東海道-金谷宿→日坂宿
「おかしいな……」
「何がおかしいんですか?」
「この石畳に使われている石は滑らない山石を用いているはずなのだが……」
「つまり、私がドジだって言いたいんですか?」
「滑らない山石で滑るのだぞ。ドジだとしか言いようがない」
「酷い! それが近々妻になる女への言葉ですか!?」
風間を叩こうとして手を振るい上げた千鶴は再び叫び声を上げて転んでいた――。
金谷坂を登った先には、かつて武田勝頼が築いた山城、諏訪原城跡があった。この山城は扇状の形をしている為、【扇城】という別名もある。
「このような山の上に城を築きあげるくらいですから、戦国時代の武将は凄かったんですね」
その場所に泥だらけの姿で佇んでいる千鶴が荘厳な雰囲気を感じながら酔い痴れていると、
「ふん、戦国時代は荒れていたからな。今の日の本の治安はまだ良くないが、山城を築かなくなったのは、その時代よりも平和になったと言う証拠だ」
と風間が隣で鼻を鳴らす。
「風間さんはこのような光景を見て、過去を想像して酔い痴れるって事ないんですか?」
「ないな……あるとすれば……」
過去の時代などどうでも良いみたいな感じで言い放った風間は、隣りで自分を見つめる千鶴を見つめ返していた。
俺がお前に酔い痴れているなど、口が裂けても言えん――
風間の緋色の瞳に見つめ返された千鶴は、少し恥ずかしそうに蜜色の瞳を逸らしていた。
暫くの沈黙が流れた後、千鶴に早くこの道のりを超えようと風間が急かしてきた。もう暫く戦国時代の空気を感じたかった千鶴だったが、この先も難所が控えていると言う風間の言葉に従って、素直に踵を返して行った。
金谷坂を上りきると、菊川坂の下りに入って行った。その坂を下ると、間の宿である菊川へと入って行く。
室町時代は金谷宿よりも菊川の宿の方が栄えていたらしい。しかし、金谷宿は東に大井川、西に小夜の中山峠を控えていた為に江戸時代には金屋の方が主要な宿となったという事だった。
菊川では、旅人は休憩の為だけにしか立ち寄る事ができないのだそうだ。どうしても泊まらざるを得ない時は、金谷宿からの了解を得なければいけなかった。そのしきたりに従って、風間と千鶴は暫しの休憩を取る事にした。
「ここの【菜飯田楽】が名物だ」
「【菜飯田楽】?」
「大根や小松菜の葉を混ぜた飯と田楽を出してくれる。かなり腹もちも良くてな。金谷坂や菊川の坂を歩いて来た旅人たちに人気があるのだそうだ」
「へえ……」
「勿論お前の事だ。食うのだろう?」
「当たり前です!」
そして菊川で休憩をした二人は先に進む為に店から出立をした。
この先には【小夜の中山峠】が二人を待ち受けている。
菊川から小夜の中山峠までは上り坂となっている。風間曰く、ここからが少し疲れる歩みとなってくるのだそうだ。この場所は箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道三大難所の一つである。その間にある箭置(やおき)坂に差し掛かった時、二人の目の前には金谷坂で見たものよりも更に広大な茶畑が姿を現した。
「凄いですね……」
山の斜面には正確に列を成した茶木がズラッと植えられていた。
「新茶の時期には西で過ごしているだろう。その時は、お前に美味い茶でも入れてもらうとしよう」
風間がそう言って口端を上げながら笑うと、千鶴も何かを思い出したようにニコニコと笑いながら話し出す。
「そう言えば、私の淹れるお茶は美味しいって言われていたんですよ」
「誰にだ?」
今まで浮かび上がっていた風間の笑みが消える。
「誰って……新選組の皆さんですけど?」
「あやつらの味覚と俺の味覚を同じにするな。俺は何に関しても煩いからな。あやつらのように何でもかんでも美味いとは言わん。俺を唸らせるような美味い茶を入れろ」
ふん! と口をへの字にさせた風間は千鶴の手を握って歩みを進めて行った。
「何で、【俺にも皆が美味いと言った茶を淹れてくれ】みたいに気の利いた言葉が言えないんだろ?」
「何だと……?」
「いいえ、何でもありません」
春の訪れは近いがまだ冬。これから春に向かっていく季節ではあるが、この峠は真冬のように寒々しかった。その中で千鶴の手を握り締める風間の手は大きくて温かかった。
小夜の中山峠にある久延(きゅうえん)寺には珍しい物があるぞと風間に教えられた千鶴は、それを見たいと風間に申し出て少し立ち寄る事にした。
この寺には【夜泣き石】と呼ばれる石があるらしい。その石は徳川家康が手植えしたといわれる五葉松の向こうに置かれていた。
「夜泣き石って何ですか?」
千鶴がその大きい石を見ながら風間に訊ねる。すると、風間がその石の説明を始めた。
「【蛇身鳥物語】という昔話から繋がっていくのだが、その後の伝説を話そうか。人間によって作られた伝説だから信じてはおらんが。昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行った帰りに中山の丸石の待つの根元で腹痛で苦しんでいたそうだ。そこへ男が通りかかったんだが、お石が金を持っている事を知ったその男はお石を殺して金を奪い去り逃げた。その時のお石は身ごもっていたらしい。先程の男に斬られた傷口から子が生まれ、お石の魂が傍にあった丸石に乗り移り、その石が夜毎泣き続けたそうだ。里人はその現象に恐れ、誰と言うとはなく、その石を【夜泣き石】と呼ぶようになったらしい。そしてそのお石の腹から生まれた子は、母親の仇を取ったそうだ」
風間の口から語られる伝説を静かに聞いていた千鶴は、小さく囁くように言葉を紡ぎ出した。
「自分の命がなくなるのに、何もできない赤子を産み落とす……。それはきっと、母親の生きて欲しいと言う切ない願いと愛なのでしょうね。私の母も、あの時の小さな薫を助けようとしたのでしょうか? 自分のお腹を痛めて産んだ薫を……」
風間が千鶴の方にゆっくりと視線を移すと、千鶴はその石から目を逸らさずに見つめ続けていた。握っている千鶴の手は小さく震えを起こしている。それは寒いのではなく、過去の残酷な思い出が蘇った為だろう。自分の視線を石の方に戻した風間は、暫くの間黙ったままだったが、静かに溜め息を吐いた後に千鶴の震える手に少し力を込めて握り返した。
「ああ、きっと助けようとしたのではないか?……いや、助けたのだろう。そうでなければ、あの男は今頃この世にいなかったかもしれんからな」
風間の言葉は千鶴の心の中に優しく染み込んでいく。慰めでも労わりでもない素直な言葉だった。それは千鶴の中で大きな力となって膨らんでいた。
「そうですよね。あの業火の中生きて来れたんですもの。きっと両親が助けたんですよね」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべた千鶴は、先を促す風間の手を握り締めたままその場を立ち去って行った。
小夜の中山峠を越えると、次の日坂宿までは急な下り坂となっていた。上るより、下る方が楽だと思っていた千鶴だが、なかなかどうして――途中から息が上がってきていた。
「下りは上りと違って歩む速度が速くなるから余計に体力を使う。上りの時と同じ速度で歩けばいいのだ」
風間にそう教えられた千鶴が少しだけ速度を下げてみると、気持ち程度だが楽になったような気がした。そして、二人は日が暮れようとする頃に日坂宿へと足を踏み入れる事ができたのであった。
二人は日坂宿の一番西にある旅籠である【川坂屋】に泊まる事になった。そこは、かなり贅沢な材木などを使った建物で、過去には身分の高い武士や公家などが宿泊していた格の高い旅籠であった。
千鶴が風呂で泥だらけの身体を流して部屋に入った時、風間は部屋で旅の疲れを癒すように身体を楽にさせて座っていた。
「やはり、俺にはこういう宿が良く似合う。今までの旅籠は全く息もできんほどに粗末だったからな」
今までの道中で風間や千鶴が宿泊する旅籠は、各地に散らばっている忍びの鬼が手配してくれているらしい。
「風間さん、長期間泊まるわけでもないのに我侭を言ってどうするんですか?」
「ふん! 我侭は言っておらん。今まで文句も言わずに泊まっていたではないか。ただ俺にはここのような旅籠が合うと言ったまでだ」
風間は部屋に置かれていた脇息に凭れながらのんびりと寛ぎ、その姿を見ていた千鶴は苦笑せざるを得なかった。
脇息に凭れ掛かる風間の姿が千鶴の蜜色の瞳の中へ美しい錦絵のように色鮮やかな光景として映し出す。千鶴は暫くの間、風間に見惚れていたらしい。ハッと我に返ると、千鶴のすぐ目の前に風間が近寄っていた。
「あ、あれ? 今、そこに座っていませんでしたっけ?」
「先程からお前の名を呼んでいるのに全く返事もせんからここまで来てやったのだ。しかし何をボーッとしておったのか?」
「い、いえいえ、旅の疲れが出ていたみたいです」
まさか風間に見惚れていたなどと言えない千鶴が、ヘラヘラと誤魔化しながら笑うと、風間の口角が微かに上がったような感じがした。
「まさか……俺に見惚れていたのか?」
ここでぐっと堪えれば良かったのだが、千鶴の口は正直な動きを見せる。
「ええっ! 何で分かったんですか?」
「やはり、そうだったのか」
風間の楽しそうな笑みを見た途端に、千鶴は両手で口を押さえた。
「あっ……」
千鶴が自分の口元に手を当て続けていると、いきなり身体がふわりと宙に浮き、気づいた時には風間の胡坐の上にチョコンと座らされていた。
「そんなに俺を見ていたいのならここでじっくりと見るがいい。思う存分見せてやるぞ」
そして、風間の両手によって顔を固定された千鶴の蜜色の瞳は、夕食が部屋に運ばれてくるまで顔を逸らす事ができないまま、会話もしない風間の緋色の瞳と見つめ合っていた。
その束縛からようやく逃れ、夕食を終えて風呂に入った千鶴は、細かい格子窓からチラチラと小さく輝く常夜燈の灯りをその窓の欄干に腰を下ろしながら見つめていた。
「何を見ている?」
千鶴が振り向くと、すぐ後ろに風間が立っていた。風呂に入った後の風間の黄金の髪の先からは小さな滴が数度零れ落ちた。
「常夜燈を見ていたんです。暗闇の中で小さく燃えているので、美しいなって思って……」
「この日坂宿はしばしば火災にあっているから秋葉信仰が盛んだ。この宿場には神の加護を願って、あのような常夜燈が多く立てられている」
「そうなんですか。確かに火は怖いです。全てを燃え尽くしてしまうから……。それなのに、あの常夜燈の火は美しいって思えるんですから可笑しいですよね」
千鶴がポツリと呟くと、風間は千鶴の隣りに腰を下ろして小さな身体を抱き締めてくれる。それはまるで怖いものから守ってくれるかのようである。
「お前が怖いと思う火は全てを滅ぼす為に放たれた火だ。あれは、生きている者を導くための灯火……美しいと思うのが当たり前だ。だから可笑しくはないぞ」
「この旅だけではなくてこれからの私たちの人生の旅も、あの常夜燈のような灯火が導いてくれるでしょうか?」
「ああ、きっと導いてくれるだろう」
暫くの間、その窓の欄干に腰を下ろしていた二人は、寄り添い合いながらその灯火を瞳の中に映し出していた。
翌日、昨夜泊まった【川坂屋】からプリプリと頬を膨らませて怒る千鶴と、その態度を全く気にもしていない風間が出立をした。
「もうっ! どれだけ付けたら気が済むんですか!」
「昨夜は気持ちが良かったのではないのか? 少し喘ぎ声が漏れ出ていたようだが」
「そ、そんな事ないですっ! 風間さんの聞き間違いです!」
昨夜、千鶴の首から鎖骨にかけて、風間の口付けによる痣が数個付けられていた。
「幾ら【約束事には入らん】って言ってもこれはやりすぎですよ! これを見てください! 見える箇所に痣を付けられたから恥ずかしいじゃないですか!」
千鶴の襟元から覗いている首の辺りには、くっきりとした赤い痣が数個浮かび上がっている。それを見た風間は、ただただ満足気な笑みを浮かべるだけだった――。
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