東海道-白須賀宿→二川宿



 白須賀宿は元々は海岸近くにあったのだが、宝永四年に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けた為に、その後は潮見坂の上の高台に移転した。この宿場は旅籠が二十七軒あり、宿場の中では中規模の大きさであった。この台地に登る坂の所で、西から下ってきた時に、初めて富士山と遠州灘の大洋を見る事ができる為、旅人たちがたいそう喜んだ場所なのだそうだ。


 翌日、二人は潮見坂の外れにあり、世話になった忍びの鬼の家を後にして、二川宿を目指して歩き出した。


「薫は一体何の用事で京に戻ったんですか?」


 千鶴が風間に問い掛ける。いつもなら執拗に問わないのだが、今朝、忍びの鬼の家を出立する前に、風間がそこの主と何やらヒソヒソ話をしていたのだ。しかし、千鶴のその問い掛けに対しても風間の返答は素っ気ないもので、


「何でもない……」


 で終わらされていた。


 今朝、主の元に情報が届き、薫が南雲家の生き残りであった千紗という女を始末したのだそうだ。その女の名に聞き覚えがあった風間は、その事を千鶴に伝えると、奥深くまで問い掛けられそうな気がした為に口を噤んでいた。


 別にあの女とは何ら関係もない。だから千鶴に問われても自然に受け答えをすればいいだけの事――


 そうは思うのだが、最近の千鶴は、いや、この旅を始めてからの千鶴はかなり嫉妬深い女になっていた。それはそれで風間にとっては嬉しい事である。なぜならば、それだけ自分の事しか見ていないという事だから。しかし、説明をするのが面倒臭い上に、これからの旅は仲良くやっていきたいという思いもあった為に、この話はしない事に決めたのである。


「もう、何でも秘密にされて、腹が立つ……」


 風間の隣でぶつぶつと文句を放つ千鶴を、風間は垣間見ながら返事をした。


「何も話す事がないからないと言っているだけだ」
「いいえ、絶対に何か隠してます! 大体ですよ、薫は私の兄なんです。不知火さんから聞けば、私を心配していた薫は京に戻るのを嫌がったって……。それなのに京に戻ったって事は、何かあったとしか思えません。それに、不知火さんだって、私が目を覚ましたのを確認した後すぐに京に行っちゃったじゃありませんか。その理由が薫の助太刀だそうです」


 千鶴の話を聞いていた風間が小さな舌打ちを起こす。あの不知火の口の軽さはどうにかならないものだろうかと考えたのだ。


 あの男の口を、いつか俺の愛刀で斬り裂いてやる――


 風間は物騒な決意を胸の中に留めながら歩みを進めていた。




 二川宿の手前に般若坂という急な坂がある。そこはかなりの急な坂道でそこを上る旅人たちの顔が般若のような形相になった事から名付けられたという。確かに千鶴もこの坂は苦しく、顔がどんどん変化していくのを自ずと感じた。チラリと横を見ると、このような坂さえも苦にならないのか、無表情なままの風間は速度を落とさずに歩いている。本当ならば辛い事を伝えて速度を落としてもらえば良いのだが、弱音を吐きたくない千鶴が口を真一文字にして前だけを見て必死に歩いていると、急に風間の速度が落ち始めた。再び横を見ると風間がこちらを見ながら口角を上げている。


 私が辛いのを分かってくれたんだ。


 千鶴が感謝の意を込めてニコッと笑うと、急にしかめっ面になる風間。


「辛いなら辛いと言え。全く、素直でない女だ」
「はっ……?」


 感謝の笑みが引っ込んでしまい、般若よりも怖い形相になった千鶴は、


「風間さん、私は辛くないので速度落とさなくていいですから!」


 と強がりを言って先程よりも速度を上げてしまい、二川宿に到着した頃にはげっそりとした千鶴の姿が風間の目の前にあった。白須賀宿の仲間の家で世話になっている間に体力がかなり落ちているようだった。


 少し休憩をした二人が先を歩いて行くと、二川八幡神社が見えてきた。この神社で毎年八月十日に行われていた例祭の湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で境内は混雑を極めたそうだ。


「今は江戸の時代ではなくなり、幕府もなくなった現在、この例祭が行われているのかどうかは知らんがな」


 風間は、神社の前に立っている二対の燈篭を見つめながら話していた。この燈篭は二川宿の寄進に寄るものだそうで、この神社は二川の氏神となっている。


「時代が変わってしまうと、人々の大事にしているものまでもが変わっていくんですね。何か悲しいような気がします」
「昔から人間は時代というものに翻弄されてきた。今に始まった事ではない。しかし、変化のない時代も面白くはない。常に小さな変化があってこそ、人々はその都度己の中にある信念を変えて対応してきたのだ」
「時代の流れに対応するために簡単に信念を変えられるものでしょうか?」
「そのようなものだ。変わらぬものと言えば、このような社や燈篭等の形変わらぬものかもしれんな。人間とは……心移ろいやすく弱き者だ」


 では、遥か昔から信じ、伝えられてきた神たちは変わったか? いや、変わってはいない。それに信念を変えずに戦い抜いた男たちもいる事を千鶴は知っている。だから、人間を馬鹿にする言葉を放つ風間に反論の言葉を返した。


「でも、この社や燈篭のようにそうでない人たちもいました。それだけは風間さんにも分かって欲しいです」
「ふん、また新選組の事か? お前があいつ等の事の話をすると言い合いになるからな。この話はここまでだ」


 風間はそう言うと踵を返し、先を歩いて行く。千鶴は、そんな風間の後ろ姿を見つめて心の中で呼び掛けた。


 風間さん、あなたも本当は分かってくれているんでしょう? あの人たちの事を――


 先を歩き始めていた風間が背後を振り向いて声を掛けてくる。


「何をぼんやりと突っ立っているのだ? 置いて行くぞ」
「あ、はい、今行きます!」


 先を歩く風間の横に早く追い付こうと、千鶴は急いで走って行った。


 腹を刺されてから動く事もしなかった。と言うよりも、風間に動かせてはもらえなかった千鶴は、やはり以前の体力を落としていた為、二人は二川宿の旅籠である【清明屋】に泊まる事になった。


 この旅籠は江戸時代にあった二川宿本陣の隣にあり、中もかなり立派な旅籠であった。


 朝目覚めた千鶴が化粧鏡の前に向かった時、少しだけ顔を赤らめる。最近になってようやく慣れてきた昨夜の風間の行為が脳裏に映し出された。


「最初は恥ずかしいと思ったけれど……」


 暗闇の中で響き渡っていた風間の口付けの音が、千鶴の内耳から消えない。



 千鶴の首筋には、昨夜の風間によって飾り付けられた花弁が数枚舞い散っており、そこは今だにふんわりとした熱を帯びていた――。


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