東海道-江尻宿→府中宿
江尻宿は巴川の左岸に発達した宿場で、入江の尻の部分にあるから江尻と呼ばれるようになった。元禄十六年に駿府代官であった守屋助四朗の検地によると、辻村個数百十戸、細井の松原は全長百九十九間二尺(三百六十メートル)、松の本数は二百六本もあったのだそうだ。今でもそれくらいの数があるのか、風間と千鶴が歩いている左右の景色も松一色であった。
「この江尻宿は、駿河では府中に次ぐ大きな宿場だ」
確かに大きな宿場なのだろう。今千鶴たちが歩いている道の両側は旅籠でぎっしりと埋まっていた。
「今日はどこまで歩くのですか?」
「江尻宿の次の宿場である府中だ」
風間は相変わらず二宿歩いては足止めをする。千鶴がまだ歩けると伝えても決してそれ以上歩く事はしない。それはあの蝦夷に行く途中での千鶴の体力のなさを感じていたからであろうか。いや、あの時は一日の間にかなりの距離を歩いていた。風間と天霧は千鶴の体力があろうとなかろうと、ぎりぎりまで移動していたような気がする。そして千鶴の動きに鈍さが見え始めた時にようやく休憩をするような感じであった。
つまり今は、風間は千鶴の事を大切に思ってくれているからだろうか? そう考えた千鶴ではあったが、ずっと以前に意識が薄れる中で風間が言っていた言葉をふと思い出した。
確かそれは、この旅を満喫するとか何とか――だから早々に西の里へは戻らないとか――。
風間本人の楽しみの為なのかもしれない。しかし、千鶴はそれでも構わないと思っていた。この長い旅で風間の知らないところをもっと知る事ができるかもしれないと思ったのだ。しかし、江戸を旅立つ前に風間と約束していた言葉もこの時に思い出した。
ちょっと待って――西の里の桜を見せてくれるって言ってたけど、これじゃ、その時期に間に合わないんじゃない?
千鶴が風間の方に顔を向けて問い掛ける。
「風間さん、西の里の桜は見る事ができるんですか?」
その問い掛けに風間も千鶴の方に顔を向けた。
「……」
「西の里の桜も江戸とはまた違う美しさがあるから見せてやるって言ってましたよね?」
「……」
「こんな旅をしていて、見る事はできるんですか?」
「千鶴、あそこを見ろ。永禄十二年に武田信玄の命によって建てられたという江尻城の跡地があるぞ。関ヶ原の戦の後には廃城となったそうだが、平城の場合は河川を防衛線として利用したからな。この巴川を背後に控えたここらの地は、かなり立地条件が良かったのだろう」
千鶴の問い掛けには答えずにいきなりこの江尻付近の説明を始める風間。まさかとは思うが千鶴は話を逸らされるままにならずに話を戻す。
「風間さん、桜は見られるんですか、それとも見られないんですか?」
「この巴川は清水港で荷揚げされる荷が駿府に運ばれる重要な河川だ。この板橋は慶長十六年に徳川家康の命によって架けられたらしい。その時にだな……」
恐らくあの約束を忘れていたのだろう。この調子でいけば、桜の咲く時期などに西の里に到着などは無理だ。千鶴はフウッと小さな溜め息を吐いた後に風間に笑顔を見せた。
「この橋が架けられた時にどうしたんですか?」
風間が目を見開いて千鶴を見つめる。
「もっと執拗に質問攻めをされるのかと思ったのだが……」
「私の予想ですけど、忘れていたんでしょ?」
「当たりだ……」
自分は義理堅いと思っていたのに、約束事を忘れてしまうとは――最近の風間は、千鶴と共にいるせいか忘れっぽくなっている。紙切れに書いてある約束事はしっかりと覚えているのだが、それに記していないものは完全に忘れてしまっていた。
「もういいですよ。桜は来年も見られますもの」
「ふん、お前にしては簡単に引き下がるな?」
「だって、本当に今年は見る事ができないんでしょ?」
「恐らく、な……ああ、しかし葉桜も美しいぞ」
「私は桜が見たかったんです」
千鶴はそう言ってから、繋いでいる風間の手を強く握った。
「さっき、この巴川の板橋の事で何か話そうとしてましたよね? その話をお願いします」
この道中、風間も振り回しているが千鶴にもかなり振り回されている。風間は大きな溜め息を吐きながら心の中で呟いた。
全く、西の鬼の頭領が一人の女で腑抜けのようになってしまうとは――
そう嘆きながらも、
「この巴川に板橋が架けられた時、地元夫婦が選ばれて渡り初めをしようとした時にだな。河童の童子が現れて対岸の方に歩いて行ったらしい。当初は江尻橋と呼ばれていたのを童子変じて稚児橋と名付けられたらしい」
と説明を始め、この巴川の名の由来も河童に因んでいるという説明も付け加えていた。
巴川の名の由来は、河童に孫を引き込まれた祖母が、川に身を投げて竜神と貸して河童と戦った。その時に川が渦巻いた為に巴川となったらしい。確かにこの巴川の付近には河童に縁のある名や河童の腰かけ石とやらの残物までもがあった。つまり、この巴川が重要な川であったからだろうと風間はそう言ってこの川に因んだ話を終えていた。
暫く歩いて行くと、いきなり風間が立ち止まる。それに気付かずに歩いていた千鶴は、風間の手を握っていた方に引っ張られる感覚を覚えて思わず振り返った。
「風間さん、どうしたんですか?」
「休憩をしていくか」
「休憩? さっきもしましたよ」
「約束を守れんかもしれん侘びだ。羊羹を食わせてやる」
「羊羹……?」
風間の視線の方向を見た千鶴が両目をとろんとさせる。そこには羊羹と大きく掻かれている暖簾があり、旅人たちが多く出入りをしていた。
「食わんのか?」
「く、食います……」
千鶴は鼻息を荒くして風間を引っ張るようにしてその店に入って行った――。
「美味しかったですね!」
大きくなった腹を帯の上から擦りながら店を出る千鶴。その色気のない後ろ姿を見ていた風間が金の入っている巾着の中を覗いた。
「そろそろ、天霧に金の請求をせねばな……」
金の殆どが千鶴の甘味の為に使われている。巾着の中に数えきれない程あった金は既に底を尽き始めていた――。
店を出た二人が街道を歩いていると、左側に俗に都鳥と呼ばれた遠州都田の吉兵衛の供養塔があった。吉兵衛は清水次郎長の子分であった森の石松を殺した侠客で、その後に次郎長一家にこの場所で討たれたのだという。適役の吉兵衛の菩提を弔う者がいなかった為、この土地の者たちが憐み、供養塔を建てたのだという。
「今まで供養されなかった者たちがいる中、この男はまだ幸せだったのだというべきか」
「そうですね……これこそ人情でしょうか……」
風間は呟きながらその供養塔を見下ろし、千鶴はその前に屈んで両手を合わせた。
巴川の支流である大沢川に到着した二人は、土橋を渡って対岸へと向かった。
この土橋は耐震性がない為に牛馬は渡る事ができない。その為に箸よこの土手を下り、川を渡って反対側の土手に昇り街道に合流していたのだそうだ。その為か、その道を【牛道】と呼んでいたらしい。
その土橋を渡っている途中で風間が千鶴を不安がらせる。
「この橋に皹が入っている。もうすぐ割れて崩れるのではないか?」
「や、止めて下さいよ! 私は泳げないんですからね!」
「泳げんのか?」
「以前に川に落ちた時に泳げないって事くらい分かっているでしょ」
「あれは着物のせいではなかったのか?」
「違います! 私は泳げないんです」
「鬼なのに何の取り得もないのだな」
「もう……風間さんはそればっかり!」
風間にからかわれ続けた千鶴が機嫌を損ねながらその土橋を渡り終え、街道の右手少し奥に入った所に池があると教えられる。
「その池は【姥ヶ池】といってな。文禄二年、亀氏なるものの妻嫉妬深く、この池に身を投げて空しくなる」
「空しくなるって死んだって事ですよね?」
「ああ、その怨霊この池に留まりて、行き来の人ここに立ち止りて【姥々】と呼べば池の底より水泡が浮き上がる……」
風間の説明を聞いていた千鶴が池のある方に目を凝らす。奥に入らないと池は見えない。しかし、その方からじんわりと不気味な空気が漂ってくるような気配を感じた。
「確かめに行くか?」
「い、行きませんよ!」
「【姥々】と呼べば出てくるらしいぞ」
「い、嫌です。行きません」
「名所らしい」
「行きませんったら!」
千鶴が面白がる風間の手を引っ張ってその池に通じる道の方から離れようとする。その時、不思議なことに千鶴の耳元である音が微かに聞こえた。
プク――プクプク――と――
「そのように手を握ってくるとは、余程俺の事を愛していると見える」
「ち、違います! 風間さんがあんな事を言って私を怖がらすから!」
「そう照れるでない」
「だから、違いますって!」
心の中に恐怖を残しながら歩き続ける千鶴の手は、風間の手を潰してしまうのだはないかと思われるくらいに強く握り締めていた――。
暫く歩いて行くと、【草薙神社】の大鳥居の前に出た。
この神社は日本武尊(ヤマトタケル)を祭神とする式内社である。父の景行天皇に命じられ、東国の平定に向かう途中のヤマトタケルが、相模の国造りにだまされ、原野に放たれた炎で焼き殺されそうになったのがこの場所なのだそうだ。
炎に包まれたヤマトタケルは、出発前伊勢にいる叔母からもらった天叢雲(あめのむらくも)の剣で草を薙ぎ払い、逃げようとするが、それでも炎が追ってきた。そこで今度は、叔母が持たせてくれた火打ち石で草に火を付けると、その炎が向かい火となって、追ってくる炎を鎮めることができた、というのが神話の中のヤマトタケル伝説である。天叢雲の剣は、その後草薙の剣と改名、草を払ったところは草薙と呼ばれるようになり、景行天皇が後の景行天皇五十三年にヤマトタケルの勲功を讃え、建立したのが草薙神社だという。
草薙の剣は、天武天皇の朱鳥元年に、勅命により熱田神宮に祀られ現在に至っている。しかし、この伝説は地名に曖昧なところがあり、千鶴に説明をした風間もあまり信憑性のないものだと最後に伝えてきた。
そのような会話をしていた二人。しかし、千鶴の鼻がヒクヒクと動き始める。この動きを見た風間が大きな溜め息を吐きながらある方向に指差した。
「【兎餅】だ。食うか?」
「勿論、食べます!」
今回はこの店で忍びの者と落ち合う予定となっていた風間。千鶴が美味しそうにその餅を食べているのを見ながら、傍に座っていた忍びの者に小さな紙切れを渡した。それを見た忍びの者が千鶴を見て失笑をする。そして、店を出る前に風間に置き言葉を残して行った。
「確かに、金がなくなるはずだな……」
この【兎餅】は駿河の三大名物とも言われている。漉し餡が透けて見える程の薄い餅に包まれた大福餅に、満月の焼き印が押されたこの餅は、この古庄の茶屋の名物で、東海道を行き交う旅人たちに人気がある。
耳長ふ 聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物
江戸時代の狂歌師であった太田蜀山人がこう詠んだことからこの兎餅は有名になり、先ほどの追分羊羹、安倍川餅と共に駿河の三大名物に数えられるようになったのだそうだ。しかし、風間のご丁寧な説明を聞いていた千鶴が、安倍川餅の言葉に蜜色の瞳を輝かせた。
「安倍川餅! それはどこで食べられるんですか?」
「あと少し先だな」
「ああ、楽しみ!」
千鶴が喜びの言葉を放ちながら、【兎餅】のお代わりをする。それを見ていた風間は、忍びが出て行った扉の方を見つめて呟いた。
「早く金を持って来い……」
そして二人はようやく府中宿へと入り、今夜はここで身体を休める事にしたのであった――。
府中宿の旅籠内の一部屋で、風間と千鶴が一つの布団に潜り込む。そして、恥ずかしがって嫌がる千鶴に執拗な口付けだけは決して忘れない風間。それが終わると次の旅に備えて身体を休める。しかし、最近の風間はなかなか眠りに就く事ができないでいた。
こんなにも密着して寝ているというのに、身体の関係はまだお預け。
男に対しての危機感もない千鶴は、風間の腕の中で幸せそうに眠っている。そんな千鶴の寝顔を見つめていた風間が小さな溜め息を吐いた。
「もうそろそろ女を抱かんと、限界がくるな……」
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