東海道-鳴海宿→宮宿
鳴海宿の西の入り口にも東の入り口と同じく、立派な常夜燈が建てられており、風間と千鶴を見送ってくれているようだった。
二人は鳴海宿を後にして宮宿へと向かって行った。宮宿の【宮】は神社を意味するが、この地での【宮】は熱田神宮の事である。宮の地名は日の本中にあり、その地名の中にある【宮】はその地の神社の事を差すのである。
宮宿から桑名宿までの道のりは船で行かなければならない。この前の浜名湖今切りの渡しとは違い、距離も船に乗っている時間も長い。この宮宿は、【七里の渡し】として、次の桑名宿への海上航路の玄関口であるとともに、熱田神宮の門前町として、はたご二百四十八軒という桁違いの規模の宿場町である。
「ど、どうしよう……また船酔いしてしまったら……」
宮の渡しの渡船場に到着した千鶴が目の前に聳え立つように浮かんでいる大きな船を見ながら困ったような顔をしていると、風間が今日はここで泊まると伝えてきた。
「渡し船は明け七つ(午前四時)から暮れ七つ(午後四時)までだそうだ。既に暮れ七つを過ぎているからな」
しかし、時間は丁度暮れ七つで目の前の船は今から出港するような様子だ。だから千鶴は素直な疑問を風間に投げかけた。
「風間さん、あの船は今から出るみたいですよ。乗らないんですか?」
「俺が乗らんと言ったら乗らんのだ。今日はここまでだ……分かったな?」
風間の意味不明な行動と言葉に、千鶴は首を傾げながら先を行く風間の後に付いて今夜宿泊する旅籠へと向かって歩いて行った。
夕食の時、何故あの船に乗らなかったのかと千鶴は風間に先ほどの疑問の続きを投げかけた。すると風間は酒の入った杯を手にしながらその理由を話し出した。
「船酔いをする理由の幾つかには、寝不足による疲れ等の体調不良や船などの乗り物に酔いやすい体質が挙げられるらしい。蝦夷に向かった船の上でのお前は酔わなかった。まあ、あの時は気も張っていたからな。酔うという事さえもできなかったのだろう」
「じゃあ、今日の乗船を取りやめにしたのは、私の身体の事を思ってくれてたんですか?」
「いや……」
風間はチラリと千鶴の顔を見ると、急に手にしていた杯の中の酒を一気に飲み干した。そして空になった杯をグイッと千鶴の方に差し出し、酌をしろと顎で指示をする。一瞬遅れて風間の仕草に気付いた千鶴が慌てて酌をしようと銚子を持ち、その杯に酒を注ごうとした時、風間の緋色の瞳はその一瞬の遅れを見逃さなかったようで、一気に不機嫌な顔になっていった。
「お前は弛み過ぎだ。蝦夷に向かった時のようにとは言わんが、少しは気を張って旅をしろ」
「はあっ!? いきなり何を言い出すんですか? 私だって気を張っています!」
「いつ、どこで気を張っているのだ? 大あんまきを買いに行く時には勝手に俺から離れ、蛤地蔵の所では地面を掘ろうとする。そして今、俺の酌の合図には一瞬遅れる……心が弛んでいる証拠だ」
風間の言葉に千鶴は驚いた。いや、かなり驚いた。
大あんまきの店に駆け込んで行った時の事や酌の合図に気が付くのが遅れたのは風間にも分かる事だ。しかし何故、あの蛤地蔵の事までも分かってしまったのか?
確かに千鶴はあの場所で地面をずっと見つめていた。
掘れば蛤が出てくるなんて素敵な事じゃないか?
飢饉ではないが、掘ったら出てくるのだろうか?
などと確かに考えていたからである。しかし、風間の言葉に千鶴の自尊心はかなり傷つけられた。この二人、結局は似た者同士であるのだが、やはり千鶴よりも歳が上である風間の気持ちには大人の余裕がある。千鶴は風間の売り言葉に見事、買って出てしまった。
「分かりました。明日、船の上で心が弛んではいない証拠を見せてみせます」
千鶴の自尊心をかけた言葉に風間の頬が微かに緩んだ。
「ほう……それは楽しみだな。そうだな……旅の中の一つの興として何か賭けるか」
「な、何を賭けるんです?」
格子窓の欄干に座った風間は片手に顎を乗せると、暗闇を見つめながら暫く考え込んでいた。そして、千鶴から見えない方に向いていた風間の口端がゆっくりと上げるとそれをすぐに元に戻し、部屋の中央で正座をしている千鶴の方に振り向いた。
「この賭けでお前が俺に勝てば何か一つ言う事を聞いてやる。しかし反対に負ければ……」
「負ければ……?」
千鶴がゴクリと固唾を呑む――。
「お前が負ければ次の宿場で風間ではなく、千景と呼びながら【愛している】を百ほど言ってもらおうか。お前から【好き】だと言う言葉は聞いたが【愛している】の言葉は聞いた事がないのでな。そして、百を言い終えた後にはお前から口付けを貰うとしよう」
風間のいきなりな発言は、先ほどの驚きを更に大きくさせる。千鶴は顔を真っ赤にさせながら叫んだ。
「な、何を言い出すんですか!? そんな事……できるわけ……!」
「賭けだからな。何でもありだろう?」
風間の落ち着きのある声音が苛立つ。何でも自分の思うとおりになるとは思うなと思った千鶴は、その場から立ち上がって風間の方に自分の人差し指を差した。
「うううっ! 絶対に負けませんからね! じゃあ、私が勝ったら絶対に一つだけ言う事を聞いて下さいよ!」
「ああ、勿論だ。鬼は約束は守る」
「そうやって威張っていられるのも今夜だけですからねっ!」
千鶴の最後の言葉を聞き届けた風間は微かに口角を上げると、千鶴の手から銚子を取り上げて手酌を始めていた。
自分が勝てばどのような願いを聞いてもらおうか?
千鶴は布団に入ってからもその事ばかりで頭の中は一杯になっており、負けた時の自分の姿などは一切考えもしなかった。
結局、千鶴が眠りに就いたのは、東の空が薄っすらと白み始めた頃であった――。
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