東海道-新居宿→白須賀宿:一
不知火と南雲薫が待つ旅籠、紀伊國屋へと辿り着いた風間は、宿主の案内で一つの部屋に入った。
「おせえじゃねえかよ」
その部屋で既に酒を飲み始めていた不知火が風間に顔を向ける。不知火の隣りには南雲薫が少し距離を置いて座っていた。
「あれ、俺の可愛い千鶴はどこにいるんだい?」
薫が風間に向かって静かに尋ねる。面倒臭そうな表情をしながらも、京で顔を合わせて以来音沙汰のなかった妹に会えるのを少しは期待していたのだろうか? しかし薫の口から千鶴の名が出た途端、風間の表情は鋭い殺気を見せ付けた。
「戸隠に浚われた……」
鋭い視線とは裏腹に落ち着きのある低い声音で物騒な言葉を放つ風間に、不知火が手に持っていた盃を膳の上に置く。そして風間を責め立てるかのような言葉を発した。
「何だって!? 風間……お前が傍にいておいて、簡単に千鶴を奪われたって言うのか!?」
普段通りの千鶴であれば、風間だって自分の傍からは決して離しはしない。しかし、あの時は離れてしまっても仕方のない状況であった。
「千鶴は船酔いをした為に、俺よりも先に船を降りたのだ」
「船酔い!? あんな短い時間でか!?」
信じらんねえと不知火がボソッと呟き、鈍臭い奴だと薫が嘲りの篭もった低い声を発する。千鶴を貶す二人の言葉に何故か苛ついた風間だったが、今回は千鶴から目を離してしまった自分にも非があると大きな溜め息を吐いた。
「蝦夷に向かう船ではあのような事はなかったのだが……それに、あの魁人の好む香りを覚えていたのに、それが何の香りかは気付かなかったな」
千鶴は鬼の中でも鬼らしくない女だ。それは長年人間として育ってきたからなのだろうか? 全てに関して鈍くて単純。その上に勝手な事をしでかして自分自身をわざわざ危険な場所へと放り込む大馬鹿者で周りの仲間たちを振り回すのが得意な女だ。しかし、身体はかなり丈夫である。蝦夷に向かう船の中でも酔うという事などはなかった。あの時は緊張感から船酔いをしなかったのか。風間は薫の方に顔を向けた。
「おい薫、千鶴は幼い頃から船酔いをする性質だったのか?」
風間の言葉に薫は肩を竦めながら首を左右に振った。
「さあね、それは俺も知らない。だって、俺と千鶴が生き別れたのは幼子だった頃だし、それまでに雪村の里を出たのは子供の宴会の時くらいだからね。船には乗ったんだろうけど、そこまで記憶には残ってないな。ああ、でも千鶴は鈍感だし、ちょっと抜けてるところもあるからね」
風間も先が思いやられるな――薫はそう言い放っていた。それを聞いていた不知火が呆れ果てたような表情を浮かべて薫を見つめた。
「千鶴はてめぇの妹なんだろ? よくそれだけひでぇ事を言えるよな」
「俺は千鶴を愛しいと思っているよ。不知火が言う酷い言葉は俺にとっての愛情表現なんだよ」
「てめぇの性格はどこまで歪んでんだよ?」
どこまでも捻くれた兄を演じ続けるのだろうか? 薫は風間と不知火から少し距離の離れた場所にゆっくりと移動した。
「ってか、それよりもどうすんだよ? 千鶴がどこにいるのか目星はついてんのか?」
少し離れた場所にある窓の欄干に座った薫に向けていた視線を風間に戻した不知火が問い掛ける。しかし、このような問い掛けは馬鹿げた事だったと、不知火はすぐに気付いた。
この風間が抜かるような行動をする訳がないのだ。それはまさに正論であり、不知火の目の前の風間は自信有り気に顎をしゃくった。
「それは心配ない。魁人の行く先々を忍びの者が後を付けているはずだ。場所が分かればここへ知らせに来る」
「じゃあ、待つしかねえんだな」
不知火が盃の中に残った酒を全て飲み干す。それを見ていた風間と薫が同時に不知火の行動を諌めた。
「おい、このような時によくも酒が飲めるな?」
「不知火、あんたには緊張感ってもんがないの?」
「う、うるせぇ!」
自分だって千鶴が無事かどうかはとても気になる。しかし、あの魁人の事だから殺しはしないだろうという確信があったのだ。
何故なら、魁人は千鶴の事を心から愛していたから――
「酒は部屋の隅にでも移動させろ。それを飲むのは千鶴を無事に救出してからだ」
風間は腰に差していた自分の刀を横に置いて座ると、胸の前で両手を組んで両瞼を下す。
三人の中にも焦りはあるのだろう。しかし、無駄に動いて忍びの者たちと連絡がつかなくなってもそれはそれで厄介。だから待つしかないのだ――。
風間と不知火、そして薫は同じ部屋の中で散らばって座る。そして無言のまま知らせを待っていた。
抱きすくめられた千鶴は、戸隠から放たれる懐かしい香を思い出していた。風間に懐かしいような香りがすると話していたが、今ようやくそれが戸隠の着物に染み込んでいる香の匂いだと気付いていた。
小さい頃、雪村の地によく顔を出してくれていた戸隠はいつも千鶴を抱っこしてくれていたものだ。雪村の一族の中での薫の扱いはあまり良くはなく、それでも次期雪村の頭領になる為の厳しい教育を受け続けていた薫の心はどんどん閉ざされていき、千鶴と共にいる時間も少なかった。二人は次第に周りの大人から離されるようになり、一緒にいられるのはごく僅かだったのだ。
寂しかった――
千鶴の心は悲しみにも暮れていた。何故に薫と共にいてはいけないのか? そればかりを考えていた千鶴の前に戸隠が現れ、千鶴を慰めてくれたのだ。歳の離れた優しい兄的な存在だった。
「魁人兄さまが元気そうで安心しました」
千鶴の優しい言葉に魁人の頬が少しだけ緩みを見せた。
「お前の無事を聞いた時は夢を見ているような気持ちだった。幼い頃にはよくこのようにしてお前を抱いていたような記憶が未だ鮮明に残っている。事実今抱き締めているこの手を離せば消えてなくなるのではないだろうかと不安になってしまう。だから、これからはずっと俺のこの胸の中にいてくれ」
戸隠の、ずっと胸の中にいろという言葉を聞いた千鶴は、喜びの再会から一転して急に不安になった。今頃はきっと風間が自分の事を心配して捜しているだろう。早く愛する風間の許に戻らなければならない。それに風間と戸隠は仲の良い友人だったはずなのに、何故に自分を連れ去るような事をしたのだろう? このような事をせずにあの船着き場で再会を喜べば良いものを何故それをしなかったのか? 千鶴の脳裏には疑問符ばかりが流れ込んできていた。
千鶴は、強く抱き締める戸隠の腕から無理矢理に身体を捩らせて距離を作ろうとしながら唇を揺らした。
「魁人兄さま、私は風間さんの所に戻らないといけないんです。きっと私が急にいなくなった事を心配をしていると思いますから……。あ、そうだ。魁人兄さまも私と一緒に風間さんの所に行きましょう。そして……」
千鶴の口から風間の名が出た瞬間、戸隠の表情が憎悪を含んだ険しいものになった。その表情を見た千鶴は目の前の戸隠に恐怖を覚えて、更に身を捩らせた。しかし、戸隠はその動きを邪魔するかのように、更に強く抱き締めてきた。
「か、魁人兄さま……苦しい……」
千鶴が自分の身体に絡まっている戸隠の両腕の中で足掻く。そのような中、戸隠が耳元で低い声音を放った。それも、脅しているのかと思われるくらいの不気味な低さで――。
「風間の名は出すな……」
「でも、私は風間さんの所に戻らないと……」
二人は友人だったはずだ。それなのに風間の名を出しただけで機嫌が悪くなっている戸隠の心中が理解できない。すると、戸隠が再び千鶴の耳元に囁いてきた。それはいきなりの問い掛けであった。
「千鶴、お前があいつと祝言を挙げるというのは事実か?」
「えっ? あ、はい……そうですけど、それがどうしたんですか?」
「お前は風間を愛しているのか?」
戸隠の問い掛けに千鶴が即答をした。
「はい、勿論です。そうでなきゃ、風間さんの住む西の里についていこうなんて思いません」
千鶴の肯定の返事に戸隠の灰褐色の瞳が鈍く光る。その瞳にはあの頃のような優しさはない上に、千鶴を見つめる視線は嫉妬する男が持つ目だと分かった。千鶴がこのような感情の瞳がそうである事を理解できるようになったのは、江戸での少しの同棲、そして今の道中での風間の中にもそれが見られた為と、自分も同じような感情を抱いていた時があったからだ。しかし、風間の出す嫉妬の感情を怖いとは思った事はない。寧(むし)ろ反対に嬉しさもあったのだ。千鶴は風間が露わにするその感情を与えられながら愛されていると感じられた。しかし、戸隠のその感情は風間のものとはまた違った。
怖い、怖い、怖いと千鶴の中で警鐘が鳴り響く。
この男には近寄っていけない、騙されてはいけない――
何があっても風間の事だけを考えろと千鶴の心の中の警鐘音がそう伝えてきた。
千鶴が戸隠の束縛から逃れて距離を置く。今になって風間の忠告の言葉の意味が分かった。
俺から絶対に離れるな――
ああ、どうして離れてしまったのだろう? 風間から離れなければこのような事にはならなかった。千鶴は戸隠を睨み付けたまま後ずさった。
戸隠がゆったりとした動作で千鶴に向かって歩みを始める。戸隠が一歩前に進む毎に千鶴も一歩ずつ後退りを進めた。
「千鶴、どうして俺から逃げようとする? 俺はお前をずっと抱き締めていたいのに……お前を目の届くすぐ傍に置いておきたい程に愛しているのに何故に逃げる」
あの幼かった頃に戸隠のその言葉を聞いていればとても嬉しかったに違いない。それなのに、今ではその気持ちは全くなく、恐ろしいとだけしか感じられなかった。
千鶴の額に汗の粒が浮かび始める。
ここから、魁人兄さまから逃れるにはどうすればいい――?
恐怖の中で千鶴は自分に問い掛ける。しかしその間にも戸隠と千鶴の距離は短いものになっていた。
身体が動かない――
千鶴はその時になって、自分の背中が建物の壁に当たってしまっている事に気付く。そして既にすぐ目の前に立っている戸隠に見つめられると、逃げたいと思っている身体までもがその瞳に雁字搦(がんじがら)めになってしまっていた。
戸隠の両手が再び千鶴を抱き締めようと両肩に乗る。その手が触れた途端、千鶴の身体には一つの激しい震えが起こった。それに気付いた戸隠が片口端を吊り上げて笑った。
「お前の事をこんなにも愛している俺が怖いのか?」
戸隠の言葉に千鶴は言葉が出ないにしても、頭だけは左右に振り続けた。
私は魁人兄さまを好きだけど、愛という深い感情ではない。私が愛しているのは――
千鶴の心の叫びが戸隠に通じたのだろうか? いや、通じてはいない。戸隠は千鶴の心の中に深い闇を作り出そうとしていた。
それは愛する者を疑う心――
「千鶴……雪村家の滅びの原因は……お前が今、愛しているという風間だ」
戸隠の顔には不気味な笑みが零れ出ている。そして互いの身体の間にあった少しの隙間は完全に埋め尽くされていた。
「嘘……風間さんはそのような事をしないわ」
戸隠は、呆然としながらも風間を信じようとする千鶴の唇を見つめながら、腰と顎へ手を添えていた。
「お前のこの唇を、あの風間は何度も味わったのか?」
戸隠の唇が千鶴の唇に軽く触れる。
「か、魁人兄さま……止めて……」
「俺がお前の事を愛していると知っていて、己のものにしようとは……」
戸隠の口元が怒りの歪みを浮かばせる。
「あいつにだけは絶対にお前を渡さない……お前は俺と共に戸隠の里に行くのだ」
「い、嫌、私は行かない!」
自分が行く所は決まっている。
風間とこれから共に暮らす西の里だ――。千鶴は束縛を強める戸隠から逃れようと必死に足掻くが、それをすればするほど、戸隠の抱く力は強さを増していった。
「ようやく手中に納めたお前を、この俺が手放す訳がないだろう?」
戸隠はその言葉を吐き出した後、既に隙間を埋めつつあった千鶴の唇に自分のそれを強く重ねてくる。
息が苦しい――
助けて――
戸隠に口付けを施されている途中に千鶴の脳裏に風間の姿が鮮明に映し出される。
風間さん、助けて――
助けて、風間さん!
千鶴は戸隠の胸の中で足掻き続けながら心の中で何度も風間の名を呼び続ける。そして天井に向かって片手を大きく伸ばしていた――。
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