東海道-宮宿→桑名宿



 翌朝に風間が目を覚ますと、目の前の千鶴はまだ夢の中に入り込んでいた。


「昨夜は寝るのが遅かったようだな」


 風間は自分の勝ちを確信しながら千鶴の両頬をキュッと引っ張った。


「ふぐっ……!」


 よく伸びる頬だ――風間はそう思いながら千鶴の耳元に顔を近づけた。


「千鶴、朝だぞ。起きろ」
「ん、もう少し……んむっ!」


 いきなり唇を塞がれた千鶴が大きな目を開けると、その前には風間の顔が間近にあった。


「ふううっ!むううぅっ!」


 手足をじたばたと激しく動かすが、起き立ての身体は言う事を聞いてはくれない。暫くの間その状態が続き、ようやく二人の間に距離が保たれた。


「ぷはああぁっ! 風間さん、苦しいじゃないですか!」
「お前が起きんからだろう。早く起すにはこれが手っ取り早い」
「もうっ!」


 風間の行為に怒る態度を見せながらも、心の中では何となく嬉しい千鶴は眠い目を擦りながらのそのそと布団から這い出した。昨夜は寝つきが悪かった為か頭がフラフラとしている。


「風間さん、何ニヤニヤと笑っているんでしょうか?」


 千鶴が背後からの視線を感じて振り向いてみると、この先が楽しみなように笑っている風間がゆったりと座っている。


「いや、何もないが……。ところで、お前が勝った時の願い事は決まったのか?」


 風間のその問い掛けは、千鶴が勝つのも当然だというような話し方。それを聞いた千鶴も既に自分の勝ちであるとでも言うような表情で答えた。


「幾つかあるんですけれど、どれにしようか迷っているんです。どれにしようかな?」


 そのような千鶴を目を細めて見つめる風間は心の中でこう呟いた。


 迷わずとも、この賭けは既に俺の勝ちだ――。


「では、船が桑名に着くまでに決めるといい」


 立ち上がった風間は、では行くぞ――と千鶴に声を掛け、二人は旅籠を出て行った。


 昨日の晩に立ち寄った宮の渡しの渡船場の所まで行くと、大勢の旅人たちで溢れ返っていた。


 この宮の渡しは、伊勢(三重県)の桑名までここから七里あったので七里の渡しともいわれており、約三時間の船旅である。船には四十人乗り、四十七人乗り、五十三人乗りがあり、二人は一番少ない四十人乗りに乗る事にした。


 昨日と比べて今日の波は荒いような気がする。千鶴はそう思いながら船に乗った。船に乗ってから初めは冷たい潮風に肌を当てられ心地良く感じていた千鶴は、風間に聞きたい事があり尋ねてみた。


「風間さん、宮から桑名までどのくらいの時間、この船に乗るんですか?」


「そうだな……今は昼四ツ(十時)という事は、九ツ半(十三時)か昼八ツ(十四時)には到着するだろう」


 風間の返事に千鶴は目をまん丸くさせた。


「えっ、到着は四ツ半(十一時)頃じゃないんですか!?」
「今切りの渡しとは距離が全く違う。船に乗っている時間も違うぞ。こちらの方が船に乗っている時間は長くなる」


 風間の返事を聞き終えるまでに千鶴は徐々に青ざめた顔色に変わっていく。先程から少し胸の辺りがむかむかとしてきているのだ。この前の渡しの時間くらいなら我慢ができると思ったのだが、その倍以上乗らないといけないと知った今、その胸の悪さが急にこみ上げてきていた。


「気分が良くないのか?」


 風間が千鶴の背中に腕を回し顔を近付けて聞いてくると、うんうんと頷くように首を振っている。するといきなり千鶴の目の前に巾着らしき布が差し出される。


「この模様は……」


 手渡されたその巾着の模様は、あの有松絞りであった。


「お前に似合う色だと思って買ったのだが、生憎吐き出せる入れ物がないのでな。これを使え」


 千鶴の背中に手を当てたまま、風間は海の向こうの地平線に目を向けている。その行為は恐らく、千鶴が戻してしまうのを見られるのは恥ずかしいだろうという風間の優しさの行動であった。


 船酔いをしても吐かなければ私の言う事を一つだけ聞いてくれる――
 そう――私がこの賭けに勝ったら――


 むかむかとした気持ち悪さを持ちながらも、何とか吐き出さずに桑名に着いた千鶴の手には風間が差し出した巾着がしっかりと握られていた。


 ようやく桑名の船着き場に到着をし、船を降りた千鶴は風間に支えられながら木の陰にまで連れて行ってもらい、そこで喉元まで押し上がっていた汚物を吐き出した。その間、風間の大きな掌はずっと、千鶴の小さな背中を優しく撫で続けてくれていた。


「俺の勝ちだな。今宵は言う事を聞いてもらうぞ」


 胃の中の物を全て吐き出して落ち着いた千鶴の横でご機嫌な表情の風間が囁く。


「あんなに長い船旅とは思いませんでした……って、私は船の中で吐きませんでしたよ!」
「しかし、結局は船酔いをして戻したのだ」
「そ、そんなぁ……」
「だから、俺の勝ちだな」


 千鶴は大きな溜め息を吐くと頭を垂れた。今夜は風間の言う事を聞かなければならない。心の中では素直に出る言葉なのだが、いざ外に出すとなると恥ずかしくなってくる言葉を――。


「千鶴、もしお前が俺に勝ったとしたら何を願うつもりだったのだ?」


 風間の急な質問に千鶴の頬はこれでもかというくらいに朱に染まっていた。


「いえっ! 別に……そんなに大した事ではありませんから」


 慌ててその願いを言おうとしない千鶴の顔をじっとりと見つめる風間――。


 風間さんは絶対に勘付いている――


「言えん事を願い事にしたのか?」
「いえ……私が勝ったら言うつもりだったんで。もう負けたからいいんです」
「ほう……」
「風間さん、私お腹が空きました。焼き蛤を食べに行きましょうよ」


 風間の矢を射抜くような視線が痛い――千鶴はそう思いながらも引き攣る笑みでその場をやり過ごした。


 桑名宿は伊勢国および、伊勢参りの玄関口とあってか規模も大きい宿場である。街道沿いには蛤料理屋が軒をズラッと連ね、焼き蛤や時雨蛤(茹でた蛤を甘辛く煮付けたもの)の香ばしい匂いに包まれていた。


 沢山ある料理屋の一軒に入った二人は、もちろん焼き蛤を注文した。風間は酒も頼んでいたようで、彼の目の前には二本の銚子とお猪口が置いてある。


「ふふ……美味しい!」


 触れば火傷をしそうなほどの湯気を立ち上らせながら出てきた大きな焼き蛤を一つ食べた千鶴の頬は今にもトロンと落ちていきそうになる程、その味は絶品だった。


「千鶴、この後少し寄りたい所があるのだが……」


 酒を全て飲み干した風間が、最後の蛤を口の中に放り込んだ千鶴に言うと立ち上がる。


「どこに行くんですか?」


 千鶴が焼き蛤のあった場所から顔を上げると、風間が自分の手拭いでその唇の周りにこびり付いている汚れを軽く拭き取った。


「行けば分かる」


 そして金を払った風間が店を出るのを千鶴は慌てて追いかけて行った。


 宿場から少し離れた所まで来た二人。風間はその数件しかない建物の一軒に入って行った。


 何があるんだろう?


 千鶴は不思議に思いながら、同じ建物の中に吸い込まれるように入って行った。


「風間さま、いらっしゃいませ」


 店の中に入った千鶴が視線をきょろきょろとさせながら周りを見回す。目の前には沢山の刀が陳列されていた。


「刀を売っている店ですか?」


 千鶴が尋ねると、風間はニンマリと笑ったまま何も答えずに、そこの主人から手渡された刀を鞘から抜き取って眺めていた。


 美しい輝きを見せる刃。それを見た風間は迷いもせずに答えた。


「これを貰おう」
「有難うございます」


 その店の主人は、その刀を丁寧に桐の箱に詰めると風間に手渡した。


 店の外に出た二人は黙ったまま元来た道を歩いて行く。


「風間さん、その刀は……?」


 ようやく沈黙を破った千鶴に、


「宿に着いてから話してやる」


 風間はそう言い放つと、再び黙りながら前を向いて歩き始めた。


 ここ、桑名まで着くと京までの道のりも後少し――。


「今日はこの桑名でゆっくりと寛ぐか……」


 と風間は満足気な声を出した。その声音の様子だと、自分の欲しい物が手に入り機嫌が良いのだという事が分かる。


 宿に着いた千鶴は、早速先程の刀について聞いてみた。風間は桐の箱の中からその刀を取り出し、暫くの間それを見つめていた。


「これは、【妖刀村正】で徳川家に仇をなす刀と言われている。村正はこの桑名の刀匠なのだ」
「妖刀村正……?」
「徳川家康までの徳川家の人間は、全てこの村正の刀で殺害や介錯をされている。家康が徳川家の村正を全て廃棄はしたのだが、こうやって民間に残された刀などは銘をすりつぶして隠滅させたりしたのだ」
「風間さんはその刀が欲しかったんですか?」


 千鶴がそう問いかけると、風間は深い頷きを一つ起こした。


「この刀は切れ味も良くて丈夫だ。一振りくらいは持っていても良いだろう」


 そしてその刀は再び桐の箱の中に納められた。


「さて、そろそろ俺の言う事を聞いてもらおうか?」


 刀を箱に納めた風間が、千鶴をいきなり抱き寄せてきた。もちろん、風間の言っている事はあれだ――船に乗る前の賭けの事。


「えっ!? 今から言うんですか!?」


 外はまだ夜には程遠い時間。それなのに今から言えとは――。


「当たり前だ。お前は一体いつから言おうとしたのだ?」
「ゆ、夕食と風呂が終わってからだと思っていました」


 千鶴の言葉にククッと喉を鳴らして笑う風間。千鶴の顔は窓から差し込んでくる夕日のように真っ赤に染まっていた。


「寝る時から言ってくれるのは粋な事をしてくれるものだが、お前は恐らくその途中で寝てしまうだろう」
「うっ……!」
「さあ……言うが良い。」


 千鶴の真っ赤に染まった頬を撫でながら強要してくる。その時、千鶴は船の中で風間が差し出してくれた巾着を思い出した。


「あっ、そうだ! その前に……」


 千鶴は風間の腕から逃れると、自分の手荷物の中から何かを取り出した。


「何をしている? それは何だ?」
「船の中で巾着を下さったでしょ? 私も実は風間さんにこれを買っていたんです」


 千鶴の手から風間の手に渡された物――それは、品の良い柄が浮き出ている有松絞りの手拭いであった。


「この絞りの模様は同じ物が絶対に出来ないんですって。この模様を見た時、風間さんに似合うって思ったんです。だけど、同じものが絶対にできないって言われてても似たようなものはあるみたいで、ほら、私の手拭いとお揃いみたいな柄なんですよ」


 千鶴が自分のものも取り出して、風間のそれと並べて見せる。心の中では嬉しくは思うも、なかなか素直な気持ちが表面化できない風間は小さく鼻を鳴らした。


「ふん……要らんと言っておったのを聞いていなかったのか?」
「……それなら私が使いますから返して下さい」


 ブッと膨れた千鶴が風間の手の中にある手拭いを取り返そうとするが、その手は見事に撥ね退けられた。


「俺は要らんが、お前がどうしても貰って欲しそうにしておるから貰っておいてやる」
「な、何? その捻くれた面倒臭い言い回しは……」
「それよりも……」


 と、風間はその手拭を袂に丁寧に入れると、再び千鶴を抱き寄せた。


「さあ、早く言え。言わんと朝になってしまうぞ」


 頭の中では言おうとしているのだが、口から外になかなか言葉が出てきてはくれない。


 千鶴はあわあわと唇を動かしながら、心の中で練習をする。


 千景さん愛しています――だったよね。


 大きく深呼吸をして心を落ち着かせた千鶴が小さな声音で言葉を吐き出した。


「ち、千景さん……あ、愛しています……」


 その言葉が出た瞬間、千鶴の顔は風間の胸の中にポスッと押さえ込まれた。


「あと九十九だ……」


 気のせいだろうか? 風間の鼓動がいつもより速く感じる。


 風間さん、もしかして嬉しいのかな――?


 千鶴はそう思いながら短い返事をした。


「は、はい……」



 その後、夕食と風呂以外の時間、その言葉は夜遅くまで千鶴の口から紡がれていたのであった――。


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