東海道-島田宿→金谷宿
「やっぱり消えない……」
「何が消えないのだ?」
「昨夜、風間さんがつけた痣ですよ。これって怪我の傷よりも酷いものじゃないのになかなか消えないんです」
風間が千鶴の首に付けた痣のある個所に視線を流すと、そこには一度目に付けた消えそうな痣と、朝になっても未だにくっきりと残っている二度目に付けた痣が色鮮やかに残っていた。それを見つめながら風間が意地悪く笑む。
「それが消えるまでには時間は掛かる」
「何でですか?」
「さて、何故だかは分からんが……この口付けの痕は消えにくいと言われている」
「何でだろう……?」
千鶴がその個所を手鏡に映しながら首を傾げる。その痣が消えない理由を言う訳にはいかない。風間は説明したくなっている口元を強く閉じた。
この痣がなかなか消えない理由は、愛する者に付けた痣だからであった――。
この島田宿は、室町時代から幕末まで多くの刀工がこの宿に軒を連ね、鍛冶集団を形成していた。特に戦国大名の今川氏、武田氏、徳川氏などに高く評価されて繁盛していたらしい。しかし、その鍛冶屋も明治に入ってからは数を減らしていっている。
時々耳に流れ込んでくる刀を打っている音が風間には心地良いらしく、賛美の言葉が風間の口から紡ぎ出された。
「やはり、刀を打つ時の音はいい音だ。刀には魂が宿るとも言うからな」
「風間さんは刀がお好きですか?」
千鶴の問い掛けに風間はやけに素直に首を縦に振った。
「嫌いと言えば嘘にはなるな。俺はこの刀で己の命を守ってきたのだから……。しかし、近いうちに刀が必要ではなくなる時代がやってくるだろう。それはそれでいいのではないかと思っている。俺のこの刀は人を斬る為だけの代物にはなって欲しくはない。人間を斬り過ぎた刀は、そのうちに人間の生き血を欲するらしい。そして、刀が人間を操っていくのだ。あの時の俺もそうだったのかもしれん。しかし、刀を打つ匠がいずれいなくなるという事は寂しいものだな」
風間の少し悲しげな声音に、千鶴は自分の手を握っている風間の手を優しく握り返した。
「風間さんは大丈夫です。刀になんて操られてなんかいませんよ。それに、あの時の私は風間さんのその刀で命を救われたのです。刀は人間を斬る恐ろしい道具だけれど、私はそれによって守られてきました。だから、一概に刀だけが悪いとは言えないと思うんです。時代によって、刀の必要性の考え方が変わっただけです」
「この俺に意見やら説教やら慰めやら……お前は何さまのつもりだ? 全く……日の本広しと言えども俺に逆らう女はお前が初めてだ」
「それ……島原でも言われました……」
しかし、先程までの哀しそうな表情が一気に高慢な頭領の風間のそれに戻っている。千鶴の言葉に少しは文句はあるものの、気分は害さなかったらしい。千鶴はふんわりと微笑むと、風間の手を再度握り締めた。
「風間さん、今日はどこまで歩くんですか?」
「今日は日坂宿まで歩く」
「では、早く行きましょう」
「そうだな……」
風間も千鶴の手を強く握り返す。そして二人は、次の宿場である金谷宿に向かって歩いて行った。
「今日の髪型はいつもと違うな」
「あ、気付いてくれたんですか?」
風間の問い掛けに千鶴が嬉しそうに笑い掛けてくる。
「この島田宿って【島田髷】が有名なんですよね? だから旅籠の女の方に結ってもらったんです」
「ほう……」
この【島田髷】は日本髪においてもっとも一般的な女髷であるl。特にまだ嫁に行っていない未婚の女や花柳界の女が多く結った事でも有名である。
「この髷の歴史を遡ると、かなり古の時代からあるのだそうだ。今では地域や身分、職業や個人の趣味が反映されている結い方になっているが、江戸で最初の髷は【元禄島田】だな」
「【元禄島田】?」
「ああ、【島田髷】の原型は【若衆髷】という未成年の男子の髪型であった。子供の髷から男髷への過渡期にある男の髷であるから前髪を残し、月代を狭く反り、髷は水平で太いものであったらしい。その髪型を遊女が取り入れ女向けに改良した途端、たちまちに大流行をした。そして貴賤を問わず娘たちがこぞって結うようになったらしいぞ」
説明を聞いていた千鶴が風間の顔を凝視してくる。
「何だ? 俺の顔に何か付いているのか?」
「いいえ、風間さんって幼い頃からその髪型なんですか?」
「ああ、そうだ。それがどうした?」
「ちょん髷ってした事がないんですか?」
「ちょん髷とは武士がしているあの髪型の事か?」
「ええ……」
風間は想像する。自分の頭がちょん髷になった姿を――そして頭を大きく左右に振った。
「あのような恰好の悪い髪型を俺がする訳がなかろう!」
そう言うと、千鶴もニッコリと笑って頷いた。
「私も風間さんはその髪型が似合っているから、あのちょん髷でなくて良かったです」
千鶴は風間のこの短髪をかなり気に入っているようで、共に布団に入った後には一度は必ず手を伸ばして触ってくる。あのちょん髷をしたいと思った事はないが、やらなくて良かった――千鶴の笑顔を見てそう思う風間であった。
歩いて程なくすると荷縄屋と札場があり、【川越人足】たちが出番を待つ建物の前に辿り着いた。かなりの人数に千鶴が両目を白黒させる。人足の数は大井川両岸にそれぞれ三百五十人ずつと決められていたらしいのだが、幕末にはその倍近くに増えたのだそうだ。この川越制度は元禄九年から今に至って続いている。
風間が川札を買って迅速に渡す。昨日よりかはましなのだが、水深はかなり深いようで、川札の値段は少し高値であった。
【股通】という股下の水位の時は川札一枚が四十八文(千四百四十円)。【乳通】という胸のあたりの水位の時は七十八文(二千三百四十円)。その他にも川札の数は肩車や連台でも異なる。
風間は安倍川と同じく半高欄なるものの連台での川渡しの金を出していた。
「風間さんは連台じゃないと駄目でしょうけど、私は身体も小さいし軽いから人足でも大丈夫ですよ。連台って高いんでしょ?」
風間に気を遣った千鶴だが、何故だか睨みを受けてしまう。
「お前も連台だ……」
何故に人足がいけないのだろうか? 千鶴がその理由を知ったのはかなり後になってからの事であった。
この大井川を渡ると目の前は金谷宿。連台から下りた二人は金谷宿に向かって歩みを進めて行った――。
程なくして、風間と千鶴は金谷宿の東の入り口に到着をした。この金谷宿も大井川の氾濫の際には江戸に向かう旅人がここに足止めをされる為に、島田宿同様の賑わいを見せる宿場だ。
金谷宿は本陣三軒、脇本陣一軒、そして旅籠五十一軒の小さな宿場町である。二人は通り道にあった茶屋で少しの休憩をした後すぐに出立をする。何故ならば、この先には【小箱根】と呼ばれる【金谷坂】を越えねばならないからである。
「ここは箱根峠と違って石畳がしっかりと組まれた道だからな。転ぶ事はあるまい」
金谷坂の入り口まで来た風間が奥に続いている石畳を見つめながら呟く。この石畳は、江戸時代にここが粘土質で峠越えが難儀だった事から敷かれたものらしい。
「今日は晴天ですし、大丈夫ですよ!」
と千鶴は張り切って答えたものの、どうして、どうして――日の当たらない場所が多いこの坂は昨日の雨の湿り気が残っている。金谷坂を登り始めて暫く経った後、
「ぎゃあああぁぁっ!」
と、千鶴の叫び声が金谷坂の入り口にまで響き聞こえていた――。
「この金谷はお茶どころとしても有名だ。茶摘みの時期にはこの茶畑も美しい緑色だろうな」
「今日の私の着物は緑色なのに……何故だか分かりませんが目の前の茶畑の色になっちゃってます」
風間が遠くにまで続くまだ茶色の茶畑を見つめる。その隣では着物に泥を纏わせた千鶴が膨れっ面をして立っていた――。
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