東海道-岡部宿→藤枝宿
「もう、こんな時期に虫に刺されるなんて思ってもみなかった……」
ぶつぶつと文句を垂れる千鶴の隣で風間が気まずそうに歩く。虫刺されではないと言いたい風間ではあるが、千鶴は完全にそれだと思い込んでいる。それに道中は何もしないという約束までしているのだから、昨夜はどうしても我慢ができなくなってやりそうになったなど口が裂けても言えない。
風間が未だに文句を言い続けている千鶴を横目で見やると、その痣がある個所に手を当ててボリボリと掻いている。
「痒いのか?」
「いいえ、痒くはないんですけど、何か気持ち悪くって……」
千鶴のその一言で風間の表情に不機嫌な色が露わになる。
俺の口付けが気持ち悪いとは何という物言いをする女だ――
風間の心の中は悶々とする上に、この痣が何かを知らない千鶴の言葉に一人勝手に苛立ちを覚えていた――。
岡部宿は本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠が二十七軒の総戸数四百八十七戸の大きな宿場である。
風間と千鶴が歩いていると、空が徐々に厚い灰色の雲に覆われ始めた。
「一雨きそうだな」
風間はそう呟くと、千鶴の手を引っ張って近くの慈眼寺の中へと駆け込んだ。
この慈眼寺お創建は慶長四年である。龍谷秀和泉(りゅうこくしゅうせん)和尚がこの地の人々の協力を得て伽藍を建立したと言われている。寺の歴史は新しいものではあるが、この寺は旅人たちの休憩や雨宿りに使用できるようになっており、誰でも気軽に入る事ができるのだそうだ。
風間と千鶴がその寺に入った途端、厚い灰色の雲からは大粒の雨が落とされてきた。
「危機一髪でしたね」
「ああ、俺は濡れるのは嫌いだからな」
千鶴の安堵した言葉に風間は答えると、すぐ傍にある縁側に腰を下ろす。周りに目を配れば、この雨を予想して休んでいる旅人や、いきなりの豪雨によって着物をびしょ濡れにしながらこちらへ駆け込んで来る者もいた。その中に忍びの者も紛れ込んでいて、濡れた着物を手拭いで拭いながら風間の隣に静かに座った。
風間がスッと片掌をその忍びに差し出すと、その上には重みのある巾着袋が乗せられた。それを素早く袂に隠し入れた風間が再び掌を忍びに差し出すと、その上で忍びの指が滑らかな動きを見せた。
島田宿も豪雨、大井川氾濫――
戸隠魁人、既に動きを見せ始めている。注意――
「この雨じゃ、大井川は氾濫しているだろうね」
「ああ、あの川の氾濫は珍しかねぇからな。まあ、島田宿でのんびりするこった」
千鶴は隣りでは西からやって来た旅人が東から来た旅人と会話をしているのを静かに聞いていて、風間と忍びのやり取りなど全く気付いてはいない。忍びからの情報で大井川が氾濫していると知った風間は少しだけ頬を弛めた。
忍びが風間の隣から静かに立ち上がり、目配せで別れの挨拶をすると、少し小降りになり始めた雨の中に姿を消して行く。それを黙って見送っていた風間は、品川宿で屋根裏に潜んでいた忍びに掛けた天霧への言伝を思い出した。
俺は千鶴と共にこの旅を満喫するのだ――
しかし、暫くは満喫できないかもしれないと、風間は灰色から黒に変わりつつある空を見上げた。
もうすぐあの男と相対する時が来るかもしれない。風間にとっては相手にしたくない男だ。気が合った風間とその男が好きになる女も結局は同じであった。
風間が過去の思い出に少しだけ浸っていると、千鶴が隣から肩を揺らしてきた。
「風間さん、雨が止みましたよ」
「ああ、そろそろ出立するか」
「でも、島田宿の大井川が氾濫しているかもしれないって言ってましたよ」
「ならば、島田宿で足止めだ」
「って事は、今日は島田宿に泊まるんですね」
「ああ、そうだ」
風間が辺りに目を配らせると、千鶴の手を取り次の宿である藤枝に向かって歩いて行く。
戸隠は既に追い付いて来ているはずだ。それなのにこの風間でさえも戸隠の気配を感じ取れないでいる。それ程に気配を隠すのが上手い男なのである。
雨が止み、明るい日差しが次の宿場へ向かって歩いている風間と千鶴の白い肌を照らしていた――。
左右に長く続く松並木を歩き、風間と千鶴は両足を藤枝宿の東木戸口に踏み入れた。
藤枝宿は、本陣二軒、問屋場二軒、旅籠四十七軒で戸数は百六軒。町人は四千人を超える大きな宿場である。そして田中藩の城下町として、またいくつかの街道が交差する要衝として、その上に商業の町としても栄えていた。
宿場の仲を歩いていた千鶴がクンッと鼻を嗅ぐ仕草を見せる。
「どうしたのだ?」
風間が問い掛けてみると、千鶴は少しだけ首を傾げた。
「何か、懐かしい甘い香りがするなって思って……」
「懐かしい甘い香り……?」
「ええ、風間さんは嗅いだ事がないかしら。一度嗅いでみて下さい」
千鶴にそう促された風間も鼻で息を大きく吸い込んでみる。そして緋色の瞳をぎらつかせた。
「この匂いをお前は知っているのか?」
「いいえ、覚えてはいないんですけど。風間さんはこの匂いを知っているんですか?」
「いや……記憶にはないな」
「そうですか……この香りをどこで嗅いだんだろ?」
間違いない、戸隠は既に追い付いて来ている――
その香りは忘れもしない。戸隠が幼い頃からいつも愛用していて、風間は絶対につけたくはないと感じた甘ったるい香の匂いであった――。
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