東海道-岡崎宿→池鯉鮒(知立)宿



 二人は岡崎宿の中を歩き続け、次の宿場である池鯉鮒(知立)宿に向かった。


 五万石でも、岡崎さまは、お城下まで船が着く――


 と唄われたように、城の南側の乙川には城専用の船着場がある。


 歩いて行くと矢作川の広大な風景が目前に現れ、その川には矢作橋という徳川期では日の本最大の橋が架かっている。二人はその大きな橋を渡って行った。


 矢作橋を渡っている時、この岡崎宿には多くの逸話や伝説があると風間は言う。【浄瑠璃姫物語】や在原業平ゆかりの【八橋伝説地】等はまだ我慢できるらしいのだが、豊臣秀吉の逸話だけは我慢が出来ないと言う。


 例えば、この橋の逸話――日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、八歳の時に奉公に出され、十二歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。


「しかし、この橋が架けられたのは秀吉が死んだ後だからな。かなりのでっち上げの話だ。全く、人間という生き物は見え透いた嘘話ばかりを作りたがる」


 と風間は不機嫌な声音で文句を垂れており、そんな風間を見ながら千鶴は苦笑しながら答えた。


「不安定な時代であったからこそ、人間は嘘のような逸話でも信じて心の安定を求めたのではないかと思うのですけど……」
「お前の意見にも一理あるが、そんな逸話に頼る程のものか? やはり人間は、愚かで弱いという事だ」


 人間の悪口を言いながら口を歪ませる風間に、彼のこの考えは生涯変わらないのだろうと、千鶴は小さな溜め息を吐くのだった。




 池鯉鮒(知立)宿に入る松並木の間を歩きながら西の空を見てみると、夕日がゆっくりと光を落としていく。前の宿場である岡崎宿からこの池鯉鮒(知立)宿まではかなりの距離があったが、二人は日が暮れ落ちる前に到着することができた。


「今日はここまでだな……」


 遠くに落ちていく夕日を見つめながら風間が呟き、その呟きに、流石に日が暮れた後も歩こうとは思わない千鶴も小さく頷いた。そして、二人は旅籠【柳屋】に向かった。


 この池鯉鮒(知立)宿は前に泊まった赤坂とは違い、かなり雰囲気の良い宿場だった。


「この旅籠に来るまでに通った松並木の場所では馬市が行われる」
「馬市……?」
「ああ、ここは馬を売買する場所でも有名だ」
「へえ……」


 二人の会話が途切れる。部屋の中は時を止めた空気が二人の周りを取り巻いていた。そのうちに千鶴の小さな口元から欠伸が起こされ、二人は身体を休める事にしたのであった。


 静かな闇夜の中、千鶴が風間の腕に抱かれながら気になっていた事を言葉にした。


「変若水……どこにあるんでしょうね?」
「さあな……魁人が始末していたのなら良いのだが……死んでしまった者に聞く事はできんからな。日の本にあったあいつの所にあった変若水以外のそれらは網道の研究書類と共に全て、我々鬼が始末した。残るはそれ一つだけなのだが……」


 戸隠の


 後悔するなよ――


 あの言葉が風間の脳裏に響き渡る。


 風間が黙って考え込んでいるのを見た千鶴は潮見坂上での事を思い出すと、風間の胸に顔を押し付けていった。その動作で我に返った風間はフッと笑みを漏らした。


「心配する事はない。日の本中の鬼の忍びがそれを捜し続けている。存在しているのならば直に見つかるだろう」
「でも、何か嫌な予感がします……」
「では、その不安を取り消してやる」


 風間はそう言うと千鶴の唇に自分の唇を重ね始める。少しでも不安を取り除かせようと、甘く長い口付けが続いた。


 風間の唇は徐々に千鶴の首元へと下がっていき、静かな闇夜の中には口付ける音と千鶴の遠慮がちな喘ぎ声が静かに鳴り響いていた。


 翌日、風間の元に千姫の伝言が届き、その内容を聞いた千鶴はホッと胸を撫で下ろした。


「南雲薫もなかなかやるではないか? 流石は雪村の血を引く鬼だな」


 風間もこの知らせを聞いて満更でもなさそうな表情であった。


 悩みのなくなった二人は、晴れやかな気持ちで池鯉鮒(知立)宿の旅籠を出立した。そして、次の宿へ向かう前に、風間と千鶴はかきつばたの名勝地と知られている無量寿寺へと立ち寄った。


 平安時代の歌人である在原業平が東国に赴任する時、当地に立ち寄った際にかきつばたの花を見て、京に残してきたかきつばたの文字を句頭入れて詠んだのだそうだ。


 (か)らごろも
 (き)つつなれにし
 (つ)つましあれば
 (は)るばるきぬる
 (た)びおしぞおもう


 この意味は、着古した着物のように、長年連れ添ってきた妻を都に残して来た為に、はるばる来たこの旅がいっそう侘しい――なのだそうだ。


 更に先を歩いて行くと【知立神社】の大きな鳥居が姿を現した。この神社はマムシ除けで有名なのだと風間が説明をする。そして、この地を池鯉鮒と名付けたのには、この神社の池に住んでいた鯉や鮒が【池鯉鮒(ちりゅう)】が由来であるとも付け加えていた。


 更に先を歩いて行くと【知立古城】が姿を現す。その城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代には、将軍が東海道を移動する際のみに休泊用の御殿として使われていたらしい。


 風間の分かりやすい説明も楽しかったのだが、そろそろ千鶴の腹は限界になりそうになっていた。それは空腹である。例えであるように、腹と背中が今まさにくっつきそうな感触に陥っていた。


「風間さん、お腹が空きました。もう歩けません。無理です……動けません」


 千鶴の腹の虫の合唱を隣で聞いていた風間があきれ果てた視線を向ける。


「お前は色気よりも食い気しかないのか? 全く、夫となる男の前で腹が減ったなどという言葉は聞いたことがない」
「え、だってこれ、自然現象じゃないですか。風間さんはお腹が空いても我慢しろと言うんですか?」
「普通の女ならば恥ずかしがって言わん」
「私、普通の女じゃないんだと思います」


 千鶴の生意気な言葉に風間の口が歪みを見せるが、一応、風間は鬼の中でも気の長い男で有名である。千鶴の前で大きな溜め息を一つ吐き出した風間は、一言を放った。


「もうすぐ【あんまき】が食えるぞ」



 その言葉に千鶴の大きな両目は眩しいほどの輝きを起こしていた――。 


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