできた。その匂いで風間はこの場所を見渡した。


「ここは桜海老漁が盛んな場所だ。それに白子も有名だしな。ああ、お前にあれを買ってやろう」
「あれ……?」


 風間がとある一軒の店の中に入っていく。それに続いて千鶴も中に入ると、


「うわぁ! 美味しそう!」


 そこには桜海老や白子があった。しかし、風間はその名物には目もくれず、店主に何やら小さな声で話している。風間の注文を聞いたらしい店主がニコニコ顔であるものを手渡してきた。金と交換で受け取ったそれを千鶴に手渡した風間。


「これ、何ですか?」


 千鶴が手渡されたものを凝視していると、風間はフッと笑って店の外に出て行ってしまう。


「ちょ、ちょっと風間さん! 待って下さいよ!」


 千鶴は手渡されたものをしっかりと持つと、風間を追い掛けて店の外に飛び出した。


「それは【イルカのスマシ】という食い物だ」
「【イルカのスマシ】?」
「イルカの鰭(ひれ)や皮を茹でて加工したものでな。子供のおやつや酒の肴として食べられているものだ」
「へえ……美味しいんですか?」
「さあな。独特の癖があるが、俺は美味いとも不味いとも思わん」


 千鶴がそれを食べてみると、コリコリとした歯ごたえがあった。しかし風間の言う通りで、独特の癖があり、思わず顔を顰める。


「私は苦手かもしれません……できれば桜海老か白子の方が良かったかな」
「ふん、そう言うと思ったわ」


 風間はそう言うと、千鶴の手からそれを取り上げて自分の口の中に放り込んだ。


「酒があると不味くはないのだがな……」


 そう言いながらも顔を顰める風間もどうやらあまり好きではないらしい。千鶴はそんな風間の顔を見つめながら苦笑を漏らした。


「私は苦手でしたけど、好きな人にとっては本当に美味しいものなんでしょうね」


 二人は由比宿に入る手前で、口直しにと桜海老と白子を買って食べる。


「今日はさった峠を越えるんですよね?」


 千鶴が桜海老を頬張りながら問い掛けると、目の前で白子を摘まんでいた風間が首を横に振った。


「そうしようと思ったのだが、今日は由比宿で足止めとする」
「何故ですか?」
「さった峠はかなりの難所だからな。できれば朝のうちにその峠に入っておきたいからな」
「今日はさった峠を越えられる余裕がないって事ですか?」
「まあ、そのようなところだ。それに……」


 風間が千鶴をジッと見つめてくる。


「な、何なんですか?」
「いや、明日の朝が楽しみだと思ってな」
「明日の朝……?」


 何の事やらと千鶴が首を傾げると、風間が口を歪ませて睨み付けてきた。


「よもや今朝の約束を忘れたわけではあるまい?」
「あっ……」
「既に約束事の紙にも記してある。撤回は無理だからな」


 風間はそう言うと、約束事の書いた紙を懐から取り出して千鶴の目の前でひらりひらりと翻す。それを取り上げて破ってしまえば、今朝に決定した約束事など簡単に撤回する事ができるかもしれないと考えて腰を浮かせた千鶴だったが、ちょっと待て――と、再び腰を元の位置に下した。


 あの約束事の中には千姫に会わせてもらうという内容なども書き記されている。もしその紙を破ればあの風間の事だ。きっと千姫に会う事も却下とされてしまうだろう。


 千鶴が風間の方に視線を向けると、完全に勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


「明日の朝は……」


 そう呟いて再び風間の方を見ると、


「明日の朝は何だ? この俺の唇に触れられるのが余程嬉しいのか?」


 などと問い掛けてくる。しかし千鶴は顔を真っ赤にさせながら、残りの桜海老と白子と同時に口の中に放り込んだ。


「明日の朝は地獄のようだと感じただけです!」
「地獄? 天国の間違いではないのか?」
「いえ……違います……」
「正直に言え。俺に口付けができるのが嬉しいのだろう?」
「……嬉しくなんかありません」


 本当は口付けができるのが嬉しい。それなのに正直な気持ちは言葉として出てこず、憎まれ口しか放せない。そんな自分が疎ましい。


「全く、可愛げのない女だ」


 最後に放たれた風間の一言で、千鶴は先ほど放った地獄の底に落とされたような気持ちになっていた――。


 心とは反対に腹一杯になった風間と千鶴が由比宿に到着をする。


 由比宿は【湯居】【由井】などとも呼ばれた、鎌倉時代から続く古い宿場町である。その宿場を入ってすぐの所に【お七里役所】があった。


 この役所は、紀州藩が幕府の動向をいち早く知る為に、江戸と紀州の間に七里ごとに設けた連絡機関であるらしい。


「その連絡機関として五人一組の飛脚が配されていたらしい」


 と風間が千鶴に伝える。


「徳川家康の死後に駿府を追われて紀州和歌山に国替えをさせられた徳川頼宣が、幕府の行動を警戒して情報を得る必要があったから設けたのだそうだぞ。その五人一組の飛脚が江戸から紀州間に要した日数はたった八日前後。もっと早い飛脚ならば四日あたりで江戸と紀州の間を走ったのだそうだ」
「たった八日間で、それにもっと早ければ四日間ってどれだけの健脚だったんでしょうね」
「かなり鍛えられていたのだろう」



 街道右手には由比宿本陣が大きな面構えを見せている。ここの本陣は千三百坪もある広い敷地であり、その中には外からも見る事ができる【物見櫓】が高く聳えていた。それを見ながら歩き続けた二人は、今日の宿にする旅籠の中へ姿を消していった――。


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