東海道-藤枝宿→島田宿



 風間に緊張が走る。それに気付かない千鶴は周りの風景を目を細めながら見つめて歩いていた。


 匂いはあるのに戸隠の気配を全く感じ取れない。風間の心中には今まで感じた事のない焦りと不安が生じ始めていた。


 二人が島田宿に向かって歩いていると、六地蔵の御堂があった。


 この寺は鐘ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺の二世照上人が退治をしたところ、その池の中から地蔵が現れたのだそうだ。そしてこの御堂を立てて祀っているのがこの寺であり、【鏡池堂】なのだそうだ。


 その先には東海道ではなく、【古東海道】への道しるべがある。先を見ると瀬戸山と呼ばれる山の姿がある。ここは大井川が氾濫した時の旅人たちがこの道を使用しているのだそうだ。


「風間さん、大井川が氾濫しているのならこちらを通って行きませんか?」


 千鶴が瀬戸山の方に向かって指を差すと、風間がフンッと顔を逸らした。


「行かん。俺は何としてでも大井川を渡るからな」
「何でです?」
「大井川を渡りたいからだ」


 のんびりと旅をするつもりなのに、この瀬戸山を超えてしまってはその雰囲気もぶち壊しだ。それに千鶴を守る為にはできるだけ旅人が多い場所を歩く必要がある。風間は瀬戸山の方に向かって足を止めている千鶴の手を握りしめると、大井川のある方の道へと向かって歩みを速めて行った。


 途中で【千貫堤】と呼ばれる場所へとやって来た二人。ここで千鶴は風間からの説明を受けた。


「これは大井川の洪水から田中城を守る為に、寛永年間に築かれた大堤防だ。一千貫もの労銀を投じて造った為にこの堤防を【千貫堤】と呼ばれているらしい」
「それ程に大井川の氾濫は恐ろしいものなんですね」
「そうだな。水量は多い上に流れも複雑で速い。少しの雨だけで上流からの水かさが増すくらいだからな」


 そして風間がある場所に視線を投じる。


「さて、休憩でもするか」
「休憩……?」
「あそこに茶屋がある。そこで売られる染飯(そめめい)が名物だ」


 千鶴の顔に明るい光が差し込む。風間も懐も光が差し込むくらいに裕福。その光の内容は違う二人だが、足取りは互いに軽くて機嫌も良い。そして握り締めていた手に更に力を込めた風間と千鶴は、その茶屋の中に姿を消して行った。


 【染飯】はもち米を蒸した強飯(こわいい)を梔子(くちなし)の実で黄色く染めてすり潰し、小判の形に伸ばして乾かしたものである。これは足腰の疲れを癒す食べ物として旅人に人気なのだそうだ。


「本当に足腰に効くんですかね?」
「さあ、効くというから人気があるのだろう」
「風間さんは食べないんですか?」
「俺はそのようなものに頼らんでも、足腰は丈夫だからな。何せお前とは違い……」
「はいはい、どうせ私は鬼らしくない鬼ですよ」


 千鶴は風間の自慢話を遮るような言葉を発した後に、大きな口を開いてその染飯に齧り付いていた。




 東に大井川、西に小箱根と言われる金谷坂や小夜の中山の難所を控える場所へ向かう二人に、初めて足止めをされる日がやってきた。


【箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川】である。先ほどの豪雨のせいとまだ止みそうもない北風も強く、大井川は水量が増して流れが急な為に川越が禁止されて足止めとなってしまった。


 仕方なく、二人は足止めが解除されるまで島田宿で過ごす事となった。


 旅籠で寛いでいた千鶴がボソッと呟く。


「暇……」
「俺と同じ部屋でいる事だけで満足をしろ」
「できません。だって風間さんは何も喋らないで座っているだけなんですもん。暇です」
「この俺の顔を見ているだけでも暇ではないだろう」
「暇ですったら!」


 千鶴の言葉に腹が立った風間が立ち上がる。その動きを見つめていた千鶴が問い掛けてきた。


「どこに行くんですか?」


 厠へ行こうと思っていた風間だが、目の前で期待するような瞳を見てしまってはその言葉も引っ込んでしまう。


「島田宿を散策するか」
「はい、行きましょう!」


 そこで二人は、島田宿の中で旅人に名高い場所へ行く事にした。


 この島田宿は、本陣三軒、旅籠五十一軒、総戸数千四軒で町人は四千二百七十一人であり、大井川の上流で切り出された木材の集積地として栄えており、大規模な宿場町である。


 二人は一つ目は御陣屋稲荷神社へと足を運んだ。ここは何でも代官の長谷川藤兵衛が、汚職役人を戒める為に、初午の日は無礼講として普段入れない御陣屋稲荷の参拝を町人に許し、役人の悪い事があったら申し出るようにした事から始まったらしい。その際、町人は自分が申し出た事を知られないようにする為、身代わりの人形を作り、人形が言った事にして申し出たそうだ。


「名高い悪代官がいた中でいいお代官さまもいらっしゃったんですねぇ」


 風間の説明に感心しながら稲荷を見上げる千鶴に、隣に立つ風間は興味がなさそうに言葉を放った。


「どうせ、町人からいい評価を貰いたかっただけだろう」
「風間さんって、何でそんな考え方しかできないんですか?」


 現実的だと言うべきか、本当に人間が好きではないと言うか――風間の放つ言葉には棘が突き刺さるような痛さを感じる。千鶴がそんな風間に呆れ果てながら歩いていると、大きな鳥居が見えてきた。よく見てみると、多くの参拝客が女である。


「風間さん、あそこへ行ってみませんか?」


 千鶴が失礼だと思いながらも遠慮がちにその場所に指差すと、その方向の鳥居を見た風間は、意味ありげな笑みを浮かばせながら、


「いいだろう。行ってやる」


 そう言って頷くと、二人はその鳥居を潜って行った。


【大井神社】


 そこで千鶴は静かに目を閉じて手を合わせる。千鶴の横にも後ろにも数えきれない程の女が手を合わせていた。


 何でこんなに女性が多いんだろう?


 千鶴が不思議に思いながら目を開けた時、いつもは参拝も何もしないはずの風間が隣に立っていた。


「千鶴、よく祈っておけ。ここはこれからの俺たちにとって最も大事な願いを叶えてもらわねばならん神社だからな」
「はい? どう言う意味ですか?」


 千鶴が不思議そうに首を傾げながら風間の方を振り向くと、風間は呆れ果てたような表情で千鶴を見つめた。


「お前はここの神社の神が何の守り神か知らんのか? 一体お前はここで何を願っていたのだ?」
「はあ……。女性が多いなぁとは思ったんですが、一応、旅の安全を祈願したんですが……いけませんでした?」


 千鶴の返答に風間は大きな溜め息を吐きながらこの神社の御利益の説明を始めた。


「この神社の三柱の祭神は女神だ。そして安産、女、子供の守り神でもある。何故に女の参拝が多いのか意味が分かったか?」


 風間の先程の言葉と今の言葉に、千鶴の顔は真っ赤に染め上げられた。


「安産……ですか? 私、まだ身ごもっていませんけど……」
「いずれそうなるのだ。それに周りをよく見てみろ。腹が大きな女だけではないだろう? こういう神社は赤子が授かるようにと参拝する女たちも多いのだ。お前も西の里で子が十人……いや百人でもいい。たくさん生まれるように祈っておけ」
「な、なな何て事言い出すんですか! 私が百人も子供を産むなんて無理ですよ! 十人だって無理があるのに……」


 この神社の御利益を聞いた千鶴が大慌てでその神社から離れようとするが、風間はその後ろをぴったりと引っ付いて歩きながら、千鶴の耳元で今朝気が付いた首の個所の痣の事で意地悪く囁いてきた。


「えっ、これって風間さんが付けた痕なんですか?」
「そうだ」


 千鶴は朝になって見つけた首の痣が風間によって付けられたものだと知り、驚きながらも薄らながらの記憶を辿っていく。確か昨日の夜に【我慢ができん】とか何とか言った風間が、千鶴の項辺りに顔を埋めたのを思い出した。しかし、その後の記憶が一切ないのだ。


「普通の女ならば、あのような雰囲気の中で寝てしまう事はないと思うのだが、その痣が付いたという事は、お前は身ごもっているかもしれん」
「あの……風間さん。私は風間さんが考えているほどまで無知じゃありませんからね。子どもの作り方くらいは知っていますので、変な事を言ってからかわないで下さいな」
「ほう……子の作り方の行為を知らぬと思っていたが、知っていたのか。つまらんな」


 風間が厭らしそうに笑みを浮かべたのを見た千鶴は、昨夜の意識がなくなった後の風間の行動に不安を覚え始めていた。


「風間さん……もしかして私が寝てしまって意識がない時に変な事でもしました?」


 両眉を八の字にさせた千鶴が風間の顔を覗き込む。その表情がまた面白くて可愛らしいと思った風間は、更に意地悪な言葉を出し始めた。


「変な事とはその痣を付けた後の行為の事か? まあ、俺も男だからな、押さえ切れん症状が出る時もある。お前が意識を失った後はじっくりと堪能させてもらった」


 その言葉に千鶴の瞳は大きく開かれる。そして目尻には涙がプクプクと溢れて出てきた。


「風間さん、私はまだあれの行為をした事がないんですよ……酷い。私の意識がない事をいい事に約束まで破るなんて……男として最低の行為です!」


 大勢の旅人が行き交う中、恥ずかしげもなく大きな泣き声で風間に訴える千鶴に、風間は気にする事もなくニヤニヤと笑うばかりだった。そして大声で泣いた後にしゃくり上げながらトボトボと歩く千鶴の隣りで、風間はやれやれと言うように真実を伝えた。


「どうも、お前を苛めすぎたようだな。お前が意識を失った後は何もしておらん。お前は馬鹿なのか?……と言うよりも、やはり無知だな。初夜の女が行為を終えた後、どのようになるのかも知らんとは……」


 風間の言葉に千鶴は涙で濡れた目を見開きながら、


「本当にしてないんですか? って、この首の痣だってその行為の中に入るんじゃないんですか?」
「阿呆! 初めてやった女の身体がどうなるのかから教えねばならんのか。そんな前儀は行為の中には入らん。俺の手を出さんと言うのは子を作る行為の事だ。この旅の中でそれぐらいは覚悟しろ。それに、俺は意識のない女を襲うほど下卑てはおらんし約束もあるからな……お前がしたいと言うまではせん。信じるか信じないかはお前の勝手だが……」


 風間はこのように捻くれた性格はしているが約束は破らないし、嘘も言わない男だと知っている千鶴は、ホッと胸を撫で下ろした。そして、この首の痣の事はこれ以上言わないでおこうと決めた千鶴だった。


「もう、からかわないで下さいよ。旅人たちの目の前で恥ずかしい事をしちゃったじゃないですか」
「お前をからかうのは面白い」


 ククッと笑う風間に、真面目な顔をした千鶴がボソッと呟くように問い掛けてきた。


「風間さん……初めて子を作る行為をした後の女性の身体ってどうなるんですか? 私が書物で読んだのには、処女膜がどうのこうのって書いてありましたけど……」


 そんな問い掛けをしてきた千鶴の顔を見た風間はふっと口元を緩め、耳元に艶めいた声音で囁いてきた。


「それは実際にやってみなければ分からん。今宵試してみるか?」


 風間のその言葉で千鶴の全身からはゾクゾクッと悪寒が走り、その影響なのか漆黒の髪の毛が静電気を起こしたようにピンピンと立ち上がっていく。


「えっと、遠慮をしておきます」
「遠慮などしなくていいぞ。俺は大歓迎だ」
「いえ、まだ心の準備ができていませんから……」



 しかしその夜、風間は前儀行為は約束事には入らないと言い切り、千鶴の首には朝に見つけたものと同じような形の痣が作られていたのであった――。


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