東海道-興津宿→江尻宿



 興津宿を出た風間と千鶴は江尻宿に向かって軽快な歩みを進める。


 この興津宿の地名の由来は、興津宗像神社祭神の興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がこの地に住居を定めた事からと言われていたり、平安末期から沖津氏が居住していた為にその名を地名にしたと様々である。


 二人が海の近くを歩いていると、潮の香りに混じって魚系の匂いが漂う。それにいち早く反応をしたのは千鶴であった。


「風間さん、何かいい匂いがします」
「気のせいだ、息を止めて歩け」
「駄目です。無理です。この匂いには勝てません」


 千鶴が少し先の堤防沿いに視線を向けると、いきなり蜜色の瞳が光った。


「あ……!」
「朝飯を食してからまだ時間は経っておらん。歩け」
「で、でも、今日の朝ご飯は早かったんです。だからお腹が空きました」


 千鶴の腹から情けない音が奏でられる。その音を聞いた風間は大きな溜め息を吐いて、


「興津鯛を焼いてもらうとするか……」


 と言葉を放つ。すると、千鶴の顔から笑顔が溢れ、両手を上げると万歳を繰り返した。


「鯛……今、風間さんは鯛って言ったんですよね?」
「ああ、ここではアマダイの一夜干しの事を興津鯛と呼ぶのだ」
「鯛……ああ……鯛……」


 千鶴は風間の説明も聞かずに、鯛の方に引き寄せられるように歩いて行く。その姿を見た風間が再び大きな溜め息を吐いた。


「色気より食い気……俺は何故にあのような女に惹かれたのだ……?」




 興津鯛は中骨を取り去る事が特徴的であり、火でさっと炙って食べるのが美味らしく、そのようにしてくれた興津鯛を売っている店の主からその状態のものを受け取って齧り付いた千鶴は、両目尻を垂らして細めて幸せそうである。


「美味いか?」


 隣で立ってそれを見ていた風間が問い掛けると、千鶴は口をモゴモゴとさせながら大きく頷いていた。


 その後に少し山手の方を歩いていると、蜜柑の木が植えられている場所に差し掛かり、そこでも千鶴の足は止まる。そして、ちょうど蜜柑の収穫をしている山の持ち主が千鶴の今にも涎を垂らしそうな顔を見たからだろうか、収穫した蜜柑を五つもくれた。


「ふふふ……」
「何を笑っているのだ、気持ち悪い」
「えっ? だって、今日は何か幸せなんですもの」
「幸せだと……?」
「ええ、興津鯛に蜜柑……美味しい食べ物をたくさん食べられましたしね」


 蜜柑を五つ全て一人で食べてしまった千鶴はその時からずっと笑顔。興津宿で近いうちにの約束をしたが、果たしてそれが叶うのだろうかと、風間は顔を顰めた。そして千鶴にその事を思い出させる為に袂から約束事を書いてある紙切れを取り出して、千鶴の目の前でちらつかせた。


「お前はこれに書いてある約束事を忘れてはいないだろうな?」
「あ……」


 風間の手の中にある紙切れを見た千鶴の頬が真っ赤に染まる。


 やはり忘れていたのかと、風間が千鶴に鋭い眼差しを向けた。


「俺に対しては言いもしない幸せという言葉を、あの鯛と蜜柑五つだけで簡単に口にするとは……」


 妬けるな――と言いたかった風間だがそこはグッと呑み込んで黙り込む。自分が今嫉妬しているのはこの興津宿名産である。


 全く、物にまでこのような感情が出てくるようになるとは――


 風間は苦々しげな笑みを浮かべながら千鶴の手を掴んで握る。そして何か違和感を持った風間は、握っていた千鶴の掌を見てすぐに離した。


「そこに川がある。すぐに洗って来い」


 千鶴の掌は、先ほどの蜜柑の汁がべっとりとついている。


 興津宿で、千鶴は幸せの道のりであったが、風間にとってはとても不愉快なそれであった――。


 興津宿から江尻宿に向かって歩いている時、千鶴がある寺の門を見て首を傾げた。


「風間さん、あのお寺の門は変わってますよね?」
「ん……?」


 千鶴の問い掛けにその寺の方に顔を向けた風間が目を細めた。


「ほう、よくぞあの門に目がいったな」
「だって、お寺の門で格子付の門なんて見た事がありません」
「あの寺は東光寺という。この街道に面している為、京よりの勅使が下向する際に興津川の川止めの時にこの寺に宿泊する事になり、急きょ作られたのだそうだ。当時の勅使たちが泊まる宿舎は各式上、門構えでなければならなかったらしいからな」


 風間の話を聞いていた千鶴が、格式に囚われすぎだと言い始める。それを聞いた風間が真面目な表情でこう答えた。


「古きを重んじる……それが日の本の中で生きる者たちの誇りだ」


 鬼も古きを重んじて格式も慮る生き物。その誇りを持っている風間にとって、千鶴の今の言葉には不満を覚えたらしい。千鶴も風間が滅多に出さない怒りの感情を露わにしているのを見て何かを感じ取ったらしく、口を噤んでしまった。


 少し歩くと庵原川があり、そこを渡ると江尻宿に入る。


 江尻宿といえば、侠客である清水の次郎長で有名であるが、この川も清水の次郎長縁のものであった。


 まだ次郎長が二十六歳の時、ここで喧嘩の仲裁をしたらしい。この話は、甲州津向の文吉親分が、駿州和田島の田右衛門に言いがかりをつけてこの庵原川の北側に陣取っていた。当時田右衛門の世話になっていた次郎長が敵陣に単身乗り込み、一線を交える事なく仲裁して男を上げたところなのだそうだ。


「侠客といったら、強気を挫き、弱気を助ける事を旨とした【任侠を建前とした渡世人】の総称ですよね?」
「ああ、しかし、博徒や浪人、農村の疲弊による離農者などの封建体勢における無法者などが自らの存在を正当化する場合に用いた自称でもあるがな」


 先ほどの機嫌の悪さは既になくなったようだ。風間が普段通りの態度を千鶴に見せている。しかし、千鶴は蝦夷に向かう途中で風間が言っていた言葉を思い出していた。風間は鬼の信条を固く守る男鬼であると分かったのもその時である。鬼としての誇りを持ち、それに恥じない生き方をしている鬼。義理堅さを持つ風間にとって、先ほどの千鶴の言葉は確かに気に食わないものだったに違いない。


「あの、さっきはすみませんでした……」


 千鶴の謝罪の言葉を聞きながら前を向いて歩いている風間が疑問符を投げ付ける。


「何の事だ?」
「えっと、東光寺の寺の門の時に私が言った言葉の事です」


 風間が千鶴の横顔を見つめる。そして再び前を向くと、口を開いてゆっくりと語り始めた。


「時代は新しくなっていくのは当然だ。そしてそれに皆が興味を示すのも勿論あって当然。しかし、中にはこうでなければならないという固執した考えを持つ者もいる。特に上の立場になればなるほどそれは強くなる。頭の固い者よと言われればそうなのかもしれんが、そんな者もいなければ、今までの日の本の歴史は全て忘れ去られてしまうだろう。……あの新選組のように栄華を少し極めて砕け堕ちた者たちなど記憶にも残してはくれぬかもしれん」
「記憶に残らない……」
「俺は新しきものが悪いとは言わん。しかし日の本の古き良いところも見捨ててはいけないと考えている。時代はますます発展していく。恐らく外の国の影響を受けてな。しかし、日の本の人間や我ら鬼たちが持つこの国独特の人情、暮らし、そして過去の記憶まで捨ててしまえばこの国独自の誇りを捨てる事になる」


 風間の言っている事はよく分かる。風間はこの日の本を愛する鬼なのだ。千鶴が風間の手を握る。すると、少し顰めた表情を千鶴の方に向けてきた。


「手は洗ったのだろうな?」
「洗ってますよ」
「そうか。では謝罪してきた事に関して褒美をやろうとしよう」
「その言い方は何ですか?」
「ほう、お前は褒美を欲しくないのか?」


 風間の意地悪そうな笑みに、千鶴がツンと顔を背ける。


「だって、風間さんの褒美っていったら変な事しか思い浮かばないんですもん」
「ほう、あれが変な褒美だと思うか?」
「え……?」


 風間の顎をしゃくる方に千鶴が目を向ける。


「あ……茶屋……」
「この辺りは細井の松原と呼ばれる松並木があるだろう。この地名をつけた【松原煎餅】が有名なのだが……そうか、お前はあの褒美がいらんというのだな?」
「い、いりますよ! 食べますって!」
「変な褒美だと言ったろう? だからいらんのだろう?」
「いりますから! お願いだから買って! 休憩、休憩!」
「まだ休憩するには早いだろうか?」
「は、早くないです! あ、私お腹が空いてきた! もう歩けない!」
「先ほどから食ってばかりであったろう?」
「あれはずっと前ですって!」
「日もまだそんなに動いてはいないな」
「動いてます! すごく動いてます!」



 江尻宿の入り口で【松原煎餅】を買うや買わないで言い合いをする二人。その姿は、通り過ぎゆく旅人たちの笑いを誘っていた――。


- 55 -

*前次#


ページ: