東海道-由比宿→興津宿



 さった峠を越えるのに十分な休息をした千鶴が鳥の声と共に目覚める。そして隣に顔を向けると、まだ目覚めそうにない風間の寝顔があった。


 ごくりと生唾を呑む千鶴。


 今日からは口付けをして風間を起こさなければならない。形の良い輪郭を見つめながら少しずつ顔を近付けていくが、触れ合う瞬間になって布団から飛び起きた。


 「駄目……緊張する……」


 そして布団の上でまだ眠っているだろう風間の方に再び視線を向けた千鶴は全身を硬直させた。


「か、風間さん、起きてたんですか?」
「騒々しい動きで布団から起き上がれば、誰だって目が覚める。覚めんほど鈍感なのはお前くらいのものだろう」
「ひ、酷い……」


 しかし嘆いている暇はない。何故なら、風間の緋色の瞳が鈍い光を見せた為であったからである。それは早く口付けをしろと言っているようなものだ。しかし、昨日に風間と約束したのは口付けをして起こせという内容であり、今の風間は既に爽やかに目覚めている。だから千鶴は素知らぬ振りをして布団から脱け出そうとした。


「おい、千鶴」
「な、何ですか?」
「何か忘れておらんか?」
「はい? 何か忘れてるって何がですか?」
「昨日の約束をしておらん」
「だって、風間さんはもう起きているじゃないですか」


 千鶴が最後にそう答えて脱け出そうとしていた身体を更にそうしようとした時、風間の両腕が背後から伸びて絡まってきた。


「きゃあっ!」
「約束を破るとは、お前は本当に鬼なのか?」
「お、鬼でも何でも、あの約束は眠っている風間さんを起こす為の行為であって、今はもう起きてるから必要ありませんってば!」
「目覚めていようがいまいが約束は約束だ。絶対にやってもらうからな」
「そ、そんなぁ……!」


 風間の絡み付く腕が千鶴の身体を布団の中に引きずり込んでいく。そして掛布団を頭まで被せた風間がニヤリと笑んだ。


「さあ、してもらおうか……」
「うううぅっ!」
「今日はあのさった峠を越えねばならん。早くしろ」
「もうっ、分かりましたっ!」


 口付けをするよう急かしてくる風間にぶっきら棒な返事をした千鶴が軽い口付けを施すと、それが不満だったのか、腰に絡み付けていた手を離し、千鶴の後頭部にそれを添えると、風間は自分の顔の方に押さえつけてきた。


「ふうぅっ! ううふっ!」


 舌が入り込む濃厚な口付けが布団の暗闇の中で繰り返される。その中は二人の体温の熱気でかなり暑くなっていた。全身がしっとりとした湿り気を帯びてくる。


 二人の吐き出す吐息が熱い――


 このまま抱いて欲しい――
 抱き続けて欲しい――


 そう感じた瞬間に千鶴の股から何かが流れ落ちる感触を覚えた為に思わずその個所に両手を宛がってしまう。


「どうした?」
「いえ、何でも……」


 風間に問い掛けられたものの、何やらこれが恥ずかしい内容であると察知した千鶴は、顔を赤く染めながら布団の中から這い出ていく。それを見ていた風間が意地悪く笑った。


 どうやら肉欲的な愛をも感じ始めたようだ――


 布団から這い出た後の千鶴は、腰を抜かしたようにその場に座ったまま、暫くの間はそこから動く事はなかった――。






 由比宿の旅籠を出る時には既にその感触は消え、二人は足早に難所であるさった峠に向かって歩き始めていた。




 由比川を渡り、海道を進むと目の前には難所であるさった峠が堂々とした姿を現した。


「あれがさった峠……」
「かなりの難所だ。くたばるなよ」
「く、くたばりませんよ!」
「口付けくらいで腰を抜かすくらいのひ弱な女だからな」
「き、昨日はそうでしたけど、今日は違います」
「ほう、違うのか。では、何故に動けなかったのだ?」
「そ、それは……」


 千鶴が顔を俯かせる。あの時に抱いて欲しいと願った千鶴の股からは熱くトロッとした液体のようなものが漏れ出ていた。医者であったからその液体の事くらいは理解できたが、それが恥ずかしい事だと考えていた千鶴は、


「いえ、別に何でもありません……」


 と、以前のようにはっきりとものを言わずに中途半端な返事をしていた。それを聞いていた風間が嘆息を吐く。


「何でも己の中に溜め込んでいたら、いずれは精神的に疲れるぞ」
「べ、別に溜め込んでなんかいません」
「お前は正直ではない」
「しょ、正直ですよ! 昨日だって【バラカン気質】についてはっきりと言ったじゃありませんか」
「それは己の奥底にある気持ちとは関係のない話題だったからだ」
「そ、それは……」


 それ以降、二人の間で会話が進む事はなく、さった峠の麓まで歩き続ける。そしてちょうど昼ごろになった為、その直下にある間の宿である倉沢で休憩をした。


 この間の宿の倉沢の名物は鮑とさざえである。二人は昼食にそれらを焼いて食べさせてくれる店に入った。


「美味しい……」
「全て取り立てを出しているらしいからな。新鮮な食材の為に美味いのだろう」
「鮑って初めて食べたかも……」
「俺は嫌という程食している」
「私は風間さんみたいな贅沢な暮らしをした事がありませんから」
「では、存分に食するがいい」
「そうさせて頂きます」


 千鶴が鮑を頬張りながらつんと顎を上げる。その拗ねた仕草が何とも言えず、嫌味を言われたにも関わらず、風間の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。


 間の宿の倉沢を出た二人は、さった峠にいよいよ差し掛かった。登り口から急坂が天に向かって伸びているような光景に千鶴は唖然とした。


「こ、これがさった峠の登り口なんですか?」
「だから難所だと言っていただろう」


 俺の話を聞いていなかったのかと風間が呆れ返り、この峠の道のりの状況を説明する。


 さった峠を越える道はかつて上道、中道、下道の三通りがあったのだが、その中でも下道は海岸に出て並みの合間を利用して、波打ち際の岩の合間や浅瀬を通り道であり、まさに親不知子不知の難所であった。そのような危険な道を回避させる為に開削されたのが中道である。今では一番坂、二番坂と呼ばれる急な登りが続くらしいのだが、その下道よりは歩きやすくなったのだそうだ。


 さった峠の中腹辺りまで昇ると、広々とした海の光景が千鶴の視界に飛び込んできた。今日は快晴で、地平線までもがくっきりと姿を現している。


「気持ちいい!」


 千鶴が思わず立ち止まって大きな伸びを起こすが、


「早くしろ。でないとこの峠を越える事ができんぞ」


 と、風間が背後から急かしてきた。


「ちょっとくらい、この風景を見ていたっていいじゃありませんか」
「ならばお前ひとりでここにいろ。俺は先に進む」
「ま、待って下さいよ!」
「待たん」
「ちょ、ちょっとぉ!」


 風間が千鶴に背中を見せて歩いて行く。今はまだ昼であるから、明るく見通しも良いが、流石に一人でこの峠を越える事に恐怖を覚えた千鶴は風間の背中を追い掛けるように駆けだしていた――。




 さった峠の中腹を過ぎて先を歩いている時、二人の背後から人目を気にしながら歩みを速めている男が近付いて来ていた。


 風間はその男に殺気などを感じなかった為、初めは気にしていなかったのだが、横を通り過ぎた時に風間だけではなく、千鶴にもその男の姿に思い当たる雰囲気があるのを感じた。そしてその男も二人の視線に気がついたらしく、こちらの方に向かって振り向いてきた。


 赤い髪をした背の高い男。顔は美麗で一目見つめられた女は誰でもすぐに恋に落ちていきそうな甘い表情であるその男は、最近大陸に渡ったと噂で聞いていた人物だった。


「原田……さん……?」


 原田と呼ばれた男は驚きながら千鶴の方に視線を動かした。そして、風間の方にも視線を移す。


「か……風間!? それに、千鶴か!?」
「やはりお前だったか。しかし……確か大陸に渡ったと聞いていたが」


 風間の言葉に原田は苦笑しながら共に歩んでくれと促してきた。恐らくこの場所に長居はできないのであろう。歩きながら詳しい事情を話すとも言い出してくる。


「まあ、お前たちが俺の事を言い触らすような事はしねえって分かっちゃいるんだが……こう旅人が多くては、いつ誰に聞かれてるか分かんねえからな。一緒に歩いてもらうぜ」


 そして、その速い歩みの中で原田は自分の状況を話し出した。


「大陸に渡るのは本当だ。しかし、先に大陸に渡ったと不知火に頼んで言い触らしてもらったんだよ。その方が動きやすいからな」
「不知火に頼んだのか?」
「ああ。考えの相違で仲違いをしたって言っていたが、あいつは長州のお偉方と懇意にしていただろう? いくら喧嘩別れをしたと言っても繋がりの切れていねえ奴らもいたらしい。それで、そいつらに口利いてもらって船に乗せてもらう事にしたんだよ。そんでだ、ちょうど大坂から大陸行きの船が出るって言うんでよ、急いで向かってる途中なんだよ」


 原田は言い終わると、風間と千鶴の方を見ながら意味深な笑みを返してきた。


「お前らは西に行くんだろ? 不知火からの情報じゃ、千鶴……お前は風間とずっと一緒にいたらしいじゃねえか。あの鳥羽・伏見の戦の時に俺たちは心配してたんだぜ。お前が急に姿を暗ましちまったからな」


 原田の優しい言葉に、千鶴の心の中に新選組という存在が大きく膨らみ始める。


「皆さん、私の事心配してくれていたんですね。忘れられていなかったんですね」
「忘れるわけがねぇだろ? お前だって俺たちの大切な仲間だったんだからな」
「原田さん……」
「でも、良かったよ。お前がこんなに元気そうでな……」


 新選組の仲間の中には死んだ者や音信不通の者もいるからな――と、原田が呟く。


 嬉しさと悲しさが混じり合い、どちらのものかも分からない涙が溢れ出そうになる。その表情を見た風間は、ふんっと顔を背けながら先を歩き始めた。


 千鶴が新選組の事を思い出すと何故か苛立ちが募る。風間は肩を並べて歩く原田と千鶴の少し前を歩き続けていた。その姿を見た千鶴が黙ったまま俯いていると、二人の間の空気がおかしい事に気付いた原田が千鶴にそっと囁いてきた。


「ふーーん……お前ら上手くいってねえのかよ?」
「い、いえ……そんな事は……」


 その先の言葉を言い出せずに黙り込む千鶴を見た原田が大きな溜息を吐いた。


 風間の性格にも問題があるが、大半の原因は千鶴にありそうだ。原田は屯所にいた頃の千鶴の性格を思い出していた。


「千鶴……お前のその強情さは相変わらずなんだな? 俺たちがお前に会った時代じゃそれも通用するが、今のこの新しい時代ではそんなに強情にならなくてもいいんじゃねえのか?」


 屯所にいた頃の千鶴は、辛い事があって泣きたくなる時も愚痴や心の叫びを言いたくても唇を噛み締めながら生きてきた。屯所でやってこれたのはそんな我慢強さがあり、強情な性格が役に立ったからだ。しかし、原田は今はそれは必要がないと言い出す。


「でも……これが私なんです。仕方がないじゃないですか」


 千鶴が反論をすると、原田は眉間に皺を寄せて少し怒るような感じで千鶴に言葉を返してきた。


「【これが私なんです】じゃ、世の中上手く渡っていかれねえってのは分かってんだろ? それに風間の性格はお前が一番よく知っているんじゃねえのか? 戦いしかしてこなかった俺でも今のあいつの性格は分かりやすいほどだ。千鶴……お前のもう一つの欠点……【鈍感】と【強情さ】を少し改めていかなけりゃならねえ。どちらかが先に言葉を出さねえと相手には伝わらねえんだよ。それに、お前は途中で言葉を濁す癖があるからな。それを直さねえと駄目なんじゃねえかな?」
「そんな簡単に言ってくれますけど、案外と難しいんですよ」
「それでも直さなけりゃ、先には進めねぇだろ?」
「でも、これは……」
「ほらそれ! それを直せって言ってんだよ」
「はあぁ……」


 原田の言葉の中には、以前から風間に窘められた言葉も入っていた。それを直そうと思わずに自分の癖だから仕方がないと思っていた千鶴は首を捻ってしまう。


「風間……あいつも素直な男ではないからなぁ。お前に惚れたなら惚れたで言えればいいんだが、鬼の高慢さが強調されすぎちまって言えねえんだろ。……千鶴、お前が先に素直になるこったな」
「私が先に素直になるなんて……」
「ほら、その強情さを直せ」
「ふううぅ……」


 原田は、不機嫌そうに前を歩いている風間の後ろ姿を見ながら苦笑しつつ、何となく納得がいっていない千鶴の頭をわしゃわしゃと掻き回すように撫で付けた。


 頭を撫でられていた千鶴は、風間と原田の言葉を重ね合わせながら考え込む。その表情を見た原田は、少し安心したような顔付きで千鶴を見つめていた。


 千鶴は以前ほど鈍感ではないはずだ。これだけ女として成長しているのだから――原田はそう信じていた。


 素直になる――か。


 二人の前を歩いている風間は、自分に聞こえるように放っていた原田の言葉を心の中で反芻していた。しかし原田の言う通り、鬼の高慢さを持つ風間にとってのそれは難しい事だった。暫く千鶴と他愛もない会話をしていた原田が風間の近くに歩み寄って行って話しかけている。千鶴はその間、二人から距離を保ちつつも見失わないように背中を見続けながら歩みを進めた。


 背後を歩く千鶴の姿をチラチラと確認しながら、原田が風間に問い掛ける。


「千鶴は屯所にいた頃と全く変わってないな。あの頃だったらまだいいが、あの性格はどうにかなんねえかな? 俺らがあいつをあんな風にしてしまったみたいでよ……何か責任を感じるわ」
「あの混乱した時代では仕方のない事だ。それに、あれがあいつの本当の性格なのだろう。確かにもう少し素直であればいいのだがな」


 風間も背後の千鶴を確認しながらうんざりしたように呟くと、原田はお前も千鶴の事を言えた身分ではないだろうと茶化してくる。しかし、千鶴の事に関しての会話を終えた原田は、急に真面目な顔をして聞いてきた。


「ところで風間……お前はどうなんだ?」
「どうとは、どう言う事だ?」


 原田は振り返り、後ろを必死になって付いて来る千鶴を見ながら風間にしか聞こえない声で話し出した。


「千鶴の事に決まってんじゃねえか。あいつと蝦夷まで一緒だったって事と、江戸までお前が千鶴を迎えに行ったって不知火から聞いたんだけどよ。実際のところ、まだあいつを【女鬼】という理由で西の里に連れて行くつもりなのか?」


 原田のその言葉に風間の緋色の瞳が静かに光る。


「不知火からどう聞いたかは知らんがそれはないな」


 風間の迷いのない言葉に原田はほっと胸を撫で下ろしていた。そして、嬉しそうに風間の方に笑いかける。


「何をそんなに喜んでいるのだ、気持ちが悪い」
「いやっ、悪い。千鶴はさ、俺たち新選組にとっちゃ妹みたいなもんだったからな。本当に心配していたんだ。お前に西に連れ浚われたとか、まさか敵方に殺されちまったとか……ってな」


 原田が遠く先を見つめる。この男もまた、過去に囚われそうになっている一人なのだろう。それを跳ね返そうとする為に大陸に渡るのだろうと風間は思った。


「大事にしてやってくれな。あいつの人生の何年かを苦労させた俺たちの代わりに……」
「言われんでもそのような事は承知の上だ」


 原田は、風間の言葉をしっかりと受け止めたようで、それ以上の過去については話し掛けてこなかった。


「ところで原田、お前はどこまで歩みを進めるのだ?」
「興津宿で不知火と落ち合う事になってんだ。最後に酒を飲み交わすつもりでな……そうだ! 風間も一緒に呑まないか? 会うのも恐らくこれが最後になるだろうしな」


 風間は少し考えながら千鶴の方を見つめた。


 このさった峠を越えた所にある興津宿では泊まる予定にしている。それに原田は千鶴にとっては大切な仲間である。


 新選組の男たちの事を思い出させるのはあまりいい気がしないが、もう会う事も儘ならない仲間とひと時の思い出話に花を咲かせてやってもいいだろう。そう考えた風間は、新選組の集団と初めて会った時のままの高慢な笑みを原田に返し、


「良かろう。不知火は嫌がるだろうが、千鶴にとってもお前との関わりはこれが最後になるだろうからな。付き合ってやろう」


 と答えると、原田も槍を振り回していたあの頃を彷彿とさせる不敵な笑みを風間に返して立ち止まった。


「風間……時代が目まぐるしく変わってんのにお前は変わらねえな」


 そして後ろにいる千鶴を呼び寄せて風間と自分との間に入れると、千鶴に歩幅を合わせながら再び歩み始めた。


 二人に尾間に挟まれながら歩く千鶴は、風間と原田が過去に敵同士だった事を忘れるくらい仲良さそうに話すのを見て、驚きを隠せない。


「千鶴、興津宿で不知火と原田が落ち合う予定らしい。今宵は別れの宴だ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ、俺がそこで不知火と待ち合わせをしてんだ。この先会うこともなくなるから、最後の酒を飲み交わそうと思ってな。無理を聞いてもらったんだ」


 千鶴はその言葉を聞くと、二人の腕に片方ずつ自分の腕を回し、泣きそうになりながらもふんわりと微笑みを投げ掛けた。


「今の二人を見たら皆さん驚くでしょうね。だって、私も驚いたんですもの」
「悲しくはないか?」
「ええ、悲しくはないです。だって、原田さんの新しい旅立ちですもの。それに不知火さんにも会うの久し振りですしね」
「よし、んじゃ、行くか」
「はいっ、行きましょう!」
「別れの宴の途中で泣くなよ?」
「泣きませんよ。ずっと笑顔でいます」


 千鶴の明るさのある言葉に風間は満足気に笑い、二人の和やかな会話を聞いていた原田は少し驚きながらも、三人は難所であるさった峠を休みなく歩き続けて、不知火が待つ興津宿へ向かって歩き続けた。


 興津宿に到着した時、辺りは夕暮れ時と化していた。しかし今は冬。夕暮れ時といっても既に暗い闇に包まれている。その暗闇の中、宿に到着した三人を見た主が不知火に伝えに行く。そして暫くすると宿の奥から不知火が姿を現したのだが、顔には驚きの表情がありありと浮かんでいる。


「な、何だ? 風間と鬼女もいるのかよ? こりゃまた、一体どういう風の吹き回しだよ!?」
「さった峠で偶然出食わしたんだ。俺がこの日の本にいるのもあとわずかだろ? 風間とも一緒に酒が呑みてえと思ったから誘ったんだよ」
「ふうん、そうか……まあ、こんな所で立ち話をしていたら、原田の素性がばれちまうかもしれねぇからな。部屋に行こうぜ」


 不知火が三人に背中を見せる。原田をできるだけ人目に晒したくないのもあるのだろうが、どうやら他にも何か理由があるようで、顔を見せないまま急いで話を変えて宿の奥へと歩いて行く。それを見つめていた風間は両目を細め、原田は憐みのような笑みを零す。そして訳の分からない千鶴は首を傾げていた。


 四人は部屋に入ると、男三人は一斉に酒を呑み出し、千鶴は次々と運ばれてくる美味しそうな料理に手を付け始めたのだった。




「おおいっ、ところで風間ぁ。お前と千鶴はどこまでやったんだよ? ……ん?」


 少し酔いが回ってきたらしい原田が上機嫌で風間に聞いている。先程から原田と同じくらいの量の酒を呑んでいるはずの風間は全く酔っていないようだった。


「どこまでやったとは……?」
「惚けんなよぉ。男と女がやるってぇ言ったら一つしかねえだろう?」


 原田と同じく酔いが回ってきた不知火も横から囃し立ててきた。


「おおぉ! そうだそうだ! 風間、お前は昔っから女に不自由してなかったもんな!? 千鶴なんてちょちょいのちょいってもんだろ?」


 原田と不知火の卑猥な話の内容に千鶴は顔を真っ赤にさせながら何も聞くまいと、黙々と料理を口に運んでいく。しかも、その下世話な会話の中で不知火の言葉に引っ掛かりを感じた千鶴は、むっとした表情に変わりつつあった。


 そんな千鶴を見た風間は、何かを思いついたようににんまりと口角を上げて返事をした。


「二人とも。期待させて悪いが……まだだ」
「へっ、まだぁ?」
「風間がまだ? 信じられねぇな」


 原田の手にしている杯が斜めに傾き、中に入っていた酒がとくとくと畳みの上に濃い染みを浮かび上がらせていく。不知火は手酌酒をしていた為、徳利の中の酒を杯に注ぎ込んだままそれを止めようとはしなかった。お陰で不知火の服は酒塗れとなってしまっていた。


「ん、どうした? 何か驚く事でもあるのか?」


 風間の楽しそうな声音に、我に返った二人は大声で交互に叫びだした。


「蝦夷まで長い旅をして何もなかっただとぉ!? その上に江戸まで迎えに行って今日の今までも何にもなかったって言うのかよ!? 全く以て信じられねえ! いくら千鶴が強情で素直でなくてもやる時はやってしまえっ!」
「おいおい風間ぁ……てめえは女に振り回される男じゃねえだろ? あんな餓鬼みてえな千鶴に何梃子摺ってんだよ?」


 酒の入り過ぎている二人が風間に言いたい放題の言葉を出してくる。


 千鶴の欠点をずばずばと吐き出す原田の言葉や、風間の過去の女関係の話しなどを雄弁に語る不知火の言葉を聞くにつれ、千鶴には劣等感と嫉妬が入り混じった感情が心の奥から込み上げてきた。


 この部屋の雰囲気に耐えられなくなった千鶴は黙ったまま立ち上がると、静かに襖を開閉し、自分の寝る部屋へと戻って行った。




「行ったか……?」


 襖が閉まったと同時に原田がにんまりと笑いながら様子を窺う。不知火もその言葉に頷きながら笑みを返した。


「せっかくの別れの宴だというのに千鶴にあのような事をするとは、お前たちは性格が捻じ曲がっているのか?」


 先程の二人の言動がわざとらしく感じていた風間は、呆れ果てながら大きな溜め息を吐く。すると、原田が肩を竦めながら言葉を返す。


「そりゃあ、あの【鈍感千鶴】だぜ? あれぐらい言っとかなきゃ気付く訳ねえだろ?」
「ってか……てめえに性格の事を言われたかねえよ! 俺さまの性格はてめえよりもまだましだ」


 風間はそんな二人を見つめながらくくっと一笑するとその場を立ち上がり、襖の方へと向かって歩いて行く。そして部屋を出る時に二人の方へ振り向くと、


「あいつは今、精神的にも体力的にもかなり疲れているようだから明日は見送りができんかもしれん。原田……達者でな」


 風間の言葉に原田が二カッと笑う。


「おう! お前もな、風間……。千鶴の事は頼んだぜ」


 原田の言葉に軽く微笑みを返して頷いた風間は、静かに二人のいる部屋を後にした。


「不知火……千鶴を好きなお前に頼むのは酷だがよ。あいつらをよろしくな。何せ俺から見たあの二人はあぶなっかしく見えるからな」


 原田がついさっき風間が出て行った襖を見つめながら呟いた。先程までの酔いはどこへ行ったのかと思うくらいに冷めてしまったようだ。


 そんな原田の杯に不知火は瞠目をしながら酒を並々と注ぎだした。


「おい、俺が千鶴の事を好いてるって何で知ってんだ?」
「さっきの態度で分かったんだよ。恐らく風間も分かってんぞ」
「そりゃ、やばいな……」
「あいつは千鶴にかなりぞっこんだ」
「そうなら更にやばい……」
「……だな」


 原田の盃に酒を注ぎ終わった不知火は、溜め息を吐きながら短く言葉を綴った。


「風間と千鶴は似合いの夫婦になるだろうからな。既に諦めてるさ。しかしよ、まさか、原田と一緒に来るとは思わなかったから驚いただけさ」
「そうか……」
「湿気た顔をすんなって。俺は大丈夫だし、あいつらの事も心配すんな! さっ、呑み直そうぜ!」
「ああ、そうだな」


 そして、不知火と原田は過去の会話に耽りながら静かに酒を呑み交わすのだった。




 風間が今夜泊まる部屋に行ってみると、目の前にはこんもりと山のようになっている布団がもそもそと動いていた。


「千鶴、起きているのだろう?」


 起きているのだろうが、返事をしない。


 風間は千鶴の寝ている布団の傍らへ座り込むと、ばさっと布団を剥ぎ取った。しかし、剥ぎ取っても千鶴はうつ伏せになりながら身体を丸めたままである。


「不知火の言う通りでお前はまだ餓鬼のようだな? あれぐらいのからかいで拗ねられては頭領の妻など務まらんではないか」


 風間の皮肉たっぷりの言葉に千鶴がガバッと起き上がった。顔は涙でびちゃびちゃに濡れていて、風間は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える。しかし、それに気付かない千鶴が涙声で文句の言葉を放ちだした。


「原田さんも不知火さんも酷いです! 風間さんだって悪いところがあるのに、何で私ばかりを責めるんですか?」
「原田はお前が心配だったのだろう。不知火はそんなあいつに付き合い言葉を出しただけだ。分からなかったのか?」


 風間の静かな声音に、情けない顔をしながらも不思議そうに首を傾げている千鶴は、風間から見ても不知火の言う通り【餓鬼】という言葉がよく似合っている。


「さった峠で出会ったお前は屯所にいた頃と全く変わっていない。己たちがそうさせてしまったのだのだと原田はそうぼやいていた」


 その言葉で、千鶴の両目からは再び涙の湖が作り出される。そんな千鶴を抱き寄せた風間は、静かにその湖を止めるように目元をそっと指でなぞっていった。


「お前は西に近付くにつれ【新選組】を忘れそうになるのが怖いのだろう? 忘れる事はない。お前の記憶のどこかには必ずあやつらとの思い出が残るはずだ。しかし、その事ばかりを考えておったら先には進めぬ。切り替える事も必要だ。原田もその為に大陸に渡るのだろう。新しい己を探す為にな。だからお前も探すといい……新しい己を……」


 【新しい己】それは決まっている。千鶴の中では既に決まっているのだ。しかし、その事によってあの仲間たちを忘れるのではなく、記憶として留めておくのだ。何度も思っていたではないか――【思いで】として心の中に留めておこうと――。そして、風間と共に西に行き、その新しい土地で【鬼の頭領の妻】として生きて、心の中では認めている目の前にいる風間を愛し続けていくと。


「もう、私を置いて行かないで下さい……新選組の皆さんのように。蝦夷であなたと別れたように、私は一人にはなりたくありません」


 千鶴が風間の胸の中に顔を埋めると、風間は自分の胸の中で泣いて震える小さな身体を強く抱き締めた。


「分かっている。だからこそ迎えに来たのではないか」
「新選組の仲間たちの事を忘れなくていいんですよね?」
「俺としては忘れて欲しいがな。お前は我が妻となる身ゆえ俺も嫉妬が絶えん。しかし、時折思い出すくらいなら許してやる」


 千鶴の顔を覗き込みながらからかうように囁く風間に、千鶴の頬は朱に染まりだした。


 風間が自分の事で嫉妬してくれている。言葉には出してこないが、自分はこの男に本当に愛されているのだと、千鶴は朱に染まった頬を隠すように、更に風間の胸の中に顔を深く埋めた。そして、ある思いが千鶴に勇気を与える。


 今なら素直に自分の中の想いを伝える事ができるような気がした千鶴は、風間の胸から顔を上げて目の前にある緋色の瞳を見つめながら静かに言葉を紡いでいった。


「私は、風間さんが好きです。新選組の仲間を忘れそうになるくらいに……。風間さんは、私一人だけを見ていてくれますか?」


 自分の頬だけではなく顔全体が朱に染まりだしてくるのが分かる。それが恥ずかしくて、風間の胸に顔ごと埋めようとするが、風間はそれを許してはくれない。無理矢理に顔を上げさせられた千鶴は瞳を伏せてしまった。少しはにかむような仕草を見せる千鶴に満足気な笑みを向ける風間は、


「少しは素直になったようだな? そうやっておれば可愛らしいものを。いつまでもそのように素直になっておけ」


 と、相変わらずの口調。それに対して千鶴も反論をする。


「か、風間さんだって直して下さい。その意地悪な性格を……でも……」
「俺の性格は直す必要がないと江戸で言ったはずだが? お前が直せばそれで上手くいく。それと何度も言っているが、その含み言葉を止めろ。言いたい事があるのならばはっきりと最後まで言え」


 風間の言葉に顔を再び俯かせた千鶴は、もごもごと小さく口を動かした。


「そ、そんな風間さんも好きになってきてるみたい……です」


 千鶴の最後の言葉を聞いた風間は喉元を鳴らしながら笑う。そして千鶴の顎に手を添えて顔を自分の方に向かせた。


「もっと西へ近付いた時には、お前は俺の事ばかり考えるようになるだろうからな。そのうちにあいつらの顔さえも思い出せんくらいに……」
「そ、それは絶対にありません!」
「さあ、どうだか……」


 風間は面白そうに目を細めると千鶴の唇に口付けを落とした。静かで落ち着いた時間が流れる。そして互いの唇が離れた後、千鶴が物言いたげそうな顔をしていた。


「何が言いたいのだ?」


 風間は千鶴の言いたい事が何かを分かっていたが、敢えて知らぬ振りをしながら聞いてみる。


「……あの、原田さんや不知火さんが言ってた事を風間さんは気にしないんですか?」
「お前はしたいのか?」
「い、いえいえ。そういう意味で言った訳じゃ……」
「祝言を挙げるまではしないという約束だからな。しかしお前がどうしてもしたいと思うのならばしてやってもいいが?」


 そう言って千鶴の喉元に顔を近付けていくと、慌てて制止しようとする手が伸びてきた。


「ま、まだ心の準備も出来てないし……もう少し考えさせて下さい」


 緊張しているようで、千鶴の身体がかちんこちんに固まっているのを感じた風間は不機嫌な顔付きで千鶴を見つめた。


「お前の準備や少しの考えとはどれくらいの期間なのだ?」
「へっ?」
「まさか、祝言を挙げた後もそのような事を言い出すのではあるまいな? それとも年を取った爺婆になってもないとか?」


 いずれはあの行為をしなければならないと考えている千鶴が慌てて首を左右に振る。


「そ、それはありません。近いうちにすると約束しますから安心して下さい」
「ほう、また約束か。近いうちという事は、この旅の途中でもあり得るという事だな?」
「あっ……! そ、それはぁ……」


 風間の顔は満足気な色に染まっており、有無を言わさないかのように千鶴の瞳を射抜くように見つめてくる。


「約束すると言ったな……?」
「うっ………!」


 少し強制的な部分もあるが、それを嫌だと感じる気持ちが千鶴の中には湧き上がってこず、楽しみにしているぞ――と耳元で囁かれると、不思議な感覚に陥ってしまう。そんなふわふわとした気持ちの余韻に浸っていた千鶴を現実に引き戻すかのように、風間のある言葉が飛び出してきた。その内容に千鶴は少しの寂しさを覚えたが、話の終わりには風間に小さく頷き返していた――。


 翌日の早朝、昨夜は見送りに出ないと言っていた風間が千鶴と共に宿の玄関で原田と付き添いの不知火を待っていた。その二人の姿を見た原田が瞠目する。


「何だよ、見送りに来てくれたのか?」
「ああ、原田にどうしてもしてもらいたい事があってな」
「俺にしてもらいたい事って何だ?」


 不思議そうにする原田に、千鶴が手にもっているぼろぼろの布を差し出した。それを見て原田の顔は微妙な歪みを作り上げた。


「これは、誠……」


 泣きそうになっているのだろう――声が微かに震えている。やはり原田もまだ新選組の事を引き摺っていたのだ。


「蝦夷で拾ったんですが、どうしても置いていけなくて江戸に持ち帰って来てしまいました。でも、私も新しい人生の出発をしなければなりません。勿論原田さんもです。だから、これを海に流して頂けませんか?」


 原田が千鶴の顔をずっと見つめ続ける。


 あの頃の仲間たちの顔が思い出される。辛い時も悲しい時も楽しい時も――あの仲間たちがいたからやってこれた。しかしその日々は二度と戻って来ない。そう――これからは新しい人生の出発をしていかなければならないのだ。


 原田は二カッと笑うと、千鶴の手の中にある旗を自分の手に受け入れた。


「おう、分かった。これは俺が責任を取ってあの広い海に流すよ。これであいつらも俺たちも自由だな」


 そして、風間と千鶴に手を振りながら去っていく原田の大きな身体は小さな姿に変わっていき、やがて消え去ってしまった。


 あの旗を原田の手に渡した瞬間、千鶴は大役を果たしたような気がした。


 ここまでの旅は、足を踏み入れた土地の事情や珍しいものなどを見ながら何気なく進んできたような気がするが、原田に出会った事でこれからの旅は未来に向かって進んで行けそうな気がすると、千鶴はそう感じたのだった。


「さて、そろそろ俺たちもそろそろ出立をするか」
「そうですね。行きましょう」


 千鶴のはしゃいだ姿を見た風間は忘れさせないようにさせる為か、千鶴が忘れかけていた一言を放ってきた。


「……千鶴、近いうちだったな?」
「えっ……?」
「昨夜の約束は既に書き記した。楽しみにしているぞ」
「あっ……」


 未来に向かって進んでいく旅――


 新しい人生の出発――



 その中には風間と約束した【近いうち】の出来事も含まれている事を思い出した千鶴は、顔を真っ赤にさせながら次の宿場に向かって歩いて行くのであった――。


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