東海道-舞坂宿→新居宿
朝になると強い風も止んでいた。
昨日の夜までは不安な気持ちでいっぱいの千鶴であったが、今朝の食事を見た瞬間にそれは完全に消え去っていた。
この舞坂宿の名物はしらす、そして海苔である。朝食の膳の上には潮の香りが漂う料理ばかりであった。
「文政二年頃に、森田屋彦之丞という男と江戸大森の海苔職人である大森三郎が舞坂宿に泊まった際、偶然に海苔の付着した石を見つけた事から海苔の養殖が始まったのだそうだ」
説明を終えた風間が千鶴の方に視線を向けた後に小さな溜め息を吐く。そしてボソッと呟きながら目の前にある箸を手に取った。
「花より団子……色気より食い気……」
千鶴は風間の説明も聞かずに、自分の目の前にある膳の上を既に空にして、満足そうに腹を擦っていたのであった――。
過去の大地震で、浜名湖が海と直結【今切】して以来、舞坂宿から新居宿までは浜名湖今切り渡しの渡船場から船に乗らなければならない。舞坂宿には三つの船着場があり、風間と千鶴は一番北側の鴈木【階段状になった船着場である】北鴈木から船に乗る事にした。千鶴の目の前には大きな船があった。
「こ、これに乗るんですか?」
千鶴の問い掛けに風間が深く頷く。
「ああ、新居までは海上一里【一時間】程だ。船酔いをするなよ」
「酔わないという自信がないし、保証もできません」
千鶴が今まで乗ってきたのはほんの少しの距離の渡し船。このような大きな船に乗るのは蝦夷に渡った時以来である。
あの時は蝦夷にいるであろう新選組の事ばかりが頭の中にあって酔うという事はなかったのだが、今回は切羽詰まった状況でもない為に何となく酔いそうな感じがする。しかし、この船に乗らなければ次の新居宿まで行く事ができない。風間と少し不安げな表情の千鶴は、その大きな船の前で新居宿に向かう旅人たちが列を作って並んでいる場所へ吸い込まれるようにして歩んで行った。
「き、気持ち悪い……」
船の上で千鶴が真っ青な顔をして口元に手拭いを当てている。風間は呆れ果てたような表情をしながらも千鶴の背中を優しくさすってくれていた。
「だから言ったであろう。船酔いをするなよ、と……」
「これは! うっ……仕方がないでしょう……ウップ……」
「あともう少しで弁天島に到着する。我慢できるか?」
風間の心配する言葉に首を縦に振る千鶴の顔はどんどん青さを増してきていた。気持ち悪さが胸の所まで這い上がってくるたびに持参していた茶を入れてある筒をギュッと握り締める。その時、船が止まる感覚が千鶴の身体に生じ、千鶴は口元を手拭で覆ったまま走り出していた。
「おい! 待て千鶴!」
風間も後を追いかけようとしたが、混雑している人ごみの中、千鶴の小さな身体はそこを簡単にすり抜けて行き消えてしまった――。
「ううぅぅっ! 気持ち悪かった……」
船を降りてすぐの木の下で千鶴はしゃがんで嘔吐をしていた。手許にある手拭は吐き出した汚物がこびり付いている。その手拭を綺麗に丸めた後からは船酔いの気持ち悪さも取れて、胸がスッとしていた。
「あっ……風間さんと逸れちゃった。離れるなって言われてたのに……」
後でまた怒られるのだろう――そう思いながら海の方に視線を向けると、美しい朱を纏った鳥居が聳え立っている。
「綺麗……」
その鳥居に暫くの間見惚れた後に船の方を見てみると、船から降りてくる旅人たちが長々と列を作っていた。恐らく風間はまだあの中にまだいるのだろう。千鶴はしゃがんでいた場所から立ち上がると風間が降りてくるのを待っていると、
「千鶴……」
急に千鶴の背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、振り向くと見慣れない男が一人立っている。
背丈は風間くらいで灰褐色の髪は短く切られている。髪と同じ色の瞳は何か物悲しい感じがした。身に付けている浅紫色の着物はその男の品の良さを感じさせる。しかし何故に自分の名前を知っているのか? 千鶴がその男に疑問符を投げ出そうとした時、脇腹に鈍い痛みが走った。
殴られた――?
そう思うと同時に千鶴の意識が遠退いていく。前に倒れ伏していく千鶴の身体をその男が受け止めた。船の方――少し距離のある場所から千鶴の名を叫ぶ聞き慣れた声が微かに聞こえた。
「風……間さ…ん……」
千鶴の瞳が閉じゆく中、目の前で優しく微笑む男が風間ではないと知った。
「あなた……誰? 私を……どうする……つもり……な……の……?」
千鶴は意識が薄れゆく中でその男に必死に問い掛けたが、それに男は一切答えてはこなかった。
その素性の分からない男の腕の中で千鶴の身体からは力が抜けて、目の前は完全な闇が訪れていた――。
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