東海-府中宿→丸子宿



 この府中宿は徳川家康と縁の深いところである。


 家康の生まれは三河であるが、今川家の人質として七歳からの十二年間を駿府で暮らしていた。家康はここに駿府城を築いたのだが、その城は家康亡き後火災で焼失し、修築工事をしたにも関わらず、次には安政の大地震でほぼ全壊してしまったのだそうだ。今では堀の跡などが残っているだけで、城はなかった。


 またこの府中宿では、江戸城無血開城につながる予備会談が行われた場所で有名である。


「幕府がまだこの日の本を治めていたらどうなっていたんでしょう?」
「さあな……俺は人間の事に関しては既に興味はない」


 千鶴が風間の横顔を見る。風間が唯一関心を持ったのは【新選組】の男たちだけであった。その者たちが自分の前から姿を消した今、記憶に残りはするものの興味は既に失せてしまっているのだろう。


 風間は西の鬼の頭領。過去には留まらずに前に向かって進んで行かなければならない。つき従ってくる者たちの上に立つ者は、いつでも先を見ていなければならないのだ。


 千鶴がここまでの自分の旅を思い出す。すると、原田に会った後から新選組の事を思い出していない事に気付いた。


 それを忘れてしまう程に、自分の心の中は既に風間の事で溢れてしまっているのだろうか?


 千鶴の全身から一瞬、言いようもない熱い何かが迸ったような感覚が走っていた――。


 府中宿を出立した風間と千鶴は安部川に辿り着いた。この川は人足渡しで渡る為、多くの行列が連なっていた。


「列が長いな。人数が減るまであそこで待つとするか。」


 風間が指差したその場所を見た千鶴の瞳には数多の星が舞い踊っていた。


【石部屋の安部川餅】


 安部川餅は、あの徳川家康に献上された際に名付けられたという説と、以前から東海道の旅人たちの間で安倍川名物と評判だった為に呼ばれるようになったという説の二通りがある。


「風間さんはこの二つの説のうちどちらだと思います?」


 千鶴が聞いてみると、現実的なのか風間の答えは後者の方だった。千鶴は、あの偉大な徳川家康がこのような素朴な名を付けていたらいいと思っていたの為に前者の方を選んだのだが、東と西の違いか。または徳川家と西国の大名に匿われていた鬼の考え方の違いからか。二人の意見は真っ二つに割れてしまった。


「あの家康がこのような名を付ける訳がなかろう? それに、この川は昔から安倍川と呼ばれていたのだ。その傍らで売られている餅だぞ。旅人の間で評判になって名が付いたと言う方が説得力がある」
「でも、あの家康がこの餅を食べて感動して付けたとしたらすっごくいい話だと思うんですけど。風間さんには想像できません? あの家康がですよ、この素朴な餅を食べて感動している姿を……」
「できん……」
「もう、いいです」


 と、頬をプーッと膨らませた千鶴が文句をたらたらと零していると、店の奥から湯気の立った付き立ての餅に黄粉を塗した皿が目の前に置かれた瞬間、千鶴の膨れっ面はどこかへ飛んでいってしまった。


「いただきます!」


 千鶴が両手を合わせた後、嬉しそうな顔で安倍川餅に箸を伸ばす。


 千鶴は前の食べ過ぎ以来、風間との約束を守り、量を節制して食べるようになっていた。一人分の餅を頼み、差し出されたそれをゆっくりと口に運んでいる。時には暴食をする時もあるが、その後には食べる量を減らしているのも見ていた風間は、今、目の前で美味しそうに餅を食べている千鶴に声を掛けた。


「少しは賢くなったようだな」
「もうあの苦しみは味わいたくありませんから……。それと、あんな苦い薬を飲まされるくらいなら、ちゃんと約束を守った方がましです」
「そうか。ならばもっと食べていいのだぞ。俺はあの薬の飲ませ方が気に入ったからな」
「な、何て事言うんですか。全然良くありませんし私は気に入っていません!」


 風間の言葉に敏感に反応をして、一瞬のうちに顔を茹蛸のように真っ赤にさせた千鶴は安倍川餅にかかっていた黄粉を口の周りに蔓延らせながら文句を言い放った。その千鶴の慌てふためく姿を風間は柔らかい笑みを零しながら見つめている。


 最近の風間の変化といえば、全体的に丸くなったというところだ。意地が悪く捻くれたところはそのままだが、以前より千鶴に対して、いや、周りに関しても度が過ぎる程の警戒心を持ち続けるという事が少なくなってきていた。


そんな風間は千鶴が餅を食べている間、ずっと目を逸らさずに千鶴の方を見つめている為、


「風間さん、このお餅を食べたいんですか? あと少し残ってますから食べます?」


 風間も餅が食べたいのだろうと勘違いをした千鶴が、餅の乗った皿を風間の方へ差し出すと、フッと口元を緩ませる。


「俺はこちらの方が好物だ」


 風間が千鶴の口元に指を近付け、その唇の輪郭を優しくなぞっていく。こんな人の往来が激しい前で一体何をするつもりなのだろうと、千鶴が驚きの表情を浮かばせながら戸惑っていると、風間の指がそこから静かに離れた。風間の指には千鶴の手元にある皿の中の黄色い粉がこびり付いていた。


「あ、黄粉……」


 黄粉が付いた指を口に咥えて舐めている風間を見た千鶴は何を思ったか、いきなり餅に黄粉をたっぷりと絡めだした。そして再びその皿を風間の方に差し出す。


「はい、風間さん。黄粉が好きだったなんて知りませんでした。たっぷりと絡めましたから美味しいですよ」


 その黄粉がたっぷりと絡まった餅を箸で掴んで風間の口元へと持っていく。それを見た風間は呆れ果てたような表情で溜め息を吐いた。


「やはり、お前は鈍感で餓鬼だ……」
「えっ、黄粉が好きだったんじゃないんですか?」


 千鶴の不思議そうな顔をジロッと睨みつけた風間は、千鶴の手にある箸を千鶴の口元へ無理矢理運んだ。


「俺はこれが好物なのではない」


 無理矢理に餅を口の中に押し込められた千鶴の頬は鞠のように膨らみを帯び、それによって風間に文句さえも言えない状態になってしまった為、心の中で文句を綴っていた。


 な、何よ。黄粉を美味しそうに舐めていたくせに、私の事を鈍感とか餓鬼とか言うなんて。黄粉の餅が食べたいなら食べたいで素直になればいいのに――


 そして、鈍感な千鶴がモフモフと口を動かしながら餅を食べ尽くし、その中が空っぽになった頃には川に並んでいた行列が短くなり、二人は安倍川の方に足を向かせて行った。


「お嬢ちゃん、後ろも混んでるからよ。あんたは小さくて軽そうだから俺一人で肩車で渡ししてもいいかい?」


 風間と千鶴が川越場まで行き、渡しの順番が回ってきた時、川人足の男が千鶴にそう言ってきた。風間は勿論、男一人では無理な為に半高欄に乗っていかなければならない。千鶴が頷こうとすると、肩に風間の手が乗ってきた。上を見上げて見るとその男の言葉が気に入らなかったのか、風間の顔には怒りの表情がありありと浮かび上がっていた。


「おい、男……、こいつも半高欄に乗せて渡せ」
「えっ、旦那。このお嬢ちゃんは、あっし一人で担いで行けるんで大丈夫だぜ?」
「いいや、半高欄だ。金は出すからさっさと乗せろ」
「あんたの旦那どうしたんだい?」


 と、男は小さい声で千鶴に囁いてくるが、千鶴にも風間の機嫌の悪い理由がよく分からない。


「さあ……着物が濡れると私が風邪を引くと思っているからではないでしょうか?」


 千鶴は風間が考えていそうな事を男に伝えて半高欄に乗り、川へと誘われて行く。その後ろには未だに機嫌の悪い風間が乗ったそれが続いて川へと入って行った。


 川の向こう先には丸子山が姿を見せている。


「お嬢ちゃん、あれが丸子山だ。この川を渡れば丸子宿はもうすぐだぜ」
「そうなんですか?」
「ああ、丸子はとろろ蕎麦で有名だからな。是非とも食って行ってくれ!」
「勿論です!」


 千鶴と半高欄を担いでいる男たちの会話が風間のところまで聞こえてくるが、それはもう楽しそうで、見ている風間側としては腹立ちを覚える。



 半高欄に乗っている千鶴の背中を見つめる風間の心中は、我慢限界まできている性欲を抑え続けているせいか、半端のない苛立ちが沸々と沸き起こり始めていた。


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