東海道-御油宿→赤坂宿
早朝、旅籠を後にして赤坂宿を目指して歩いて行く。昨夜は首元だけではなく、鎖骨辺りにまで風間の散らした花弁が舞い降りていた。その箇所が毎夜の行為を忘れさせないかのように火照り続けていた。
この御油宿から赤坂宿に途中の松並木の所で、あの弥次さんと喜多さんが狐に騙されたという話がある。
吉田からの道がなかなかはかどらないうちに日が傾いてきた。焦った二人は相談をして、喜多さんが先に歩いて行って赤坂の宿を探す事になったという。弥次さんが一人で後を追い掛けている内に御油の茶屋で、この先の松原に狐が出るという噂を聞いた。先に行ったはずの喜多さんが待っていたので、これは狐に違いないと思い込んでしまった。その喜多さんを打城手に縛って赤坂宿に入ったところ、喜多さんが犬に驚かない為に、そこで喜多さん本人だと悟ったのだそうだ。
その狐に怯えたあたりの御油の松並木はたいそう立派なものである。そこを抜けると赤坂宿はすぐ近くであった。
赤坂宿には赤坂見附がある。そこは宿場の入り口にあるのだが、石垣などを積んで出入りする者を見張った場所である。そして少し歩くと関川神社があり、その境内に茂る楠はかなりの年代物だと言われている。
赤坂宿は本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠が六十二軒、総家数三百四十九軒、甚句一千三百四軒の小規模な宿場である。
赤坂見附から少し歩いた所に長福寺があり、その境内には美しい山桜があるのだという。風間はそこに千鶴を連れて行くと、春まっさかりのその場所ではその山桜の満開の姿を見せていた。
「綺麗ですね……」
その山桜に見惚れている千鶴の隣で風間が独り言のように呟く。
「薩摩の桜を見せてやれないからな……」
約束した事を守れない事は、格式高い鬼の風間にとってはかなり屈辱的な事であったらしい。隣りに立っているのだから風間の呟きは聞こえていた千鶴だったが、桜に見惚れる振りをして、聞いていなかった事にしていた。
長福寺を出て少し歩き、右手に曲がると杉森八幡宮の鳥居が見える。そこの楠は先ほどの関川神社の楠よりも年代物であると、風間が千鶴に説明をしていた。
赤坂宿の最盛期には旅籠屋茶屋が八十軒も軒を並べていたらしい。その宿場で一番有名な旅籠が【大橋屋】である。その旅籠は芭蕉も宿泊をして句を詠んだところでも有名であった。
この赤坂宿も飯盛女を多く抱えている宿場である。
御油に赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い――
千鶴の頭の中からどうしても離れてはくれないこの言葉。これは参勤交代の武士たちがここに宿泊する事が楽しみだった事を謡ったものらしいのだが、男という生き物はこういう事しか頭にないのかと何度も思ってしまう。
風間だって男である。そのような女たちがそこらじゅうにいれば視線もそこに向く。だから千鶴はこの宿場をすぐにでも出てしまいたかったのに、風間の一言に耳を疑ってしまいそうになった。
「本日の旅はここまでだ」
「え……?」
「今宵はここで泊まる」
「ええっ!?」
いくら先を歩こうと言っても風間は首を縦に振ってはくれない。風間は嫌がる千鶴を引き摺るようにして一軒の旅籠の中へ入って行った。
【大橋屋】
浄泉寺の参道のすぐ傍にあるその旅籠は操業が慶安二年と言われているほど古いものである。そして浄泉寺の蘇鉄は安藤広重の東海道五十三次の赤坂宿の絵の中に描かれているほどに有名なものなのだそうだ。今日、二人が泊まる【大橋屋】の中も年代物と思わせるような雰囲気が漂っている。
「このような宿は気が安らぐ」
と風間はご機嫌であったが、部屋に通されてからの千鶴の機嫌は悪いままであった。
「まだ歩けるのに……これじゃ、西の里に到着するのが遅れちゃう」
とブスッとした表情を浮かばせながらブツブツと文句を放っていると、風間がいきなり背後から抱き締めてきた。
「か、風間さん、何をするんですか?」
「ふっ、嫉妬に狂うお前の顔はなかなかのものだ。これを見たいが為に一宿ずつで足止めしているのだ」
「えっ……?」
暫く二人は見つめ合う。すると千鶴の顔が徐々に赤みを帯び始めた。自分が嫉妬しているのが風間に丸分かりだったのがとても恥ずかしく思う。しかし目の前の風間の顔はとても嬉しそうに笑んでいた。
この赤坂宿でも鰻が名物。夕食の膳の上には脂の乗った鰻飯があった。それを見た千鶴の嫉妬の感情はすぐにどこかへ吹っ飛んでしまった。
「全く、色気より食い気とはこういう事なのだな」
千鶴が大きな口を開けて鰻の蒲焼を丸ごとその中に入れているのを見つめていた風間が大きな溜め息を吐く。千鶴の口の周りは鰻のタレがたくさんこびりついていたが、それを気にもせずに幸せそうな笑みを浮かべて口をもごもごと動かしていた。そして、全て食べ終わった後には風間の膳の上の全く箸がつけられていない鰻飯に視線を流している。
「風間さん、食べないんですか?」
風間は酒を飲みながら千鶴の問い掛けを黙って聞く。しかし返事はしなかった。黙ったままの風間にもう一度尋ねる千鶴。
「ねえ、食べないんですか?」
すると、風間がようやく口を開いた。
「食べんと言えばお前はどうする?」
「勿論、私が食べるんですよ。だって、せっかく作って下さった料理を食べなかったら失礼だし、勿体ないじゃないですか」
風間を見つめる千鶴は、この旅籠に対しての礼節のような言葉を並べ立てるが、要は自分の腹がまだ満腹ではない、食べ足りないと言っているようなものだ。しかし、風間だって千鶴と同じく腹が減るし、今はその状態。これだけは全て与える訳にもいかない。それに千鶴の腹は帯が悲鳴を上げそうな程に大きな膨らみを見せている。いくらふっくらとした体型が好みの風間でも、幼児体型のような身体の女はそうではない。
こやつには女としての自覚も持たせなければならない。そう考えた風間は、心を鬼にして千鶴に答えた。
「生憎だが俺はこの鰻飯を食べる。よって、お前の分はない」
今まで風間はきっと半分くらいはくれるだろうと期待していた千鶴の表情が悲しみに色に変化する。
目尻を垂れて今にも泣きそうなその瞳に見つめられながら、本当ならば美味しいはずの鰻飯を、何とも気まずい雰囲気の中で風間は口に運び、全て平らげていた――。
その夜、風間の鰻飯を食べられなかった千鶴の腹が布団の中で大合唱を起こしている。
「お腹が空いて寝られません……」
「眠れば腹の虫も諦める」
「だから、寝られないんですって……」
千鶴が風間の胸に顔を押し付け、空腹に耐えようと必死になっていると、風間が耳元にフッと息を吐きかけてきた。
「何するんですか?」
「空腹を忘れられる方法を思いついたぞ」
「それって、何なんですか?」
風間が千鶴に啄むような口付けを始めた。そしてその唇がいつもの夜と同じように喉元へ押し付けていく。
風間の唇の隙間から現れ出た舌で執拗に舐め回すと、千鶴の口元からは小さな喘ぎ声が放たれ始めた。
腹の虫は未だに合唱を奏でる。しかし、それさえも気にならなくなった千鶴が風間の身体に両腕を絡ませた。
「空腹を忘れるには睡眠欲と性欲が一番に効く」
風間は喘ぎ続ける千鶴に囁きかけた後、今度は衿元を弛めて、そこから覗く胸の中に顔を埋めていった――。
翌朝、盛大な腹の虫の鳴き声で目覚めた千鶴が肌蹴ている着物の下にある自分の肌を見つめて顔を真っ赤にさせる。
風間の愛の印は胸元だけではなく、臍(へそ)の辺りにまでつけられていた――。
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