変若水の誘惑【戸隠】-sidestory-
雪村家が人間によって襲撃された――
生存者無し――
その情報がいち早く入り、雪村家の次に滅ぼされるはずだった戸隠家の一族は危うく難を逃れた。
一族が助かったのは嬉しかったのだが、あのコロコロとした愛らしい娘、千鶴が消息不明だと、雪村の里に偵察に行った仲間の情報に魁人の心は押しつぶされそうになっていた。
雪村の里が人間たちに襲撃される前に、戸隠家にも人間がやって来ていた。
「新しい時代を築くには鬼と人間が協力し合うべし。その為に西の風間が鬼の統一を望んでいる為に我らに助力をしてくれるらしい。ご協力願う」
明らかに虚言だと判るような話の内容に、
馬鹿げた事を言う――やはり人間共は浅墓(あさはか)な生き物だ――
と、魁人は人間の何の魅力も持たない誘惑の言葉に対して心の中でせせら笑った。
今、人間が放った話の内容は千景の父親が望んでいた事で、当の本人はこの世を去っている。それに千景の人間嫌いは鬼の間でも有名である上に鬼の統一など望んではいない。千景と親友である魁人は、千景がそのような事を望んでもいない事など承知の上だ。千景の父親が過去に放っていた【鬼の統一】という言葉を、人間たちはこの時こそとばかりに利用しようとしている、自分の目の前の野心という腹黒さを持った人間に、魁人は心底腹が立っていた。
「西の頭領は、関ヶ原の戦以来庇護を受けてきた薩摩への義理返しをするだけの為に、今回は助力をするだけで日の本の鬼の統一など考えてはいない。我らは人間たちから庇護は受けていないし、過去に受けたとしても人間との関わりは既に断ち切っている。従って東国の鬼、戸隠家の一族はその依頼をお断りする」
魁人の父親も数年前にこの世を去り、今や魁人が戸隠家の主となっている。だから決断権はこの魁人にあった。真の親友の思いや考えは既に分かっている。千景は今回の義理返しを終えればすぐにこの戦から手を引くだろう。
人間に断りの言葉を向けた魁人は、背筋がぞくぞくするような寒さを覚えた。
「そうですか……仕方がありませんね」
普通ならば落胆した姿があったのだろうが、魁人の目の前の人間の顔は笑っていた。
そう――普通ならば残念そうな表情をするはずなのに、どうしてだ?
何を企んでいる――?
魁人が人間の様子を窺っていると、意味ありげな笑みを浮かべたままで衝撃的な言葉を伝えてきた。
「先日、雪村家にもお願いに足を運んだのですが、あなたと同じ事を仰られて断られてしまいました。ですから今宵、雪村の里を襲撃する事になったのです。今頃はもう、雪村の里は火の海と化しているでしょうな」
雪村家の里を襲撃する。その言葉に魁人の片眉が大きく吊り上った。
「何だと……?」
「鬼は人間と違って単独でも強い力を放ちますからね。このまま放っておくと我々人間が危ないんですよ。この戸隠家も今宵の雪村家のようになりたいですか? 倒幕が成功した後のあなた達、鬼と人間は関係を持たないつもりです。それまで助力をして頂けるのならば、この里を襲撃するつもりはありません」
こいつらはこの俺に脅迫するつもりか――?
雪村家を襲撃しているところだと伝えてきた人間は、次に勝ち誇ったような笑みを浮かべる。戸隠は怒りを外に放つのを抑えながらゆったりと立ち上がると、目の前の人間たちを見下ろしながら指笛を鳴らした。
夜も更けた暗闇の中で周りの雨戸が次々と閉められていき、部屋の中をぼんやりと照らしていた行燈の灯も一気に吹き消される。暗闇の中に更に暗闇が作られて、すぐ隣にいる仲間の顔形も見えない中で人間たちは慌てふためいた。
「戸隠! 何をするつもりだ!?」
暗闇の中で人間たちが大声で叫ぶ。その間に、暗闇に慣れている魁人は床の間にある自分の刀を手に取った。
人間の目は暗闇に慣れるまでに時間が掛かるが、鬼である魁人は暗闇の中でも普通に人間たちの居場所が分かった。刀を鞘から抜き出し、その鞘から手を離すと、暗闇の中で鞘が音を立てて床の上に落ちる。それを聞いた人間たちの足が逃げ惑う音を立て始めた。
「何をするだと…? 察しの悪い人間どもだ。」
魁人はそう言い放つと、部屋の中の人間を次々と斬り殺していく。そして魁人が全ての人間を斬り殺した後に、忍びの鬼の仲間が姿を現して雪村家滅亡の情報を伝えにきた。その情報を聞いた魁人が手に持っていた血に塗れた刀を床に落とす。それは先ほど落とした鞘にぶつかって鈍い音を放った。
千鶴も死んだのか――?
しかし、魁人には悲しむ余裕がなかった。自分の一族を一刻も早く逃げ、隠れさせなければならない。魁人は今すぐにでも雪村の里へ駆けて行きたい思いを必死に隠す。そして心の中で泣き悲しみながらも、一族の先頭に立って戸隠家の主としての義務を果たしていた。
戸隠家の一族が予め用意をしていた隠れ住みかにようやく落ち着くと、魁人は頻繁に雪村の地に足を運んだ。
どこかで千鶴は生きているのではないか――? そんな望みを持ちながら近辺を探し回ったが、結果はいつも同じだった。そのような事をしているうちに、魁人は以前に人間の襲われて死んだ妹と千鶴の姿を重ねた夢を見るようになっていった。
毎夜、その夢が魁人を苦しめる。人間によって殺された二人の女が魁人に助けを求めるのだ。
千景の父親が、人間の前であのような事を言うからこうなったのだ――
魁人は次第に雪村家の滅びの原因を作った男の息子であり、自分の親友でもある千景を憎むようになっていき、徐々に二人の仲は疎遠になっていった――。
人間どもの戦に塗れた世情の中、戸隠家一族が隠れ住む土地には穏やかな時間が流れていた。そんな中、一人の剃髪の男がこの村にやって来た。
その男は雪村網道と名乗っていた。網道に会った魁人は、彼の周りを包み込んでいる冷えた空気に身震いを起こした。
感情のない両の瞳の奥からは何を考えているのか読み取れないその網道がどういう企みでここを訪れたのか。そして千鶴と同じ姓である事に、何故だか心がざわめいていた。すると網道は、目の前に置かれた茶を一飲みした後に静かに語り始めた。
「私は、あの雪村家の分家の出で生き残りの一人です。この度は雪村の地に少し用があったもので、その途中に立ち寄らせて頂きました」
その言葉に魁人の心が更にざわめきを起こす。
「生き残りの一人という事は、お前の他にも雪村家の生き残りがいるという事か?」
「はい……。魁人様がよく可愛がって下さっていた千鶴さまと、南雲家に引き取られた薫さまが生きておいでです」
「千鶴が……?」
千鶴が生きていた。その名前を聞いた魁人の瞳に潤いが生じてこようとした時、網道の口から信じられない言葉が追加された。
「ただ、現在の千鶴さまは、西の頭領の風間さまが己の妻にと言い寄られているようです。どうも風間さまが千鶴さまを気に入られたようですなぁ」
「な……んだと?」
千景の名前が出た途端、魁人の頭の中は真っ白に染まっていった。魁人の目の前の網道の表情は何かを企んでいるような笑みを浮かべていたが、それさえも気付く事ができないほどに魁人は動揺をしていた。
西国一の力を持つ風間家に東国一の雪村家が滅びた現在、戸隠家が東国の鬼たちの上に立って歩んでいるが、やはりまだ雪村家に比べると影薄い存在である。過去には風間家と同等の立場にあった戸隠家。しかし今、風間の名は日の本中の鬼たちに知れ渡り、また恐れられてもいる。それに比べて戸隠家は【鬼女伝説】の為に人間たちに恐れられて庇護を受ける事なく、この辺鄙な地に隠れ住んだのだ。
人間の庇護を受けて裕福に暮らす風間家と、人間の庇護を受けずに慎ましい暮らしをしてきた戸隠家。この両家の暮らしぶりは全く違い過ぎた。その上に愛する女まで奪われようとしている。
魁人の心の中に千景への嫉妬の焔が燃え上がった。千景より上、そして幸せを掴む為には千鶴の血が必要だ。
「魁人さま……風間さまよりお強くなって、彼を倒したいですか?」
網道が魁人の心中を見透かしたように、ニンマリとした笑みを浮かばせながら尋ねてくる。そして暫くの間、魁人を見つめていた網道は袂から小さな小瓶を取り出すと、魁人の前に静かに置いた。その透明の小瓶の中には、血のような色をした液体が入っていた。陽の光に当たったその色は美しく見えると同時に不気味さも強調してきた。
「これは魁人さまの今の力を更に強くさせる為の薬……【変若水】と言います。実験に実験を積み重ねて、やっと最高の変若水を作り上げる事ができました。今のあなたには風間さまを倒すのは無理だという事はご自分でもお分かりですね? 戸隠家がこの東国一になる為には、あの千鶴さまの血が必要不可欠だという事も……。ここまで申せばあなたも理解していただけると思います」
黙って小瓶を見つめたままの魁人に網道が言葉を続けて放つ。
「もうすぐ人間のこの醜い争いは終焉を迎えます。旧幕府軍は新政府軍によって滅ぼされるのです。何せ、こちら側には最新式の武器、西の鬼たちの助力…… そして、この私が創り出した羅刹がいるのですから……」
今、風間さまは一旦、薩摩へとお戻りになっておいでです――
網道は親切丁寧に風間の居場所まで魁人に教えると、魁人の目の前にその小瓶を置いたままでその場から消え去っていった。ただ、千鶴の居場所は全く教えずに――
「まあ、いいさ…… いずれ見つける……」
千景が千鶴を気に入ったという言葉を聞いただけで、大体の予想はつく。
千鶴は京にいるはずだ。
最初は千景が薩摩に戻っている間に千鶴を見つけ出し、連れ去ろうと考えていた魁人。しかし、それだけでは魁人の怒りは収まりそうにもない。
千鶴は千景の目の前で浚う――
何年経とうが何十年経とうが、絶対に――
千景を倒してこの俺が鬼の頂点に立つ。そして、愛する千鶴をこの手に抱くのだ――。
網道が姿を消した部屋に一人残された魁人の片手は、目の前の小瓶に惹かれるように伸ばされていた――。
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