幼い頃の記憶-sidestory-



 風間が船の上で降りる列に並んでいると、千鶴がこちらの方向を見つめながら立っているのが分かった。自分の姿を必死に探している千鶴の姿は滑稽で可愛らしく、思わず笑みが浮かんでしまう。


「気分が良くなったようだな……」


 風間が安心したのもつかの間、千鶴の背後には浅紫色の着物を纏った男が近寄って来ている。風間が目を細める。遠目でも分かる、戸隠だ。すぐにでも千鶴の許へ駆け付けたい。しかし、多くの人間のいる中で飛ぶわけにもいかず、焦る気持ちを抑えながらも視線は船着き場の二人から決して外さなかった。


 風間がようやく船から降りた瞬間、戸隠は風間の方を振り向いて口角を高く上げると、いきなり千鶴の脇腹に拳を入れていた。


「千鶴!」


 倒れた千鶴を抱き抱えた戸隠は再び風間の方に笑みを投げると、その場から一瞬にして姿を消し去った。


「おのれ……魁人……舐めた真似を!」


 既に不知火と薫がこの新居宿に到着している。二人と落ち合って一刻も早く戸隠から千鶴を助けなければならない。風間が二人と落ち合う場所へと飛ぶように走って行く。全身を切り裂くような冷たい冬の空気が遠慮無しに風間を襲ってくるが、風間の怒りを放っている姿を捉えた瞬間、その空気は恐怖を感じたのだろう。怒りの形相でかけ続けている風間の身体はしっかりと避けて通り過ぎていった。






 薪の火の弾ける音がする。身体には何か温かいものが掛けられているようだ。風間と蝦夷へ向かった時に一夜を過ごした山小屋を思い出しながら薄っすらと瞳を開ける千鶴の脇腹に激痛が走った。


「っつ……!」


 内臓は破裂していないようだが、かなり強く拳を突き入れられたらしい。千鶴は身体を丸め込みながらその激痛に耐えていると、


「……目が覚めたのか?」


 千鶴の目の前に先程の知らない男が顔を覗き込んできた。心の中の溢れそうになる恐怖を押さえ込みながら見知らぬその男に疑問符を投げつけた。


「あなたは誰なんですか? 何故私の名を知っているんです? それにここはどこ? 私を風間さんのところに連れて行って下さい」


 最初、千鶴の言葉に驚きを隠さなかった男だが、ああ、そうか――と小さく声を漏らしてた後、千鶴に先程の物悲しそうな表情を浮かべつつも微かな笑みを見せた。


「この名を出しても思い出さないかもしれないな。いや、できれば思い出して欲しい……俺の名は戸隠魁人だ。風間やお前と同じ鬼だ」
「戸隠……魁人……。私たちと同胞……鬼……」
「そうだ……昔はあの風間と仲が良かった。あいつと俺はお前の幼い頃を知っている。それを風間からは聞いていないのか?」
「え……?」


 暫くの間、千鶴の心の中の記憶を隠すように複雑に絡まっていた糸の一本がするっと解けた。


「よく雪村の地へと足を運んだ……千鶴、お前に会いにな。覚えていないか?」


 もう一本、複雑に絡まっていた記憶の糸がスルリと解けた。


「あんなに小さかったお前がこんなに成長しているとは思いもしなかった……」


 美しくなったな――と、耳元で囁く戸隠の言葉に千鶴の中の絡まった糸はどんどん綻びだしていた。


「あなたは魁人兄さま……だったんですか?」


 千鶴の瞳から頬に掛けて細くて長い湿り気を帯びた道が作られ、戸隠の指がそれを拭う。


「会いたいといつも思っていた。俺は今日まで一度もお前の事を忘れた事はなかった……」


 千鶴の脳裏から消し去られていた過去の記憶が次々と蘇りを始め、走馬灯のようにくるりくるりと回り始めた。しかし、何故だろうか。千鶴のその記憶の中に戸隠の姿は薄れており、風間の若かりし頃の姿がはっきりと浮かび上がっていた。


 あの時、幼い頃の千鶴の視点がどこにあったのかを証明する記憶――それは、黄金の髪色と緋色の瞳を両目の中に宿した青年だけに向けられていた。


 幼いながらに風間の存在が気になっていたのか――?


 【子供の宴会】の報せがくる度に、母親に行きたいとせがんでいた光景までもが脳裏に映し出された。その時の母親は笑いながらいつもこう言っていた。


 千鶴ったら、魁人はここへ頻繁に来てくれるのに、それでも物足りないの――?


 違う――千鶴はあの緋色の瞳の青年に会いたかったのだ。【子供の宴会】には仏頂面を浮かべながらも必ず姿を現して、戸隠の隣で必ず立っているあの青年に――


 そして偶然の再会をした風間と千鶴。その時の風間が千鶴の事を覚えていたのかは分からないが、千鶴は全く覚えてはいなかった。そして今になってようやく気付く。


 千鶴は風間に恋をしていた。そしてその淡くて可愛らしい恋は再会してから色鮮やかに変化を繰り返して、今では濃密なものとなった。


「千鶴、風間のところではなく俺のところに来い。俺はお前を愛している……」



 暫くはその記憶に耽っていた千鶴だったが、気付いた時には戸隠の腕に包み込まれて、痛い程に強く抱き締められた後に、突然の愛の告白を受けていた――。


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