東海道-桑名宿→四日市宿



夜が明けて朝になったようだ。千鶴が重い瞼をゆっくりと上に押し上げると、目の前には機嫌の悪い雰囲気を顔中いっぱいに漂わせている風間が映った。


「お早うございます……。どうしたんですか? 何か機嫌が悪いみたいですけど……」


 千鶴が眠い目を擦りながら、風間に機嫌の悪い理由を尋ねると、


「約束が全て終えておらん……」


 との一言が返ってきた。約束とは、昨日の賭けに負けた千鶴が風間に、


 千景さん愛しています――


 それを百ほど伝えるものであった。しかし、それは明け方頃には全て言い終えてから眠りに就いたのを覚えていた千鶴が即答をした。


「明け方にはちょうど百を言い終えたはずですけれど……」


 すると、風間は不機嫌なままの状態で千鶴の唇に自分の人差し指を押し付けてきた。


「口付けがまだだ……」
「あ……」


 千鶴の寝ぼけている頭に冷水がかかったように目が覚めてしまう。そういえば百言った後に口付けがどうのこうのと付け加えていたような気がする。


「さて、してもらおうか」
「ううぅっ……!」


 千鶴は顔を真っ赤にさせて風間を睨み付けるが、目の前の風間はそんな顔にも動じもせずに反対に睨み返してくる。確かに約束は約束であるから口付けをしようと思うのだが、目を開けられたままではやりにくいものだと分かった千鶴は、風間に一つだけ条件を出した。


「しますから……目を瞑って頂けません? 目を開けた状態だと恥ずかしくてできません」
「全く、女とは面倒くさい生き物だ」


 風間は大きな溜め息を吐き出した後にそう言って目を閉じる。千鶴は目の前で目を閉じた風間の顔をまじまじと見つめた。


 白い肌に整った顔立ち、睫毛は長く黙っていれば好感の持てる男である。この顔であの高慢な口調でなければとは思うのだが、この性格でなければ風間らしくもないか――


 千鶴はそう思いながらゆっくりと唇を近付けていった。


 少しずつ近付いていくと、風間の温かな吐息が千鶴に伝わってくる。千鶴はそのまま風間との唇の距離を狭めた。


「……むっ!」


 唇同士が軽く重なり合った途端、千鶴の頭は風間の腕によって押さえられ、思い切り強い口付けが始まってしまった。驚いて目を開けると、緋色の瞳が楽しそうに細められている。舌が入り込み歯列をなぞられ、最後には千鶴の舌が絡め取られた。そしてそれは徐々に激しさを増し、千鶴の喉の奥からどんどん唾液が溢れ出し、中では卑猥な水音が響いた。


「ぷはっ……!」
「お前は唇が重なればそれで済むと思ったのか? 甘いな」


 千鶴の苦しそうな顔を見ながら面白そうに笑う風間。


「もう!」


 っと、千鶴は頬を膨らませながらも苦しさと恥ずかしさのせいで頭から湯気が沸き出るのではないかと思われるくらいに真っ赤になっていた。そのような千鶴を見た風間が満足げな笑みを浮かべ、


「お前の願いは何だったのだ? 俺との約束を守った褒美としてお前の願いも聞いてやろう」


 からかいを込めたような言い方で千鶴に聞いたが、ブンブンと横に振った千鶴の顔は青ざめたり赤くなったりを繰り返して映し出していた。


「い、いえいえ、いいんです! 本当に大した事じゃないですから、忘れて下さい」
「ほう……そんなにも恥ずかしい事なのか?」


 弧を描くように口端を上げて頬を撫で上げてくる風間の掌が、千鶴の身体の芯に疼きを起こさせる。


「言ってみろ……」


 この表情は自分の願い事を絶対に分かっている。分かっていてからかってくる風間は何て意地悪なんだろう――


 そう思った千鶴はキッと目を吊り上げていた。


「絶対に言いません!」


 風間の顔はからかいの色を消さないまま、


「用意ができたら出立するか……」


 そう言って頬から手を離していくと、何故か千鶴の身体には言いようもない物足りなさが生じていた――。


 旅籠を出た二人は桑名城を眺めながら先を進んで行った。


 この桑名城は二方が海に面し、その優美な姿から【扇城】とも呼ばれていた。


「大きい城ですね。それに綺麗です」
「関ヶ原の戦の後は本多忠勝が城主となり、その後は目まぐるしく支配者が入れ替わり、徳川の時代になると代々松平家がこの城の城主となっていた。しかし、今この城は賊軍の城だと噂されていてな。破壊される恐れもあるらしい……」
「では、次にここに来る時にはこの城がなくなっているかもしれないという事ですか?」
「そうなるかもな」


 江戸の繁栄は落ちる所までいった――


 風間はそう呟きながら千鶴の手を取り歩き出していた。


 東海道の道のりを歩いていると、ある寺が姿を現した。その寺を一瞥した風間が口を開いた。


「あの寺は【海蔵寺】と呼ばれていて、薩摩藩とは深い関係のある寺だ」


 薩摩藩と深い関係があると聞いた千鶴が首を傾げた。


 この場所は薩摩とは何ら関係のない場所なのに、何故にそのような寺が存在するのだろうと不思議に感じたのだ。


「薩摩藩は幕府から洪水が頻発する長良川、木曽川、そして揖斐川の治水工事を命じられた。しかしその工事は難航。結果的には薩摩藩の十年分の財政を使い果たしてしまった。その治水工事に関わった薩摩藩の家老を始め、工事責任者である五十一名が薩摩の地の方角に向かって申し訳ないと詫び、切腹をしたのだそうだ」
「どうして幕府は薩摩藩に薩摩の地から遠く離れたこのような場所の治水工事を命じたのですか?」


 風間のその話を聞いたとすれば、誰でも気づくはずの疑問を千鶴も抱いた。その問い掛けを待っていたのか、風間は空を見上げながら再び話の続きを始めた。


「幕府も九代将軍家重の代、老中政治でようやくにして木曽川の大治水工事を決意した。その時に事もあろうか、外様大名であり関ヶ原の戦以来、勤倹尚武の薩摩隼人であり、砂糖などの生産その他で幕府としては【目の上のたんこぶ】的な存在の島津藩の財政疲弊を狙った。そして縁もゆかりもない、三百里も隔てた薩摩の国島津藩に【お手伝普請】(幕府が設計・監督をして、費用と人夫は命ぜられた大名が出す)を命じたのだ。もちろん、薩摩では賛否両論で騒然となったらしいが、結局は幕府の命に逆らえずに決行したらしい」
「薩摩藩の財政疲弊を狙って……何て酷い……」


 薩摩の鶴丸城では幕府との一戦の声が強かったが、勘定方家老の平田靭負は


 皆の怒る気持ちはこの平田とて同じである。しかし戦をすれば薩摩の民百姓が一番に犠牲になるだろう。ならば、この島津藩に連綿と続く【日本人は皆兄弟という同胞愛】そして【仁義】という精神で、水におぼれる美濃とやらの人々を救おうではないか。戦以上に苦しいかもしれぬ。しかし成し遂げれば島津家もご安泰であろう――


 情理を尽くした平田の言葉に反対する者もなく、若き藩主である【重年公】も


 苦しく辛いだろうが、いま平田の申す如く、一同の者、水と闘ってはくれぬか――


 と哀願にも似た言葉に藩士たちは暗黙の追随をしたのだという。


「当時では他国ともいえる美濃、伊勢、尾張へ三百里も隔てた治水工事に九百四十七名の薩摩藩士が宝暦四年二月より、武士の象徴でもある刀を捨てて水中に入り、鍬や掛矢と幕府の叱声を浴び、言葉は通じぬ他国の地で、朝は明星、夜は夜星、そして一汁一菜にて疲れを癒す風呂もなく、煎餅布団に身を包み、故郷をしのんでいた事であろう。その上に幕府は治水工事を行っている村々に高札を立てた」


 それにはこう書かれていたという。


 一、食事は一汁一菜で馳走がましき物は出すな
 二、草履、蓑などは決して安く売るな
 三、宿舎は、板塀などが壊れても修理をするな
 四、決して差し入れがましき事はするな
 五、幕府の悪口などを聞いたらすぐに密告をせよ


 などと、手伝いにきた薩摩藩士に非礼な事を、その土地の者たちに命じたのだという。


「この時の薩摩藩の幕府に対する恨みは深かった。そして同じように幕府によって酷い事をされて深く恨んでいた長州との薩長同盟の伏線となったのだ」
「最初の薩摩と長州は犬猿の仲だったと聞いていますけど……」
「初めのうちはな……しかし、土佐の坂本竜馬が、この両者の幕府への深い恨みを巧みに利用して、薩摩と長州に手を結ばせたのだ」


 この地が薩摩と深い関係にあった――いや、酷い過去を持っていたのはよく理解できた。しかし、この【海蔵寺】とはどのような縁があるのだろう? 千鶴が寺の方を凝視していると、風間がいきなり手を引っ張ってその寺の中に入って行った。


「か、風間さん!」


 風間の千鶴の手を引っ張る力が強い。その力からは、風間もまた、幕府に対してあまり良い感情を抱いていない事が理解できた。


 風間は歩きながらも話を続ける。しかし、それは既に薩摩藩の話から違うものに変わっていた。


「その治水工事に関わったのだ……」
「え……?」
「風間家の先祖もな……」
「あ……」


 寺の中に入り、奥まった場所まで歩いて行った風間がいきなり立ち止まり、千鶴の握っていた手から自分のそれを離した。


「治水工事が始まって五十日、早くも犠牲者が出た。それはある二人の男の差し違いによる自害だ。しかし、幕府への反抗心からと取られることを恐れた薩摩藩は、病死などと偽って報告をしなければならなかったのだそうだ。死んだ者たちの葬儀は仕事を終えてから夜にせよとのきつい幕命の為に日が暮れてから各寺を回って埋葬を願ったのだそうだが、幕府を憚り、引き受ける寺院はなかったという。最後に海蔵寺に願ったところ、その時の和尚が【死者を弔うのは僧侶の務め】と快諾してくれ、手厚く埋葬をして戒名を過去帳に残してくれたのだそうだ」
「それで、この【海蔵寺】と薩摩藩は深い関係にあるのですね」
「ああ……風間家の者たちの名は残ってはいないのだそうだが、この寺に葬られたのだろうと言われている」


 風間はそこまで言うと急に黙り込んで両手を合わせる。二人の目の前には今、薩摩藩の者たちが葬られているであろう場所があった。


 幕府はその後、薩摩藩に阿部側の改修までもを命ぜたりして、財政疲弊を目論んでいたのだそうだ。風間のその話を聞いた千鶴が小さな溜め息を吐き出す。


 風間が幕府側の人間たちをよく思わない気持ちも理解できたのだ。
 
 そう、彼らには幕府方を恨む理由があった。だから、千鶴はその場で何も言い返す事もできなかったのであった――。




 桑名宿が伊勢参りの街道でもあるせいだろうか、大きな常夜燈が至る所に建てられている。今までの常夜燈は千鶴の背丈よりも少し大きいか同じくらいであったが、この辺りの物は見上げなければいけないほどのものであった。


 員弁川の町屋橋のたもとでは茶店の名物【安永餅】が売られており、二人はそこで暫しの休憩を取った。


 この安永餅は大きくて長く、両面を焼いてあり、甘みが少なく素朴な感じの餅である。焼きたてのその餅を息を吹きかけて冷ましながら食べている千鶴を風間がジッと見つめていた為、餅を持つ手が震えて食べるのにかなりの時間を費やしていた。


 桑名の旅籠を出立してからというものの、風間は千鶴に意味ありげな視線を頻繁に送ってくる。その視線がどういう意味かは分かるのだが、千鶴は頑として口を閉ざしたままだった。


 抱いて欲しいのならば素直に言えば良いものの――
 全く女とは面倒臭いものだ――


 風間は願い事について一切口に出さない千鶴の横顔を見つめながら小さな溜め息を吐き出す。


 風間さんは、私の心中を知っていてからかうけれど、私から頼まないと抱かないとか言っていたし――
 女の口からそんな言葉を出すのは恥ずかしいし――


 千鶴も風間の端整な横顔をチラチラと横目で見ながら小さく溜め息を吐いていた。


 そんな二人は三滝橋を渡って四日市宿へと入って行った。


 暫く歩いて行くと浜田城まで辿り着いた。そこには鎌倉時代に作られたという【十六間四方白星兜鉢】がある。その鉢は、俵藤太が三上山のむかでを退治した際、褒美として龍神から贈られたものらしく、祈願すると雨雲を呼ぶとされ、今でも雨乞いの儀式が行われているという。


「雨乞いをすると、本当に雨雲がやってくるんでしょうか?」
「雨乞いをしたところで自然というものは人間の思い通りにはならんものだ。この儀式をする時期は雨の多い季節を選んでいる。当たるも何もそのような季節にすると雨はいつかは必ずやって来るからな。伝説通りになるよう上手くやっている。それで信じてしまうのだ」
「だから、雨の多い夏の季節にするんですね?でも、雨乞いってその季節に雨が少ないからするんでしょう?」
「まあな。日照りが続いたりすると行うらしいが、確かに水というものは生き物にとっては必要不可欠な物だからな。雨の降らない日が続いたりすると藁にも縋る思いでこのような事をするのだろう」


 風間はそう言うと、今日はこの四日市宿で泊まると千鶴に伝え、宿泊する旅籠に向かって行った。


 二人が旅籠に到着する前に、風間に許しを得た千鶴がある店に入って行き、何かを持って出て来た。手の中には笹皮に包まれた物が納められている。それはこの四日市宿の名物【笹井屋のなが餅】だった。


「先程食べた安永餅に似ているんですけど、この餅は【なが餅】って言うんですって。安永餅よりも少し小さいですし、焼いていないんです。お店の方がおっしゃるには軽くて素朴だって……。食べてみる価値はありますよね? かざ……ち、千景さんの分も買ってきたので旅籠で食べましょうよ」


 千鶴が嬉しそうに話すのを見つめながら、風間の脳裏にある考えが浮かび上がってきた。


「いいだろう、それはあまり甘くはなさそうだしな。それに長さも厚さも丁度良さそうだ」
「長さと厚さが丁度いいってどういう意味ですか?」
「旅籠に行けば分かる」


 風間は意味ありげな笑みを浮かべると、


「行くぞ……」


 そう言って先を歩き出し、千鶴はその笑みに微かな不安を抱きつつ風間の背中を追って歩いて行った。


 旅籠に着いた二人が部屋に通されてすぐに千鶴が笹皮を開くと、のっぺりとしたなが餅が行儀良く並んで置かれていた。


「ねっ、美味しそうでしょう?」


 もう待てないと言うような様子で餅に手を伸ばし掛けた千鶴の腕を風間が制止する。


「えっ、何で止めるんですか?」


 文句を言おうと風間の方に顔を向けた千鶴の表情が固まった。何かを企んでいるような笑みが蜜色の瞳に映る。


 火鉢の中の炭がパチリ、と音を立てた――。


「共に食すると美味さが増すのではないか?」


 風間の言っている意味が全く皆無である千鶴は、人差し指を顎に添えながら首を傾げた。


「共に食する……あ、もしかして早食い競争ですか? それなら私、負けませんよ!」


 するといきなり千鶴を胡坐の上に乗せた風間が、自分の方に向かせた千鶴になが餅を咥えさせた。


「ふがっ!」
「俺は負けると分かるような勝負などせん。いいか、少しずつ食べていけ」


 なが餅を咥えさせられた千鶴は両手を風間に掴まれている為にその餅を手で持つ事ができず、仕方なく口だけを使ってもぐもぐと中に入れ食べていく。その姿を見ている風間はご機嫌がかなり良いようだ。目を細めながら面白そうにこちらを見つめ続けている為、千鶴の顔は徐々に朱に染まっていった。


「千鶴、そこで食うのを止めろ」


 あと一口程を残した餅を咥えさせられたまま口の動きをピタリと止める千鶴。


「口の中の餅は全て喉を通ったか?」


 未だに風間の言葉に訳が分からずも餅を咥えている為、うんうんと首を縦に振る事しかできない。


「ならば、食するとするか。俺はそんなに多くは要らんからな」
「ふ……? ふうぅぅっ!」


 言うが早いか、一気に風間の顔が近付くと口全体を塞がれ、そのままの状態で千鶴の口元から餅が少しずつ消えていく。最後には粉や餡が付いた唇全体を風間の舌が輪郭に沿って舐め取ると、次には口内へと滑り込んできた。


 長い口付けの間に千鶴の意識は遠退きそうになり、全身には言いようもない鳥肌が立ち始める。


 どうして風間さんの口付けはこんなにフラフラして心地好いんだろう?
 もう少し――


 そう思い始めたのを見越したのか、風間の唇がいきなり離れた。


「あ……」
「どうかしたか?」


 風間がニヤリと笑みを浮かべて次の言葉を待っているようだ。千鶴は一瞬だけ唇を強く噛むと、


「何でもありません……」


 身体の中に熱いものを感じながらも心の思いとは反対の言葉を放ち、風間は依然として表情を変えずに、


「そうか……」


 と答えると、再び千鶴の口の中に餅を咥えさせ、先程と同じ事を繰り返していた――。


 この【なが餅】が、関ヶ原の戦の後、津三十六万石の城主となった藤堂高虎が足軽時代に、空腹で一文無しだった為、出世払いで食べさせてもらったのを恩に感じたらしく、参勤交代の際には必ず立ち寄ったのだそうだ。その藤堂高虎の祖先である藤堂高猷の落胤があの藤堂平助であったかもしれないと言われている。



 風間は何も言わなかったが、千鶴はこの道中で新選組の隊士たちと関わりのある場所に立ち寄っていたのであった――。


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