東海道-見附宿→浜松宿
数日間、見附宿に留まっていた風間の手元に、千姫からの書簡が忍びの者によって届けられた。その内容を読んだ風間は大きな溜め息を吐きながらぶつくさと文句を垂れた。
「何故に選りによって不知火と南雲薫なのだ。天霧を寄越せばいいものを……俺への嫌がらせか?」
不知火と薫が気に入らなく、自分がいない間、西の里の留守を頼んでいる天霧が行動する事ができないのを知った上でこのような無茶な考えをする勝手極まりない男、風間。恐らく今頃、西の里では天霧が大きなくしゃみをしているだろう。
書簡を睨み付けながらブツブツと文句を放っているが風間だが、初めて出会った時から押し殺すような低い声音で話す為にその内容までは聞き取れない。そのような風間を見ていて、かなりご機嫌を損ねていると察した千鶴は見て見ぬ振りをして大人しく出立の用意をしていた。
触らぬ風間に祟りなし――
このように機嫌の悪い風間の時は放っておいた方が無難である。今は自分のするべき事に集中しようと千鶴は考えて、風間と距離を置いていたがそうはいかなかった。
「千鶴、これからの旅では絶対に俺から離れるなよ。分かったか? 本当に分かっているのか? 理解しているのか? 返事をしろ」
普段から傲慢な態度ではあるが、静かな声音で伝えてくる為に、さほど気にはならなかったのだが、今回は低い声音はそのまま。しかし、一言一言が癪に障る。
「いつも離れずにいているのに、何でそんな事を今頃になってわざわざ言うんですか?」
ここは素直に【はい分かりました】と言わなければならないところを、ついつい口を滑らせて棘のある返事をしてしまう。風間の方をチラリと見てみると思った通り、かなり怒りのこもった表情をしていた。そして、自分の袂から約束事の紙を取り出すと千鶴の目の前にズイッと突き出してきた。
「この旅路では俺の言う事を素直に聞けと何度も言っているはずだ。その鈍い頭にしっかりと叩き込んでおけ。そろそろ行くぞ!」
「何を苛立っているんですか?」
「苛立ってなどおらん!」
「じゃあ、そんな言い方をしないで下さいよ!」
「お前が先に歯向かうような言い方をしたからではないか!」
「私が先ではありません! 風間さんが先じゃないですか! 自分から先にした事を人のせいにするなんて最低っ!」」
「な、何だとぉ!」
風間は奥歯をギリッと噛み締め、千鶴はプウッと頬を膨らませて睨み合う。そして、二人は同時に大きな鼻を鳴らしてそっぽを向いていた。 結局、離れてはいけない理由も言わず、意味不明な苛々感を全身から放っている男と、風間の苛立ちが自分のせいだと文句を言われて貶された為に頬を膨らませている女は見附宿の宿から浜松宿に向かって出立した。
途中で何度か石造りの小さな祠を見つけた千鶴が、
「風間さん、あれは……」
何ですか? と聞きたいところだが、問い掛けの声音を放つだけで鋭い睨みを頂いてしまった千鶴も最後には怒りが爆発して黙り込む。すると、風間が携帯用に持っていた筆と墨で懐紙に文字を書き始めた。そして千鶴にその懐紙を荒々しく差し出してくる。千鶴は何も言わずにその懐紙を受け取ったのだが、勿論、風間の達筆な文字を読む事ができない。
また仲直りをしたら、この懐紙に書いてある事を聞こう――
千鶴は読む事を諦めると、その懐紙を自分の袂にそっとしまいこんだのだが、風間は所々で懐紙に何かを書いては千鶴に渡す。そしてそれを読めない千鶴が自分の袂にしまい込むを繰り返し、とうとう袂はパンパンに膨れ上がっていた――。
二人が無言で歩いて行くと、池田村という地を流れる広大な天竜川の光景が目の前に映った。
天竜川――【暴れ川】【暴れ天竜】と名高いこの川は度重なる洪水で周囲の者たちを苦しめてきた。そして旅人にとってもここは難所の一つであり、旅人は船渡しによってこの川を越えている。やはり、ここまでの旅路で渡ってきた川とはまた違い、川波も荒く流れも早い為、千鶴の足は恐怖の為に竦んでしまいそうになったが、ここを渡らなければ西へ進む事はできない。二人は船渡し場へと歩んで行った。
バシャンバシャンと川の水が風間と千鶴の乗っている船の外側を打ち付けてくる。その飛沫が時折、千鶴が纏っている着物を湿らせてきた。千鶴は片手で船の縁を掴み、もう片方の手は風間から手渡された懐紙が濡れないようにと袂を守る。しかし川の中腹まで船が進んだ時、川の水が大きくうねって千鶴の身体がグラリと傾いた。するといきなり腕が千鶴の腰に回される。驚いた千鶴が後ろを振り向くと、不機嫌な顔はそのままだが千鶴が川に落ちないように支えてくれている風間の姿があった。
今日の天竜川の流れは荒々しく、その川の流れによって大きく揺れ動かされている船の上では旅人だけではなく、船頭までもが舵を取るのに必死になっていた。しかし、風間のさり気ない優しさによって、先ほどまで感じていた恐怖が自然となくなりを見せ、荒々しい波音さえも千鶴の耳には心地好く聞こえ始めていた――。
この天竜川の渡船の始まりは古いと言われている。
天正元年に、当時浜松城主であった徳川家康が池田の船頭に渡船権を渡した事からこの池田村は江戸の時代を通じて、天竜川のこの渡船で繁栄をしたのだそうだ。そしてこの場所から川を渡る事を【池田の渡し】と呼ばれていた。
この天竜川は大天竜と小天竜の二筋に分かれており、渡船賃も二度要求される。これは旅人にとっては大きな負担となる。千鶴は池田村がこの渡船で繁栄した理由がそれでよく理解できた。
風間と千鶴が二度目の渡船をしようとしていたところ、一人の社寺関係の男が金も渡さずに堂々と船の上に座った。その男の行動に先頭たちも何も言わずに知らない振り。金も払わずに渡船をするとはと千鶴は、風間と喧嘩している事も忘れて尋ねようとした瞬間、風間の大きな掌によってその口は塞がれた。
「ふっ……ううぅ! うううっ!」
「分かっておる。あの男が何故に無賃で船に乗っているのかと言いたいのだろう? それについては後で説明をしてやるから、今は黙って船に乗れ」
風間はそう言うと千鶴の口から自分の掌を離した。勿論、千鶴は風間の言う通り、黙って船に乗る。しかし、最後の渡船場に到着するまで、その男をずっと睨み続けていた――。
船から降りた千鶴が風間に鬱憤の言葉を吐きだした。
「あの男は一体何なんですか? 他の旅人たちは皆、渡船賃を払って船に乗っているんですよ。それなのにあの男は何で払わなくていいんですか!?」
すると風間は約束通りにその理由を説明をしてくれた。
「あれは社寺関係の男だから渡船賃を払わなくていいのだ」
「だから、何で!?」
「何故に払わなくていいのか詳しい事は知らん。しかし江戸時代には、武士、社寺、遠江国の者たちは皆、渡船賃を払わなくていいのだそうだ。今はどうなのかは分からんが、まだ新しい時代は始まったばかり。双方とも江戸の名残が残っている為に当然だと考えているのだろう」
「遠見江国の人たちが払わなくていいのは分かります。でも武士と社寺の人が払わなくていいのはおかしいです!」
千鶴が周りに聞こえるような声音で武士や社寺の者たちの文句を言い始める。それを聞いていた旅人たちが何事かと、風間と千鶴の方に振り向いてきた。
「もう、行くぞ……」
人間たちに絡まれるのはごめんだと、風間は千鶴を引き摺るようにして渡船場から離れて行った――。
「ところで風間さん……」
「何だ? あの内容の話はもうするな」
確かにあの話をして以前武士であった男たちに絡まれても面倒だと考えた千鶴は首を横に振りながら、袂から先ほど風間が何かを書いていた懐紙を取り出した。
「これは何が書いてあるのですか?」
「この俺の文字が読めんというのか?」
「はい、読めません……達筆すぎて……」
この後の会話は、この懐紙に書かれている内容によって弾み、喧嘩をしていたのも忘れてしまった風間と千鶴は、浜松宿まで楽しく歩いて行ったのであった――。
浜松宿に入ると、野面積【のづらつみ】の石垣の上に聳(そび)え立つ浜松城が風間と千鶴の視界に飛び込んできた。この城は歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから【出世城】とも呼ばれている。かつて、あの徳川家康も十七年間在城していた。その城を風間が睨み付ける。その瞳は憎みの感情ではなく、勝利を得たようなものだった。そこで千鶴は改めて思い知る。
かつての風間と雪村の関係も敵同士だったのだと――。
西と東の戦い、【関ヶ原の戦】。その後の西の鬼たちは、各地で匿われたものの、長い年月は辛酸を舐め続けたであろう。それが数年前に【義理返し】という形で再び人間に協力し、それもようやく終わりを告げた。そして今、西の鬼たちは【義理】という柵から解き放たれ、鬼だけの世界の中だけで時に身を任せようとしている。
見附宿の時のような自然な笑みが風間の横顔から垣間見れる――。
笑った。
あの時の笑みだ――。
自由を手にしたような――
これからの幸せな時間を楽しみにしているかのような――
そんな風間の美しい笑みに千鶴の両の目は奪われていた。
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