東海道-白須賀宿にて



 風間の目の前で昏々と眠り続ける千鶴が横たわっている。戸隠に腹を刺されて意識をなくしてから既に五日が経とうとしていた。


 お前は頭領としては甘いな。後で後悔するなよ――


 戸隠の最後に放たれた二つの言葉が風間の耳に焼き付いて離れてはくれない。


 鬼は心臓と首を狙わなければ死ぬ事はないが、身体に深い傷を負えば、暫くの間は動く事ができないのだ。だからあの時、風間は魁人に深い傷を負わせたはずだった。


 身体を痙攣させながら仰向けに倒れていた戸隠が、千鶴が風間に駆け寄ろうとして自分のすぐ横を通り過ぎた姿を目にした瞬間、深傷を負っているのにも関わらずに立ち上がり、千鶴の背後から腹部を刺していた。


 どこにあのような力が残っていたのか――
 並の鬼では絶対に立ち上がる事は無理だ。


 風間は戸隠を甘く見ていた。やはり戸隠は由緒ある戸隠家の鬼ではあるが、風間は彼が自分よりも劣ると心の片隅ではそう考えて見下していたのだろう。


 風間は、自分の愚かな感情と行動の結末に唇を強く噛み締めた。


 千鶴が刺されたと同時に、不知火は戸隠の頭部へ銃弾を発砲し、風間と薫が前と後ろから心臓と首へ同時に刃を突き刺した。その時、風間の顔と戸隠の顔は互いにすぐ近くにあった。


 不気味に笑む戸隠――
 その笑みは風間の脳裏から離れない。


 今でも戸隠の首を突き刺した自分の刃から柄にかけて流れてきた血の生温い感触を覚えている。何度も手を洗って美しくなった掌を見ると、戸隠の血が未だにこびり付いているような幻覚に陥った。


 戸隠は、この世を去ったのだ。それなのに、風間の中の戸隠は最後の笑みを浮かべたままで消えないまま――。


 風間は戸隠を始末した後、千鶴の腹部の深傷に忍びの者から受け取った徳利に入った酒を染み込ませると、腰布を少しずらして止血を行った。本当ならば、この酒は傷付けた戸隠に使用するはずだった。それを千鶴に使わなければならなくなるとは考えてもみなかった。風間は残りの酒を不知火に渡す。


「魁人の供養にしておいてくれ……」


 そして意識のない千鶴を抱き上げると、見張りから戻って来た忍びの者の白須賀宿にある隠れ家へと案内されて行った。


 魁人への情が千鶴をこのような目に合わせてしまったのか――


 隠れ家に到着した時、そこには既に医者をしている鬼の仲間が待機してくれていた。そして傷口の処置をしてくれたのだが、千鶴の傷はかなり深く、それが完全に塞がるまでには時間が掛かるという事であった。命に別状はなかったのだが、意識が戻りそうな気配が全くしない。医者は数日後には目覚めるだろうと風間に伝えてきたが、その数日の一日一日が長く感じられる。


 親友であった魁人が死に、己の愛する千鶴がこのまま目覚めなければ俺はどうする?


 そうなれば、風間は戸隠が今まで味わってきた苦しみの年月を送るのだろうか? そして、戸隠のように狂ってしまうのか? そのような考えばかりが風間の中で何度も繰り返された。


 風間は布団に横たわる千鶴を抱き上げると、自分の片耳を左胸に静かに乗せた。


 少し弱いが波打つ鼓動が風間の耳朶に感じられる。そして抱いている身体は温かい。


 千鶴は確かに生きていて、後は目覚めるのを待つだけなのに、どうしてこんなにも不安になるのだろう――?


 風間はその鼓動を聞きながら、目頭の熱さの意味を誤魔化すように両瞼を強く閉じた。




「風間、千鶴まだ目が覚めねえのか?」


 戸隠が死んだ事を知らせる為に戸隠の地へ赴き、その用が済んだ後すぐに千鶴の様子を見に戻って来た不知火が声を掛けて部屋に入って来た。風間は不知火の方に振り向くと静かに首を横に振った。


「そっか……」


 不知火の後ろには薫が付いてきていた。千鶴が未だに目覚めていない事を知った薫の顔は少し青ざめているようにも見えた。


 二人が千鶴の枕元に座り、暫く眠り続けている千鶴を見つめる三人の間には沈黙が流れた。それを風間が静かに打ち破った。


「あいつを……魁人を供養してくれたか?」


 ポツリと呟いた風間の言葉に、不知火も静かな声音で、


「ああ、したぜ」


 と首を縦に振った。


「風間、てめぇにしちゃ詰めが甘かったみてえだな。戸隠が狂ってたのは分かってたんだろ?」


 風間も不知火も、そして薫も戸隠が狂っていると分かっていた。そして戸隠家の一族たちもそれを知っていた。不知火と薫が戸隠の亡骸を里に持って行った時、仲間たちは嘆き悲しみながらも、戸隠がようやく自由になれたのだとの呟きが漏れていたのだとう言う。


「分かってはいたが殺せなかった。暫くの間は動けないようにしてあいつの里へ送ろうと思っていたのだが、まさかあの深傷であのように俊敏な動きをするとは考えもしなかった」


 風間の言葉に、不知火は呆れ果てながら失笑をする。


「まっ、昔っからお前にはそういうところがあったからな。何て言うか……」


 途中で言葉を切った不知火は、今まで見た事もない風間の落胆した表情を見つめた。


「頭領として冷酷でどのような時でも冷静な判断ができる性格をしてんのに変なとこで甘過ぎんだよ……」


 と、小さな声で零していた。


「まだあの戸隠は息をしていたのに、傍を通るなんてほんっとに鈍臭い奴……っていうか、警戒心が全くないよね」


 不知火の横で眠り続けている千鶴に、愛情の一欠片も見せ付けずに言葉を吐く薫がいた。しかし、この時には風間も不知火も分かっていた。これが薫の千鶴に対する愛情表現なのだ。素直な言葉を出せない薫は、いつも気持ちとは反対の言葉を放っている。


「千鶴の鈍臭いのは昔っからなんだろ?」


 薫の表情にも心配の色が垣間見えた不知火が問い掛ける。すると、幼い頃を思い出したのだろうか? 薫は少しだけ頬を弛めると、次は正直なのだろう気持ちを表した言葉を放った。


「まあね……早く目を覚まさないかな?」


 急に素直な言葉を出した薫に驚いた風間と不知火が同時に視線を千鶴から薫に移すと、自分の放った言葉が自然と漏れたものだったのか、少しだけ間の悪い笑みを浮かべた薫は、誤魔化すようにして千鶴の頬を軽く抓り出した。


「だってさ、風間と夫婦になるって聞いた時、これから先ずっと千鶴を苛められると思ってたのに、目を覚まさなかったらそれができないじゃないか」


 もしも今、千鶴に意識があったとするならば、いくら鈍感な千鶴でも理解するだろう。


 薫が千鶴に対して見せつけていた憎愛が溺愛に変わった事を――。






 千鶴、何でこんな所にいるんだ?


 千鶴が振り返ると、新選組の皆が顔を揃えて自分の方を見ている。


 えっ、何でだろう? 確か私は――
 そうだった。私は刺されたんだ――
 消息不明の皆が私の目の前にいるという事は、私は死んだの?


 千鶴が真選組の男たちを見つめながら考えていると、その心を見透かしたのか、


 お前はまだ死んでねえだろ。早く戻れ! これは副長命令だ――


 と、土方が眉間に皺を寄せて千鶴に叱咤してきた。


 は、はいっ!


 千鶴が大声で返事をすると、その土方が突然戸隠の姿に変化していった。灰褐色の物悲しそうな瞳が千鶴の顔を静かに見つめている。幼い頃の記憶のままの端麗な姿は透き通って見えた。


 魁人兄さま――


 千鶴が静かに名前を呼ぶと、その物悲しそうな瞳が一瞬だけ笑みの色を浮かべるが、すぐに元の瞳に戻ってしまう。


 戸隠は千鶴の傍まで歩み寄ると、頬をそっと撫で上げてきた。


 千鶴、悪かった――


 戸隠の短い謝罪の言葉に、千鶴の頬に温かい涙が道を作り上げる。この温もりは自分が生きている証拠だ。そう思った時、千鶴の背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。そして、戸隠の背後からも――。


 戸隠が後ろを振り向くと、早くにこの世を去った自分の妹が笑顔で手招きをしている。千鶴が後ろを振り向くと、姿は見えないがあの声は愛する風間の声だと確信を持った。その時、千鶴は肩をポンと叩かれた。振り向くと先程まで物悲しい表情をしていた戸隠が満面の笑みで千鶴を見つめていた。生きていた時の全ての苦しみや悲しみから開放された――そのような笑みだった。


 さよなら――


 と、千鶴が涙で濡れた頬をそのままに笑みを浮かべて別れの言葉を紡ぐと、


 さよなら――


 戸隠もまた柔らかな笑みを浮かべて別れの言葉を返してくれた。


 戸隠と千鶴が互いの背中を向けて自分たちを必要としてくれている姿と声の方だけを見つめて歩き出して行く。


 千鶴が最後に見た戸隠は、幼い頃のあの優しい男の姿であった――。






 千鶴がなかなか目覚めない。その間の風間は殆ど寝るという事がなかった。うつらうつらとはするのだがすぐに目が覚めてしまう。そして、目の前で眠っている千鶴を見ると、大きな溜め息を吐くのだった。


 不知火は、千鶴が目を覚ますまでここに滞在すると風間に伝え、勿論薫も同じ意向だった。しかし、何故か薫は千姫にこちらの状況を教えて欲しいのと、薫にはまだ仕事が残っているという文が届き、急遽、千姫の待つ京へ戻る事となった。


「俺は、千鶴の実兄なのに、何で不知火がここにいて俺が京に行かないといけないんだよ」


 千鶴が腹を刺されてから既に十日が過ぎていた。一向に目覚めない千鶴の事が心配だったのだろうが、千姫の命令には逆らえない為、薫は渋々と京へと向かって行った。


 薫が出立してからどれくらいの日数が過ぎたかも分からなくなっていた朝、眠っている千鶴の瞼がヒクヒクと軽い痙攣を起こしているのに気が付いた風間は、小さいがはっきりとした声で千鶴の名前を呼んだ。


 名前を呼ぶ毎に千鶴の瞼の痙攣は大きくなる。風間は千鶴を抱き上げると続け様に名前を呼び続けた。


「千鶴、千鶴……」


 早く目を開けてくれと願いながら名前を呼び続けていた風間の目の前の千鶴の両瞼がゆっくりと押し上げられた。


「風……間さ……ん?」
「千鶴……」


 千鶴がゆっくりと伸ばしてくる手を受け止めた風間は、その手を強く握り締めた。


「私は……」
「魁人に刺され意識を失っていたのだ。二十日以上も眠っていたのだぞ」


 千鶴の頬を優しく撫でながら説明をする風間に、


「そうでしたね……私、魁人兄さまに刺されて……」


 と、消え入りそうな声で返事をする千鶴は、風間に弱々しいながらも安堵させるような笑顔を見せた。


「私、二十日以上も寝ていたんですか? そう言われれば長い夢を見ていたような気がします。土方さんに、お前はまだ死んでないから戻れって怒られて。それに、魁人兄さまともお別れをしてきました……」
「そうか……」
「風間さん、ずっと私の傍にいてくれてたんですか?」
「ああ……」


 千鶴が風間に握りしめられていた手から自分のそれを解くと、目の前にある風間の頬に手を添えた。


「無精髭……生えてますね」


 いつもなら身形を乱す事がない風間の様変わりした姿に千鶴は嬉しそうな笑みを浮かべた。


 目頭に熱いものが込み上げてきて、唇の微かな震えを感じた風間は千鶴を強く抱き締めた。


「風間さん、どうしたんですか?」
「いや……どうもしない……全く、道中は俺の言う事を聞けと約束したであろう」
「すみません……でもあの時は……」
「心配ばかり掛けさせる……」
「ごめんなさい……」


 二人の間で、叱咤と謝罪が繰り返されるが、その間の風間は千鶴に自分の顔を見せようとはしない。


 今まで誰にも涙を見せた事のなかった風間は千鶴にも見られたくなかった。


 弱い男だと思われたくはない。自分は西の鬼の上を統べる頭領なのだ。だから、千鶴を抱き締める事で涙で濡れている顔を隠していた――。






「風間さん、お腹が空きました。何か食べたいです」


 目覚めてから一夜が明けた今朝からずっと、風間の胡坐の上で横抱きにされていた千鶴のお腹の虫がグーグーと鳴き続けている。


「お前は食い物の事しか頭にないのか? 今、この隠れ家の主が朝飯を作ってくれているから少しは我慢しろ」


 風間が投げ掛けてきた我慢という言葉に千鶴が泣きそうな顔を見せた。


「今度はお腹が空きすぎて死にそうです」
「阿呆……冗談でもその言葉は使うな」
「では、餓死します」
「同じ意味だ」


 意識が戻らなかったこの二十日の間に千鶴の腹の深傷も塞がっており、目覚めてからずっと腹が減ったとこの調子である。しかし、千鶴に食欲というものが戻ってきたという事は元気になってきている証拠。風間の表情にはいつになく柔らかいものがあった。


「おっ! やっと目覚めたな!」


 隠れ家の主から千鶴が目覚めたという知らせを聞いて部屋に姿を現した不知火が、満面の笑みを千鶴に投げ掛けてきた。そして風間の前にドカッと座ると、手にしていた包みを畳みの上に雑に置いた。


「白須賀宿の名物、柏餅だとさ。千鶴、腹が減ってんだってな。食うか?」


 不知火の言葉に千鶴が目を輝かせながらその包みを手を伸ばすが、それはすぐさま風間によって目の前から遠ざけられた。


「それは不知火さんが私にって持って来てくれたお餅なんですよ? 返して下さい」


 風間の腕の中で千鶴が頬を膨らませて文句を言うと、


「不知火もお前も本当に馬鹿な奴らだ。二十日以上も何も飲み食いしていないのに、いきなりこのような物を食べてどうする」


 風間のその言葉に不知火が柏餅の入った包みを風間から受け取って、千鶴の目の前でそれを広げた。


「そう言やぁそうだな。残念だったな、千鶴。代わりに俺と風間で食べておいてやるよ」
「そ、そんなぁ……」
「お前はまだ霞みを食っていればいい」
「か、霞だなんて……お腹がいっぱいにならないじゃありませんか!」
「道中のお前は食い過ぎでかなり太っていたからな。今くらいが丁度いいではないか」
「ひ、酷い! 太ってなんかいませんよ。ふっくらとしていたんです!」


 このような言い合いをしている時、襖が開きこの隠れ家の主が今の千鶴のお腹に合う食事を持って来てくれた。


「目が覚められて良かったですね。元気になるまでゆっくりしていて下さいよ」
「ああ、私のご飯……!」


 やっと食事にあり付けると千鶴が喜びを表に出しながら、持って来てくれた料理を見ると――。


「お……お粥と梅干……だけですか?」


 目の前の粥は殆どが白い湯のようで米は数粒しか入っていない。梅干もたった一個だった。


 千鶴の落胆した姿を見ながら、仕方がないんですよ――と、隠れ家の主は申し訳なさそうに答えた。


「二十日以上の間は何もお腹の中に食べ物が入っていなかったのですから、鬼と雖(いえど)も臓腑は弱っています。徐々に慣らしていきましょうね」


 慌てて食べてはいけませんよと、主はそう言って部屋を出て行った。悲しそうな顔をしながらも、千鶴は出された食事をゆっくりと口に運んでいく。その様子を可笑しそうに見ていた不知火と風間は名物である柏餅を口に運んでいた。


「うっめえなぁ! この餅は最高だぜ」
「甘味も控えめで、確かに美味いな」


 柏餅の感想を言い合う二人を恨めしそうに見つめていた千鶴がとうとう痺れを切らしてしまった。


「もうっ! 私が食べられないのを知ってて意地悪しないで下さいよ! お願いですから私が見えない所で食べて下さい!」


 ブーッと頬を膨らませながら食事を終えた千鶴を、いきなり風間が抱き寄せて口付けをしてきた。


「な、何するんですか!?」
「どうだ、美味いだろう?」


 互いの唇が離れた後、風間がニンマリと笑みを作る。千鶴の口の中にふんわりと柏餅の甘い香りが広がった。


「お……美味しいですけど香りじゃなくて本物が食べたいです……」
「今は香りで満足しろ」


 いきなり口付けをされて顔を真っ赤な夕日のように染め上げた千鶴に何度も口付けをしている風間を見ていた不知火は、諦めのような大きな溜め息を吐き出して部屋を出る。


「ああぁあ……目の前でイチャイチャすんなよな。俺も嫁さんが欲しくなるじゃねえかよ」


 と、風間と千鶴のいる部屋の襖を隙間なく閉めた後にそこに背中を凭れ掛けさせながら静かな愚痴を零していた――。




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