東海道-赤坂宿→藤川宿
早朝、大橋屋を後にして藤川宿を目指して歩いて行く。昨夜は首元だけではなく、鎖骨辺りにまで風間の散らした花弁が舞い降りていた。その箇所が毎夜の行為を忘れさせないかのように火照り続けていた。
藤川宿は戸数三百二戸、本陣と脇本陣が各一軒。そして旅籠が三十六で人口が千二百十三人の幕府直轄の宿場であった。
藤川宿に入った二人は街道を歩いて行く。暫く歩くと常夜燈があり、左へと曲がって行った。その先も黙々と歩いて行くと奥の方に明星院があった。風間の話しによると、この院には家康伝説というものがあるらしい。
「かつて、徳川家康が戦で見知らぬ武士に助けられたが、武士は敵の矢で片目を潰され消えてしまった。後日、家康がこの場所に参拝した折、堂内の不動尊の目が潰れているのを見て、あの時の武士は不動尊の化身と分かり感謝したらしいぞ」
「その不動尊は、家康がいずれ天下人になると分かって助けたのでしょうか?」
風間の説明を聞いた千鶴が静かに問いかけると、風間は首を捻って小さな欠伸を起こした。
「さあな……はっきりとは答えられんが、もし、この伝説が本当であるならばあの男の度量を見据えての事ではないか? または、民衆たちの支持を得る為に己は神さえも味方にしたと言い触らしたのかもしれん」
確かに、こういう神々が関係する伝説は作られたものが多く存在するが、何故だかそれらが本当にあった事のように受け継がれていく。
「上に立つ方たちには色々な話が付き物ですね。ところで風間さんにはそんな話はないんですか?」
風間も鬼の中で上に立つ権力者。千鶴は素直に問いかけてみると、風間は大きく鼻を鳴らしながら即答をしてきた。
「鬼にはそんな逸話などない」
「鬼の世界にもそんな伝説があったら面白いと思いますけど?」
「ふんっ、偽りの話など鬼には必要ないわ」
「もう、夢がないんだから……」
「夢などばかり見ていたら何事も先に進めん」
風間の現実主義には納得もできるが、少しくらいの夢物語があってもいいのではないかと思う千鶴だったが、これを言うとまた言い合いになりそうだった為、
「そうですか……」
と短く返事をするだけに留まった。
この藤川宿の名産は【むらさき麦】というものらしい。それは穂が紫色をした麦で、食用や染色に使用されていたのだそうだ。しかしこの麦、ここ最近では数が激減しているらしかった。
二人が藤川の松並木の間を歩き続ける。あの戸隠に後をつけられていた時の風間の気持ちはなかなか落ち着きを持つ事ができなかった。しかし今、大切な友を失くした事に関しては心が痛むが、千鶴を危険な目に遭わせなくて済むと考えると、風間の心中はかなり穏やかなものになっていた。
先を歩いて行くと左手に【法蔵寺】がある。そこはかつて、あの徳川家康が幼少時代に修行した寺らしい。この寺は三河屈指の大寺院だったのだと風間は説明をした後に、千鶴の腕を掴むと、その寺の中に入って行った。
「風間さん、い、痛いですって!」
「お前にいいものを見せてやろう」
「いいものって何ですか?」
「実はな、ここの寺の住職と新選組の局長が親しかったという噂がある」
「新選組の局長って……近藤さんの事ですか?」
風間の最後の言葉に千鶴は驚き、腕を引っ張られるがままに寺の奥深くに歩き進んで行くと、隅の方に一つの墓が隠れるようにしてあった。それを顎でしゃくった風間が一言を放つ。
「あれだ……」
その言葉につられるかのように、千鶴も短い返事を風間に放った。
「あれが……」
新選組局長であった近藤勇は、流山で官軍にとらえられた後、板橋で斬首された。そしてその首は京の三条大橋でさらし首になったという。しかしその後、同志がそのさらし首を盗み出して、近藤と親しかったこの【法蔵寺】の住職に頼み込んでこっそりと埋葬をしてもらったのだそうだ。
近藤の墓であるというその前で両膝を折った千鶴が胸の前で両手を合わせて静かに両瞼を閉じる。すると、まだ新選組が強い勢力を持っていた時の近藤の姿が目裏に現れた。
いつもニコニコと笑っていた近藤。近所の子供たちにも頼りない局長だといわれていた。しかし、いざとなった時の近藤は、下の名の通り勇ましかった。
ようやく会う事ができたというのに、温かみのある近藤の姿はもう見ることができない。両瞼を閉じた千鶴の目じりからは一筋の細い涙の線が作り上げられた。
「ここにさらし首を埋葬したとは言われているが、果たしてそれが事実なのかどうかは分からんらしい」
千鶴は自分の背後でそう言ってくる風間に振り返った。
「本当じゃないかもしれません。でも、何となくですけど、この墓の下に近藤さんがいるような気がしてならないんです」
千鶴の頬に光る涙の筋を見つめながら風間が返事をする。
「先ほどの徳川家康のように逸話かもしれんぞ」
「でも、逸話って本当のように聞こえるから不思議です」
「俺には理解できん」
「理解できるようになって下さい」
その時、どこからか近藤のあの優しい声音が聞こえてきた。
千鶴くん、幸せになるんだぞ――
空耳だろうか? 千鶴が周りを見渡す。しかし誰もいない。千鶴の目の前にいるのは風間だけだった。
「どうした?」
「今、近藤さんの声が聞こえたような気がして……」
確かに近藤の声を聞いた――そう思った千鶴は再び近藤の首塚の方に振り向いて呟いた。
「近藤さん……私、風間さんと幸せになりますね」
千鶴の穏やかな笑顔を見つめていた風間も小さな笑みを浮かべた。そして近藤の墓の前から立ち上がった千鶴が風間の腕に自分のそれを絡ませる。そして自分より背高い風間の顔を見上げた。
「風間さん、ここに連れてきて下さってありがとうございます」
千鶴はどんどん美しい女になっていく。風間は自分を見上げているその顔を見つめながらそう思った。しかし、それを言葉にするのが苦手な風間は、素っ気ない態度を見せながら、
「乙川を渡って、次の宿場に行くぞ」
と千鶴に伝える。風間の性格が徐々に理解し始めた千鶴もまた、先ほどまでの話はなかったかのように話題を変えた。
「はい、今日はどこで泊まるのですか?」
「今日は岡崎宿に泊まる」
「私、もう少し歩けますよ」
「お前の身体はまだ本調子ではない。だからこそ今はゆっくりと進むのだ」
「でも……」
毎日繰り返される同じ会話。千鶴は旅の遅れを取り戻すために早く先に進みたい気持ちでいるのだが、風間は至って悠長に構えている。
「別に遅くなっても構わん。西の里に行くのは決まっている事なのだからな。俺は慌てん」
「でも、天霧さんが……」
どうやら不知火から天霧の様子を聞き出していたらしい。西の里では天霧が風間の帰りを今か今かと待っているという事を風間に伝えてきた。それを聞いた風間が眉間に皺を寄せながら口を尖らせた。
「天霧には、俺がこの旅を満喫する事を既に伝えてある。だからお前は要らぬ心配をする事はない」
そのような言葉を口から吐き出す風間の腕に自分のそれを絡ませたままの千鶴は、次の宿場である岡崎宿に向かって足を進め始めたのであった――。
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