旅の小休止-sidestory-



 昨夜から始まった千鶴の月経はかなり酷いものだった。夜は痛みの為に寝る事がきなかったようで、空が白み始める頃にやっとうとうとと眠りに入っていった。


 千鶴はその時代の娘にしては出血の量も多く、夜中に何度も厠へと足を運んでいた。その度にコソコソと【お馬】と呼ばれるさらし木綿のふんどし状の月経帯に浅草紙という和紙を当てなければならなかった。


 腕の中でうとうとと眠りに就く千鶴の顔を見ながら、風間は安堵の表情を浮かべた。昨夜からの青ざめた顔色とは違っていつもの薄桃の色が頬に蘇ってきていた為である。しかし、その中には時折苦渋の色の表情が未だ浮かび上がる時があった。痛みと共に流れ出る無用になった血の気持ち悪さに耐えているのだろう。実際にそのような時期の女の姿など見た事のない風間にとっては衝撃的なものであった。


 このような状態では歩くのは無理だろう――風間は見附宿から出立するのを、数日遅らせる事にした。


 早く出立して西へ向かうのが良いに越した事はないが、長い旅の途中でこのようにのんびりする日があっても良いものだ。


「それに、今は下手に動かぬ方がいいな……」


 千鶴と旅をするようになってからは常に戸隠の気配を感じていた風間。それが次第に大きな不安材料となってきていた。


 自分自身は守れるが千鶴を庇いながらそれができるか?
 相手が人間ならばそれも可能――しかし今回の相手は自分と同じ鬼だ。それも同等の力を持つ――


「さて……どうするか……」


 眠っている千鶴の漆黒の髪を撫で上げると、サラサラと絹のような音を立てて風間の指をすり抜けていった。


「千鶴を狙っているのは間違いない」


 戸隠は風間が日の本の鬼たちを纏めようとしていると未だに思い込んでいるのだろうか。いや、それはなくとも、千鶴を手中に納めた時点であの男の心の中では風間が自分を裏切ったと感じているだろう。


 西の風間と東の雪村が祝言を挙げる事によって、風間が鬼の一族を統一させようとしているとあの男に思われても仕方のない事だ。それが風間の的外れであっても、千鶴は東国一の由緒ある雪村家の生き残り。そのような価値のある女鬼を喉から手が出る程に欲しがる男鬼は、この日の本の中で星の数ほどいる。


 静かに嘆息を吐いた風間が襖の方に視線を向ける。この宿を手配してくれた忍びの者が襖の向こうで風間の下す命を待っている。風間は腕が通せるくらいに襖を開け、その忍びに巻物を静かに手渡すと同時に短く言葉を放った。


「これを京の千姫に……二、三日ここに留まる」


 その忍びの者は黙ったまま頷くと、音も立てずに消えて行った。それを確認した風間は隙間を作る事なく襖を閉めた。


「数年前には、このような事で他の仲間に力を借りる事などなかったのだが……」


 心に想う者を守る事がいかに難しいか。そしてその者の為に必死の最善策を考えている自分――。風間は、布団の中で規則正しい寝息を立てている千鶴を見ながら失笑した。




 昼を過ぎた頃に千鶴の双方の瞼が動いた。


「目覚めたか?」


 千鶴はこのまま目覚めないのかと思うぐらい、微動だにせず眠り込んでいた。


 風間は千鶴が目覚めたと安堵すると同時に気だるそうに起き上がる千鶴の身体を支える為に自然と腕を動かす。風間に身体を支えられながら起き上がった千鶴は顔色は悪いままに微笑んだ。


「有難うございます」
「いつもこのように酷いのか?」


 風間の言葉に小さく頷く千鶴。その動作の後にも微かに顔が歪んだ。


「二、三日ここに留まる事にした。ゆっくりするがいい」


 風間の言葉に再び小さな頷きを見せた千鶴は、緩慢な動きで枕に肘を乗せると、全体重をそこに集中させた。その小さな姿は風間から見ても痛々しく感じられる。かといって千鶴に何かできる事はないかと心の中で探してみるが見つかりはしない。しかし、ある事を思いついた風間は千鶴の身体を支えていた腕で千鶴を抱き上げると、胡座をかいたその上に横抱きに寝かせた。そして胡座の窪みに千鶴の腰を固定させる。


「布団の上とこちらとどちらが楽だ?」


 いきなりこのような問い掛けをされた千鶴の目が見開いた。


 固定されている胡座の窪みに優しい温かさを感じた千鶴の目の前には千鶴を気遣う風間の緋色の瞳が真っ直ぐに見つめていた。それに気のせいか、布団の上よりもこの体勢の方が楽に感じるとは。千鶴はふんわりと微笑んで風間の問い掛けに答えた。


「こちらの方が楽です。有難うございます」


 千鶴の素直な感謝の言葉に、風間の顔が自然な微笑みに変わる。


「あっ……」
「どうしたのだ?」
「風間さん……見つけた……」
「俺を見付けただと? 俺は千鶴の目の前にいるではないか」


 何を見つけたのか――千鶴が嬉しそうに微笑んでいる。謎ではあるが、月経の辛さは紛れているようだ。風間の顔は再び自然な笑みを作り上げていた。


「あっ、また……」
「……何がだ?」


 先ほどからの千鶴の言葉は風間にとっては意味不明で全く理解できない。それが風間の神経を苛立てさせる。そのような風間に千鶴が懇願をしてきた。


「風間さん、もう一度笑ってくれませんか?」
「何を言っている?」


 風間の素っ気ない返事に不思議そうに首を傾げていた千鶴は、いきなり風間の顔に両手を当てた。


「風間さんは自分が笑ったのに気づかなかったんですか?」
「訳の分からん事を言う。俺は笑ってはいないぞ」
「笑ってましたよ。いつもの笑みじゃ……きゃあっ!」


 突然格子窓から鋭い光が放たれて轟音が聞こえた瞬間、千鶴は風間の胸の中に顔を埋めて身体を縮こませた。


「冬の雷か……珍しいな」


 格子窓の方を見ながら風間が目を細めていると、風間の腕に千鶴の震えが伝わってきた。


「雷が怖いのか?」


 先程の轟音が遠ざかる中、窓から腕の中の千鶴に視線を移すと、千鶴は両手で耳を押さえて風間の胸に顔を強く押し付けていた。


「このような雷はすぐに止む。怖くなどない」


 風間は千鶴の震えを少しでも和らげようと強く抱き締めるが、小刻みな震えは止まりそうにない。その間にも絶え間なく閃光は格子窓を照らし続け、空からの怒りは雨と共に降り落ちる。


「風間さん……」


 風間の胸に顔を押し付けたままの千鶴が蚊の鳴くような声音で風間の名を呼んできた。


「どうした?」
「か、厠へ行きたいのですが……」


 その言葉に、風間は千鶴を力強く抱き締めている事に気付いてその腕を緩めた。


「行って来るがいい」


 腕の力は緩めた。しかし風間に抱き付いている千鶴はなかなか離れようとはしない。


「厠へ行きたいのだろう? 早く行って来い」
「……ぃて来て下さい」
「何と言った? 聞こえん」
「か、厠の前まで付いて来て下さい」
「何だと?」
「だ、だって、怖いんですもの……」


 一層震えを大きくしながら涙声で哀願してくる千鶴に、またもや風間の表情は自然な笑みを浮かばせる。


「仕方あるまい。ついて行ってやろう」


 風間は千鶴を抱き上げると、そのまま厠の方へ歩んで行った。この宿に宿泊する旅人が通り過ぎる毎に二人の方に振り返ってくる。恥ずかしく感じる千鶴だったが、頭上からは未だに雷の音が鳴り響いている為、黙ったまま風間の胸に顔を押し付けていた。


 厠へ着き千鶴が中に入った後、風間はその扉に身体を凭れ掛けさせながら空を見上げた。濃紺の空に灰色の雲がどんよりと広がっている。しかし、途切れ途切れだがその雲に切れ目が入ってきていた。もうすぐこの嵐は過ぎ去って行くだろう。


 気配を感じる――
 戸隠の黒い気配――
 気分悪しき――


 風間は表情を強張らせながら嘆息を漏らした。


 この気配の主とはいずれ衝突をするだろう。しかし、風間の心の中に【鬼の統一】など微塵もないのだ。各々の鬼たちが幸せならそれでいいのではないか? それなのに過去の恨みを今頃晴らそうとされても迷惑だ。


 千鶴を手込めにされんように気を付けねばな――


「しかし、先程の千鶴はなかなかどうして可愛らしかったな。いつもあのようであって欲しいものだ」


 自然な笑みが零れる。その笑みに風間自身が今気付いた。


「今、俺は笑ったのか……?」


 ここには鏡などない為、どのような笑みをしていたかは分からない。しかし風間は笑っていたと確信した。


 風間は物心ついた頃から自分で作り出してきた【こうあるべき己の姿】を千鶴に少しずつ壊乱されていっているようだ。


 風間は再び自然な笑みを浮かべながら吐息を漏らした。


「まあ……それも悪くはないだろう」
「風間さん、風間さん! 扉に凭れ掛かっているんでしょ? 用は終わりましたからこの扉から身体を退けて下さいっ!」


 風間が厠の扉に凭れ掛かって自分の世界に入り込んでいる間、千鶴は厠の中で出してくれと必死に叫び続けていた。



 いつの間にか灰色に覆われていた雲はどこか遠くへ逃げ去り、その後の夜空には数千もの星が瞬いていた――。


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