東海道-丸子宿→岡部宿
安倍川を渡ると、次は丸子宿に続く。川渡しを終えた二人は手越と呼ばれる所を歩いていた。
この場所は千手の里と呼ばれている。千手とは、長者の娘として手越に生まれ、源頼朝がこの日の本一の美女だと讃えた白拍子なのだそうだ。
「また頼朝が出てきた……」
風間の説明を聞いていた千鶴の顔がどんよりと曇る。
「いい加減にあの川での出来事は忘れろ。元はといえばお前が弱い心を持っていたのが悪いのだろう」
「でも、あれは本当に怖かったんですよ」
「ふん、 何にでも恐れずに胸を張って生きておれば、怨霊などに憑りつかれはせん」
安倍川の渡しの前から風間の機嫌があまり良くない。それを感じた千鶴は今の風間には逆らわない方が良いと考え、言い返す事もせずに口を噤んだ。
ほどなく歩いて行くと丸子宿に到着をする。この丸子宿は東海道中で最も小さい宿場である。丸子川のすぐ側を歩いていた風間が空を見上げると、日は南中央高くで輝いていた。それを眩しそうに見つめながら千鶴にとって嬉しい言葉を投げ掛ける。
「昼だな……とろろ汁でも食って行くか」
「それ、さっき安倍川を渡らせてくれた男(人)から聞いて知ってます。その後に芭蕉の読んだ句を思い出したんですよ。えっと、確か……【梅わかな丸子の宿のとろろ汁】でしたよね?」
「ほう……なかなか学があるではないか。やはり我が妻はこうでないとな」
「まだ風間さんの妻にはなってません」
「なったも同然だ。俺の里へ行くのだからな」
風間は千鶴の腰に腕を回し自分の身体へと引き寄せた。その腕に力が込められている。千鶴は安倍川からの風間の行動に理解できずにいた。
今日は特に身体を寄せ合う事が多い。千鶴の口元から黄粉を拭った指を舐めたり、安倍川で千鶴が男たちと会話をしている時のムスッとした表情をした風間を見ていた千鶴は、頬を少しだけ緩ませた。
あの黄粉の時は何を考えているのか分からなかったが、男たちと会話をしていた時の風間は嫉妬してくれていた。千鶴は自分を引き寄せた風間の腕の中にすっぽりと入り込むようにして引っ付き歩く。
江戸に向かっている旅人たちは二人とすれ違う度に様々な表情を浮かばせながら観察してくる。旅には似つかわしくない格好の風間と、その横に抱きつくように歩く千鶴の姿は確かに道中には似つかわしくない雰囲気を醸し出しているのだろう。しかし、旅人の視線など気にしていない風間と千鶴は、互いに上機嫌で歩いていた。
【丁子屋】に入った二人は、とろろ蕎麦を食べながら色々な話をする。
「風間さんの住んでいる里はどんな所なんですか?」
とろろ蕎麦をつるりと呑み込んだ千鶴が風間に問い掛けると、箸で摘まんだ蕎麦を少し高めに上げて見つめる風間が返事をした。
「静かで穏やかな所でのんびりと暮らせる。人間の住む所は忙しないからな。もしかすると、最初は退屈だと思うかもしれん」
「静かで穏やか……のんびり……」
神経質な風間は蕎麦に何かがついているかもしれないと思ったのだろうか。それを確認した後にようやく口の中に蕎麦をつるりと滑り込ませた。
「何か問題でもあるのか?」
「いえいえ、数年前から風間さんを知ってますけど、何か穏やかとかのんびりという言葉が似合わないって言うか……。その口から出る言葉が意外だったと言うか……」
千鶴の言葉に風間はムッとした表情を作った。
「お前は、俺がいつも人を斬り殺したり悪態を吐いたりしていたとでも思っているのか?」
「あれ、そうじゃないんですか?」
「俺とて好きで人間を殺していた訳ではない。時代が時代だったから仕方がないではないか」
風間が残りのとろろ蕎麦を一気に喉に通していく。それを見ていた千鶴も慌てて蕎麦を口の中に滑り込ませた。
「そ、それは分かってますけど。風間さんと出会う場所っていつも血生臭かったから……」
「お前はずっと俺の事をそう思っていたのか?」
「え、ええ……。あ、でも今の話を聞いてそうじゃないって分かりましたから」
「今の話? 今、俺がそのような男でないと理解したというのか?」
「ははっ、お蕎麦の残りを食べちゃいますね」
千鶴が今の話を終わらせようと、蕎麦を食べる事に集中を始める。その間、風間の心にはヒューッと物寂しい風が入り込んでいた。
風間とて穏やかな時代に生まれ育っていたならば。鬼の頭領などという地位にいなければこのような性格にはならなかったのかもしれない。そう思い悩んでいたのに、その悩みを愛する女の何気なく紡がれた言葉によってもっと深い悩みになってしまった。
【丁子屋】を出て暫く考え込みながら歩いていた風間は、知らないうちに千鶴の腰から腕を外していた。そして千鶴の気配が薄くなったのを感じて後ろを振り向くと、千鶴が訳の分からない旅人風情の男二人に声を掛けられている。雰囲気からして引っ掛けられているようだ。困惑した表情をしながら風間の方を見ていた。
風間の心の中からモヤモヤと嫉妬の感情が伸し上がってくる。男に声を掛けられ困っているのならば、大声を出して自分を呼べばいいものを――。困惑顔をしながら頬を染めるとは、何という浮気性な女なのだろうと考えながらも、風間はずかずかと千鶴とその男二人に歩み寄り、千鶴の身体を自分の方へグイッと引き寄せた。
「俺の連れに何か用でもあるのか? あるのならば俺に話を通してからにしてもらおうか」
風間の殺気めいた言葉と態度に、男二人は恐れをなして後ずさりを始めた。
「いやいや、道を聞いていただけなんだよ。すまなかったな、姉ちゃん……」
二人はそう言って、風間と千鶴の方にチラチラと振り向きながらも、早足で西の方へと向かって行った。
「風間さん、有難うございま……」
千鶴が感謝の言葉を告げようとした時、機嫌の悪い風間が問い掛けてきた。
「あの男たちに何を言われていたのだ?」
「えっとぉ……よく分からないんですけど、道が分からないのならば一緒に西に行こうとか何とか言ってたような……」
それを聞いた風間が機嫌の悪さはそのままに冷めた一言を放ってきた。
「お前は馬鹿か?」
「はっ? 馬鹿って私がですか?」
「そうだ。あのように引っ掛かりに合うとは……しっかりと断れ。それと、何故俺の名を呼ばんのだ?」
苛々としている風間に千鶴はシュンと項垂れてしまう。あの男たちにはしっかりと丁寧に断ったし風間にも声も掛けた。何度も風間の名前を呼んだのだ。しかしあの男たちはしつこい上に、風間は無視したまま歩いて行こうとしていた。
他にどうすれば良かったのか?
「何か、安倍川の時から風間さんは変です。私はあの男の方たちに声を掛けられた後、風間さんって何度も呼びました。あの人たちにも丁寧に断りました……」
項垂れながら呟いていた千鶴が顔を上げる。その表情や立ち姿に風間の心が揺すぶられた。この言いようもない感情は、先程から嫉妬しているから起きている事くらい風間には分かっていた。
男たちが惹かれるのも分かるような気がする。何故なら千鶴を今、目の前にした風間もその艶めいた表情に見惚れてしまい、自分の理性が吹き飛ばされるような感覚が生じたからだった。その嫉妬を押し隠すようにした風間が普段通りの態度を千鶴に見せる。
「さて、宇津ノ谷峠を超えるとするか。夕方までには岡部宿に到着できるだろう」
「はい……」
千鶴の表情はまだ硬い。妻となる女はすぐには抱かないというのが風間の信念だ。気持ちを通じ合わせた後に抱くと決めていたのに、千鶴が他の男たちと会話をしていたり、誘われていたりするのを見ただけでこのように心が揺らいで焦ってしまうとは――。風間はそう思いながら千鶴の手を強く握り締めた――。
二人は、岡部宿に続く宇津ノ谷峠の登り口の近くの場所にある【お羽織屋】と呼ばれる店に入った。そこには、かつて豊臣秀吉が褒美に与えた胴腹(陣羽織の一種)や、それを見た徳川家康が残して行った茶碗を旅人たちに見せてくれているのだという。勿論ここでも二人の意見は西と東に分かれてしまった。
風間は秀吉のキンキラ衣装が気に入ったと褒め、千鶴は家康の素朴な茶碗が好きだと感動したように言う。
「風間さんて、派手好きですか?」
千鶴が何気なく質問してみると、やはりそれも気に入らなかったらしい。風間は千鶴に悪態を吐いてきた。
「ふん、お前のように貧乏臭いものを好きだと言う奴の気持ちが分からん。華やかのものを美しいと言って何が悪い?」
千鶴の紡ぐ一言が癪に障る。自分の中の嫉妬感や焦燥感を押さえ込もうとしている風間ではあったが、その感情が言葉として出てしまっているのが分かっていた。しかし安心した事には、千鶴が度がつく程の鈍感だという事だった。恐らく疑問には思っているだろうが、まだ風間の心の中までは分かってはいない。
自分がこれ程に嫉妬深い男だったとは笑けてくると風間は心の中で呟いた。そして先ほど声を掛けてきた二人の男たちの顔を思い出し、千鶴からはできるだけ目を離してはならないと、風間は自分の心の中に言い聞かせていた。何故ならば、安倍川の時から千鶴を見る周りの男たちの目が気になりだしていた風間。共に蝦夷まで行った時の千鶴の格好は男装だった。しかしあの時も女の格好をしていたならば、きっと周りの男たちは振り向いただろう。子供のような表情や仕草が、蝦夷までの道中で時折女のそれらに変化した時、この風間でも少し戸惑ったものだった。それにあの時と今の千鶴の表情や仕草は生長していて、不完全な女から完全な女へと変化しているのだ。
今回の旅も男装をさせるべきだったかと、風間は隣で自分の態度に困り果てている千鶴を見ながら考え始める。しかし、今更ながら男装をしろと言っても、余計に変だと言われるだけだと気付いて、その言葉を喉奥に引っ込めた。そして大きな溜め息を吐くと、お羽織屋を後にして宇津ノ谷峠に向かって歩いて行った。
風間と千鶴が東海道の難所である宇津ノ谷峠を登って行く。そこは朝の明るい日が差しているにも関わらず、夕方のように薄暗かった。
この峠には伝説があると、風間が説明を始める。
宇津ノ谷にあった梅林院の住職に腫れ物ができた為に小僧に膿血を吸わせたところ、その小僧は人の肉の味を覚え、街道を通る旅人をつかまえては食べる人食い鬼になってしまっていた。その話を聞いた在原業平が鬼退治を祈願したところ、地蔵菩薩が僧に姿を変え、宇津ノ谷峠に向かったのだそうだ。
僧が峠にさしかかると、向こうから人間に姿を変えた鬼が近づいてきた為、僧が
「本性をあらわせ」
と言うと、鬼はたちまち六メートルにも及ぶ巨大な鬼の姿を見せたのだが、僧は慌てずに
「お前の神通力はたいしたものだ。今度は出来るだけ小さくなって、わしの手の平に乗って見よ」
と言葉を続けると、鬼はたちまち小さな玉となって僧の手の平に飛び乗ったので、僧は持っていた錫杖で玉を砕き
「お前はこれで成仏した。これからは旅人を苦しめてはならぬ」
と悟して、砕いて十粒になった鬼を呑み込んでしまった。その後宇都ノ谷峠では、鬼の災いがなくなり、村人たちは地蔵菩薩を道中守護としてお祀りし、旅人の安全を願って十団子を作って魔よけとしたらしい。
「これが宇津ノ谷峠に伝わる十団子伝説といわれるものだ」
「何か、鬼っていつも悪い役ですよね……」
「まあな、鬼は古来から恐れられていた生き物だから仕方あるまい」
歩くのも辛い道は話していると体力が落ちるのも早い。二人は先ほどから繋がり続けているお互いの手に力を込めながら黙々と歩いて行った。
岡部宿に着いた風間と千鶴は、先ほどまでのだんまりを覆すかのように話し出した。話すと言っても殆どが千鶴の口から言葉が漏れ出しているだけだ。風間はそれにややこしい返答をしたり、反対に質問返しをして千鶴を困らせている時が多かった。しかし千鶴が少しでも離れると、風間の手や腕はそれを許さないかのように千鶴の身体に絡みついてくる。千鶴が不思議そうに風間の顔を覗き込むが、その表情からは何の感情も読み取る事はできなかった。
岡部宿の近くにある橋が掛かっていた。そこは【小野小町の姿見の橋】だと風間が教えてくれる。何でも、小野小町が晩年に京から東国に下る途中で岡部宿に泊まり、その時に橋の下の水面に映る長旅で疲れ果てて老いた自分の姿を見て嘆き悲しんだという言い伝えが残っているらしい。
千鶴はその水面に自分の姿を映して見た。今が盛りの女の顔をしている。小野小町は老いた自分を見て嘆き悲しんだ。しかし今、この水面に映っている自分は若い。千鶴は、その水面の自分にふんわりと笑い掛けた。
京にいた時とは違って女の格好をしている。京で千鶴そっくりな女を見たあの時は水溜りであった。そこに千鶴は自分の姿を映してあの女を羨んでいた。
千鶴は新選組と共に生活を始め、巡察にも一緒に行かせてもらっていた事を思い出した。そしてあの時の綺麗な桜色の着物を着た女の事を考えていた。今も生きているのなら千鶴と同じくらいの歳だろう。きっと美しい女になっているに違いない。
名前は確か――と、千鶴は水面の自分を見つめながら思い出そうとする。暫く考え、ようやく思い出す事ができた。
「南雲、薫……」
すぐ傍で千鶴が水面から離れるのを待っていた風間は、その名前を聞いて驚きの表情を浮かべた。
「千鶴、お前は南雲薫を知っているのか?」
「えっ? 風間さんはあの女性とお知り合いなんですか?」
「女性だと? あやつが女だったとはどう言う事だ?」
風間が更に驚いた為に千鶴は自分の言葉に何か誤りがあったのだろうかと思い、あの時に出会った南雲薫の事を話し出した。
千鶴の話を聞いた後の風間は首を傾げながら考えていた。そして、ハッと目を見開くと千鶴の方に振り向いた。
「千鶴……お前と南雲薫の顔はそっくりだったのだな?」
「はい、沖田さんが私を南雲薫さんの横に並べさせて見つめた後に、そっくりだって言われました。確かに似ていたんですけど……」
「千鶴、あいつは男だ……。何の意味があって女装をしていたのかは知らんが、確かに男だ。そして、あれも鬼だ」
風間の言葉に今度は千鶴の目が驚きの為に見開かれた。あの美しい女が男だとは信じ難い話だった。
「あの人が男ですって? すっごく色っぽい方だったんですよ?」
「ふん、いい事を聞いたぞ。あいつに女装の趣味があったとはな。初めて会った時から俺はあいつが気に食わなかったのだ。苛め甲斐がある」
「何ですか、それ……」
風間はニヤリと笑った後に、急に真面目な顔をして千鶴を見つめた。
「千鶴、今宵はこの岡部宿で泊まるが、その時にお前に話がある。恐らく、お前にとっては衝撃的な話かもしれん。心の準備をしておけ」
風間はそう言うと、行くぞ――と千鶴の手を取って歩き始めた。心の準備をしておかなければならない程に深刻な話なのだろうか? 千鶴は風間の横顔を見ながら不安な気持ちから守って欲しいかのように、その握られた手をギュッと握り返し、今夜泊まる旅籠へと入って行った――。
ここ、宇津ノ谷の名物は十団子である。夕食を終えた後にその団子は出てきた。勿論千鶴の大好きな団子である。しかし、宇津ノ谷峠を越える時に風間にこの地の伝説を聞いた千鶴は、その団子だけは食べる気にならなかった。
この地での伝説は鬼退治のものであり、その十団子は苦難厄除けの団子だったからだった。
「流石のお前でも、その団子は食べられないようだな?」
千鶴を自分の胡坐の上に乗せた風間がからかいながら言うと、千鶴は少し悲しそうな顔をした。
「【鬼退治】って聞こえが悪いですもの。風間さんや私は鬼ですけど、何も悪い事をしていません。ただ、生命力や治癒力、その他の力が人間より優れているだけでこんな事言われる筋合いなんてないです。自分が鬼だと知るまでは、鬼は怖いものだと思っていましたけど、自分の素性を知ってしまった今ではそうは思えません」
「やっと、お前も鬼としての自覚が芽生えてきたか」
風間はククッと笑いながら千鶴の首筋に顔を埋める。そのくすぐったい感触が千鶴の身体を硬直させ、胸の高鳴りを響かせたが、それを感じさせないように話を続けた。
「でも、私って本当に鬼なんでしょうか? 治癒力や病気に対する回復力は確かに人間より早いって思うんですけど、他に鬼としての取り得はないし、父さまを倒した時の風間さんのように角が生えた事もないし……」
首筋に顔を埋めていた風間の顔が静かに離れる。その瞬間に千鶴の身体の中に、何か言いようもない物足りなさを感じ取った。
「鬼にも様々な体質ながあるのだろう。角など今では見せなくてもいいものだ。俺とてあのような姿、人間の誰にも見せとうはないわ。見せれば恐れ慄くだけだからな。人間は外見だけで判断する。俺たちも普通にしていれば人間と同じだ。厄除けの十団子など食べなくともいい。お前は普段から食べ過ぎる気があるから丁度良かった」
「風間さん、私って食べてばかりですか?」
「何だ? 何か言いたい事でもあるのか? 言いたい事があるのならば最後まで言え」
風間の胸に凭れ掛かっていた千鶴が静かな声で呟いた。
「まだ旅の途中ですけど、私から見て風間さんは変わったように思います。最近は変ですけどね。穏やかになったと言うか……昔の風間さんは怖い印象しかなかったからかもしれません。でも、風間さんから見た私は全然変わっていないのかなって思っただけです」
千鶴は最後まで言い切ると、恥ずかしそうにしながら、
「南雲薫さんの事について話があるのでしょう?」
と、風間の手に自分のそれを重ねてくる。鈍感だ、餓鬼だと言い放っていたが、千鶴は風間の事をしっかりと見てくれている。そんな千鶴の重ねてきた手を握りながら風間が言葉を投げ掛けた。
「南雲薫の事については布団の中で話すとしよう」
風間と千鶴は二組敷いてあるうちの一つに入り込み、身体を寄せ合った。連日歩いている為、千鶴が眠りに落ちていくのは早い。しかし、南雲薫の話を聞くまでは寝まいと、重みのある瞼を必死に持ち上げた。
南雲薫――風間が薫の顔を見たのは千鶴が鬼と分かり、二条城に襲撃をした後に開かれた会合の時だったらしい。顔やその表情、姿までもが千鶴にそっくりで、一瞬薫を千鶴と間違えるほどだったという。
「その時の薫さんは男装だったんですよね?」
「ああ、まさかお前の前で女装などしているとは思わなかった。しかし、俺はあいつの態度が気に入らなかった」
「どうしてですか?」
千鶴が不思議そうに風間の顔を見つめると、風間は暗闇の中でフッと笑みを漏らした。
「チビのくせに高慢な奴だったのでな」
「風間さん、あなたが言える立場でないのでは?」
「俺はチビではない」
風間はフンッと鼻息を鳴らした。チビではないと否定はしたが、高慢を否定しなかったという事はそれを認めているのだろうか?
その後、薫の事が気になった風間は、天霧に命じて薫の素性などを調べさせたらしい。すると、意外な事が判明した。
「南雲薫は、本当は雪村薫だったらしい」
「えっ、雪村薫……」
「お前の双子の兄だったようだ。雪村家が人間に滅ぼされた後のお前は綱道に、薫
は南雲家に引き取られた。そして、俺たちがお前の素性を知って接触を図った後からあいつが京にやって来たのだ。恐らく、お前に会う為に京にやって来たのだろう」
千鶴の脳裏に過去の雪村の土地が映し出された。小さい頃の千鶴と、その傍らに自分によく似た子供が立っている。
千鶴家が火の海と化した時、その子供を助ける大人はおらず、千鶴だけを助けようとしていた大人たちの姿が見える。
あれは父と母だろうか? そしてもう一人の千鶴によく似た子供が火の海の中、こちらを見つめていた。
哀しそうに――そして愛しそうに――。
その瞳を見た瞬間、千鶴の目の前の家の柱が崩れ落ちていった。
薫っ!
崩れ落ちる家の前で叫んでいる自分がいる。怖い怖いと泣き叫んでいる自分もいた。薫の名を呼ぶ千鶴を誰かが抱いて火の海から遠ざかって行く――。
「千鶴……泣いているのか?」
風間の呼びかけにハッと我に返った千鶴の瞳は涙で濡れていた。
「私……過去の事を少し思い出したようです」
辛い思い出は千鶴の心の奥の箱の中に入れられて鍵を閉められていたらしい。その箱の鍵を風間が開けてくれたのだ。
人間が憎いと思うのは簡単だ。しかし人間が憎いというよりも千鶴は悲しかった。雪村家の事も自分の家族の事も忘れてしまい、思い出せなかった自分が悲しくて悔しかった。
「皆、私を優先的に助けていました。薫は全く気にしてもらえてなかった。でも私は兄である薫が好きだった。薫が火の海の中に消えた時に叫びました。薫の名を呼び続けました……」
「大人がお前を優先的に助けたのは、お前が女鬼だったからだろう。初めて会った時にも言ったが、女鬼は鬼の世界の中では貴重なのだ。何せ数が少ない上に、お前のような純血の女鬼は稀だからな。南雲家は貧乏籤を引いた訳だ。引き取られた後の薫の事は知らんが、恐らくいい待遇ではなかったろう。男鬼などいくら純粋と雖も要らぬに等しいからな」
「鬼も人間と同じで勝手な生き物ですね」
「鬼を人間と一緒にしてくれるな。虫酸が走る」
千鶴は、そんな風間の首に腕を絡み付けると瞳を閉じた。
「今夜は泣いてもいいですか? 私、悲しかったけれど嬉しいんです。家族を皆、失くしたと思っていたから……薫は生きているんですよね? 南雲家にいるんですよね?」
「ああ、元気なようだ。南雲家の主になってからはしたい放題のようだがな。しかしあいつは性格が悪いぞ。かなり捻じ曲がっている」
それを聞いた千鶴が、風間の耳元でフフッと小さい吐息を漏らしながら笑う。その優しい風が風間が必死に保とうとしている理性を簡単に吹き飛ばそうとしていた。
「性格が悪くても、捻じ曲がっててもいいんです。それでも私の血の繋がった家族ですから……」
千鶴の体温が風間の身体に染み込んでいく。風間は自分が気の長い男だと思っていたがそうではなかったようだ。そしてかなり嫉妬深い。この二つの発見に少し戸惑いを感じたが、千鶴の前では無理に隠す必要はないのだと思い始めた。
「千鶴、少しだけいいか?」
「どうしたんですか?」
「我慢ができん……」
「はいっ? ……えっ?」
風間がいきなり千鶴の項に口付けを落とす。黄金の髪がチクチクと千鶴の頬に突き刺さってきた。しかし、千鶴の中には風間に何かをされている感覚よりも睡魔の方が勝ってしまっていたようだ。
千鶴の身体の力が完全に抜け落ちた。
項に吸い付いている途中で何かがおかしいと気付いた風間が千鶴に呼びかける。
「千鶴……?」
風間の目の前には静かな寝息を立てている千鶴の姿。
「この状況の中で、まさか寝ているのか? 信じられん……」
風間が呆れ果てながら見つめる中、千鶴は柔らかい笑みを顔に浮かばせながら深い眠りに入っていた。
翌朝、困った顔をした千鶴が風間に声を掛けてきた。
「風間さん。私、蚊に噛まれたみたいなんですけど……」
「蚊に噛まれただと? 今は冬だぞ」
「そうですよねぇ……痒くないんですけど、これ見て下さいよ」
千鶴が風間に見せたもの。それは、昨夜風間が口付けた痣が一つ――。それを見た瞬間、昨夜の事を思い出した風間は千鶴を見つめ、大きな大きな溜め息を吐いていた――。
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