風間との誓い-sidestory-



 南西から暖かい風がそよそよと吹き出した三月の半ば、仕事を一段落終えた風間は久し振りの休日を読書に費やしていた。


 気になった書籍を天霧に購入してもらっていたのだが、仕事が忙しくなかなかそれらに手を付けられなかったのだった。


 パラパラと読み終えた箇所の紙を捲る音だけが聞こえる。風間は速読をする為、何十、いや百近くあった書籍を次々と読み終えていった。


「そんなに早く読んで、内容が分かるんですか?」


 風間が読み終えた書籍の中で自分の気に入ったものを選び出して読み始めた千鶴は、まだ一冊目の十頁程しか読んでおらず、千鶴の後ろでは絶えず頁の捲る音だけが聞こえる為に音が気になり、落ち着いて読む事もできなかったのだ。


 何とも滑稽だが、書籍を読んでいる時でさえ千鶴を胡坐の上に乗せている風間は、無言のまま読んでいるそれを千鶴の頭を台替わりにして乗せ、真剣な眼差しで読む。確かにゆっくりと落ち着いて読もうと思っても読めないはずであった。


 千鶴は一冊の半分くらいまで読み終えた後、目が疲れてしまい、休憩をしようと風間の胡坐の上から離れようとした。


「千鶴、動くな。読む事に集中できんではないか」
「千景さん、私疲れちゃいました。お茶を持ってきますから離して下さい」


 千鶴がそう言って動こうとすると、風間は千鶴の頭の上に乗せている書籍を押し付けるように固定させてくる。そのお陰で千鶴は動く事さえもできない。


「あと数頁だ、我慢しろ」
「喉が渇きました……」
「……」
「聞いてないよね」


 自分の言いたい事だけを伝えると、再び活字を読み出す風間を背中で感じながら千鶴は小さく溜め息を吐き出した。


「あまり強く呼吸をするな。呼吸を止めろ」
「そんな無茶苦茶な……そんな事をしたら死んじゃうじゃありませんか」


 そして暫くの間、風間がその書籍を読み終えるまで、千鶴は石のように固まったままの状態で座っていた。


「今日はここまでにするか」


 五十冊は読んだのだろう。風間が読み終えた書籍が千鶴の前で高々く積まれている。それを傍に控えていた天霧が順序良く片付け始めていた。


 天霧は風間と千鶴の会話を聞いていた為、二人の為にお茶と菓子までも用意しておいてくれていた。


「天霧さん、有難うございます。やっぱり読書をした後って頭を使うからお腹が空きますよね」


 そのお茶と菓子に飛び付いた千鶴を見ていた風間がチラリと千鶴の傍にある書籍を見る。


「お前はこの書籍しか読んでおらんのか?」
「えっ? はい、まだ読みかけなんです。だから置いておいて下さいね」
「俺が何十冊も読んでいる間に一冊も読めんかったのか?」
「悪いですか?」
「お前の頭はどうなっているのだ?」
「どうなってるって、私、速読なんて出来ませんもの……って言うか、千景さんが読むの早すぎるんです」
「まあまあ、お二人とも……。今日は良い天気ですし、散歩などされてはいかがですか? このように部屋に閉じ篭ってばかりでは身体にも良くありませんよ」


 天霧の仲裁によって喧嘩がお流れになってしまった二人は、少しの蟠りがあるものの散歩に行こうかという事になった。


 二人が歩いていると、山々は新芽の色を醸し出しており、桜の木々は三分咲きとまではいかないが、ちらほらと蕾が顔を出し始めている。地面には名もない野の花や若い葉などが咲いたり生えたりしていた。


 遠くでは鶯が美しい音色を里中に響かせ、薄青の空には春になると外の国から飛んでくるという燕が気持ち良さそうに羽を広げさせて踊っていた。


「春ですね……」
「そうだな……」


 風間に耳元の辺りに野の花を飾ってもらった千鶴がふんわりと笑う。その笑顔は寒い冬と同じような人生を絶えてきた風間にとっては今の長閑な春のように光輝き、心に温もりを与えてくれるものであった。


 里ではこれからが忙しくなるらしい。仲間たちが田や畑などを耕し始めている。この暖かい薩摩では、二毛作が中心である。今の時期から米を作り、夏には収穫。そして再び米を作り晩秋に収穫をするのだった。野菜なども早くに植えても、この暖かさですぐに実がなり食卓に出される。食べる事の好きな千鶴にとってはとても魅力のある里であった。


 二人が散歩をしていると、その田や畑仕事をしている仲間たちが手を振ったり会釈してくれたりする。そして、時々立ち止まっては軽く会話をしたりするのだ。それがまた、この里の情報を知りえる事となり、風間にとっても千鶴にとっても有益な事でもあった。そのようなゆっくりとした時間を掛けて散歩を続けた二人はある山の頂まで登って行った。その頂からは少し離れた薩摩富士を見る事ができる。今日は天気も良く全てが澄んでいた為、その富士を見る事ができた。薩摩富士からほんの少し離れた場所には火山の爆発によって成された池田湖の水が太陽の光に照らされながらキラキラと輝いている。


「薩摩富士……綺麗に見えますね」
「薩摩富士は開聞岳と言うのだ。山麓の北東半分は陸地に、南西半分は海に面していて、見事な円錐形の山容から薩摩富士と呼ばれるようになったが、火の噴く山……火山だ」
「富士の山も火山だと聞きましたが」
「この日の本は火山がそこら中にある。いくら我ら鬼や人間が足掻こうとその火山の火を前にして成すべき事がない。収まるまで待つのみだ。我々は自然には勝ち目がないのだ」
「そうですね。自然には逆らえませんよね」


「火山の爆発は神の怒りとも言われておる。恐らく、その時は人間の暴走を止めようとする為に、日の本の神々が怒っているのだろう」


 千鶴は驚いて目を見開いた。人間の神などと馬鹿にしていた風間がこの時だけは神妙な面持ちで話し出したからだった。


「千景さん、人間の神は信じないって……」
「人間の作り出した神々は信じないが、この自然の神々は我ら鬼とて信じるしかあるまい。実際に目の前で恐ろしい光景を見させられるのだからな」


 ああ、そうか――


 と千鶴は思った。風間は自分の目で見たものを信じるのだ。他所から聞いた話などは実際本当かどうか分からない。それで信じないのだ。


 【百聞は一見に如かず】という言葉があるが、風間はまさしくその言葉の通りの男だった。


「人間とは自然を利用して生きている。その恩を忘れると、自然とて不満は出るものだろう。日の光に、天から降る雨粒に、大地に広がる土や草木……それらを食した生き物や広大な海に群れる魚……全てに感謝しながら生きていかねばならん。しかし、それを当前だと思い、己たちがそれらを造り出していると思っている」


 情けない――


 風間が溜め息を吐いた。


「そうでしょうか? 人間とは弱いかもしれません。驕る所もあるかもしれません。でも、神を恐れているからこそ、そして敬っているからこそ、日の本各地に神の場所を残しているのではありませんか? ここに来るまでの道中、神の在る場所は殆どが災害の起こる所に建てられていました。それは、神の怒りを静めたいが為に建てられたものでしょう? 人間はこの日の本を己たちで創り上げたものだとは思ってはいません。神がいたからこそ、自然があったから……いいえ、この自然の恵みがあるからこそ、己たちは生かされているのだと思っていると思います。だから、自然の怒りがある時は黙って耐え、怒りが収まると己たちが生きている事に感謝をするのです。この事をこうだと決め付けて話す訳ではありません。ただ、人間全てが千景さんの思っているような生き物ではないという事です」
「お前の人間贔屓にも呆れるが………。」


 それが真なのかもしれんな――


 風間は自分の言葉の決め付けを後悔しているようだった。そのような風間を見た千鶴がニッコリと笑う。


「千景さん、賭けをしませんか?」
「ほう、お前から賭けをしようなどとは珍しい。で、どのような事をして何を賭けるのだ?」


 千鶴が山の麓の自分たちの屋敷を指差した。


 風間が、何だ? と不思議そうな顔をした。


「あの屋敷まで競争です。どちらが早くあの門前に辿り着くか……」


 こやつは俺を舐めているのか?


 風間はフンッと鼻を鳴らし、いいだろうと答えた。しかし、目の前の自分の妻は余裕の表情をしている。


「何を賭けるのだ?」
「道中、千景さんは私との賭けに勝って【千景さん】と呼ばせて、【愛している】と百言わせましたよね? それを賭けます」
「ふん……俺がお前に負ければそれを言えと言う事だな?」
「はい、そうです」


 千鶴が再びニッコリと笑った。


 何だろう、この余裕の笑みは――


 風間にはさっぱりと訳が分からなかったが、千鶴がこのような事を言い出すのは初めてであり、何やら面白くなりそうだと思った風間は


「いいだろう、では、競争だ」


 そう言って二人は同時に山を降り始めた。


「このような山、飛んで行けばすぐに着く」


 風間は木々の枝から枝へヒュンヒュンと身軽に飛び移りながら山を降りる。下を見れば千鶴の姿がない。恐らく追い抜かしてしまったのだろう。風間はフフンと笑いながらゆっくりと飛び移りを繰り返して降りて行った。


 山を降りた風間はそのままゆったりとした動きで門前の方へと歩んで行った。すると、


「千景さあん、私の勝ちですね!」
「何? 何故お前が先に到着しているのだ?」


 追い抜かしていたと思っていた千鶴が、既に門前の前で風間に手を振って微笑んでいる。その笑顔には喜びいっぱいの気持ちまでもが伝わるくらいだ。反対に風間の方は何が何やらさっぱり皆無であった。いつもなら風間の後に息を切らしながらやって来る千鶴が、今は汗も掻かずに、そして疲れも知らずに風間家の門前でピョンピョンと跳ねているのだ。


「約束ですよ、千景さん」
「約束は約束だ、それは守ろう。しかし、何故お前が先にここに来る事ができたのだ?」


 風間のその問い掛けにフフッと千鶴が笑う。可愛さ余って憎さ百倍とはこの事を言うのだろうか。何も理由を言わずにふんわりと笑みを送ってくる千鶴に風間は不機嫌さを見せつけた。


「理由を教えましょうか?」


 悔しそうにしている風間を見ながら千鶴が意地悪く笑う。しかし何となくだが、風間には少々思い当たる事があった。


 もしや天霧か――


 毎日のように千鶴を愛おしく思う風間に、天霧は口煩く説教をしてきていた。先程の散歩の進め方と言い、都合が良すぎる。


「千鶴様を溺愛されるのは良い事ですが、程ほどになさいませ。あれでは千鶴さまが可哀想ですよ……」 


 と――。


 千鶴が相談する相手はいつも天霧であった。天霧が風間に一番近い家来であり、風間をきつく叱れる唯一の男であったからである。


「天霧さんに、山からこの屋敷への近道を教えてもらったんです。その近道は教えられないんですけど、千景さんのように身軽に飛んで行くより早く着く事ができるんですよ」


 騙されたか――


 風間は再びこの散歩を後悔するが、既に遅い。風間は千鶴の賭けに乗り、それに負けたのだ。


 【鬼は約束は守る】それを言い続けてきたのは自分だ。しかし、自分からあのような言葉をあまり口にしない風間には良い賭けだったのかもしれない。


 言わなければならないという理由ができたのだから――


 そう考えると自然と笑みが零れ落ちた。


「そうだな、俺が賭けに負けたのだからな。お前の望む通りにしてやろう」


 柔らかな笑みを浮かべた風間は千鶴の腰に手を回すと、二人仲良く屋敷の中へ入って行った。




 夜、布団の中で低く艶のある声が何度も同じ言葉を繰り返す。千鶴は言葉だけで良かったのだが、何故か身体を重ねながら囁く風間。そしてその行為と共に賭けの言葉が紡がれると、たまらなくなる千鶴。風間はそれを見ながら楽しんで事を進める為、結局は風間が賭けに勝ったような気がする千鶴であった。


 全てが終わり、風間の腕にすっぽりと入り込んだ千鶴が小さく呟く。


「自然とは怖いものです。でも、それに抗う事はできません。それに耐えてこそ私たち鬼や人間は強くなるんだと思います」
「そうかもしれんな。その災害により命を落としてしまう者も多い。仕方のない事だと思っても、それが血の繋がる者や愛する者、掛け替えのない友だとすれば辛いものがある」
「はい……災害も戦争も全て命が奪われます。それでも、生き残った者は亡くなった者たちの分まで生きようと思うのです。辛い事があるからこそ鬼も人間も強くなれるのです」
「今日のお前はこの俺に説教ばかりだな? それが理に適っているところもある。違うとは言えん」


 風間が溜め息を吐き、嫌味を言いながらも否定をせずにいる姿を見て、千鶴がフフッと柔らかい吐息のような笑い声を立てた。そして、風間の緋色の瞳を見つめてくる。


 何なのだろう?


 意味ありげな瞳の色だが、今日の千鶴の考えはさっぱりと読み取る事ができなかった。その時、千鶴の口から紡ぎ出された言葉。その言葉が風間の心中に深く突き刺さるように響いた。


「千景さん……もしも、神の怒りがこの日の本に降り掛かり、あなたと逸れてしまっても絶対に私はあなたを探し出しますから……」
「……急に何を言い出すのだ?」
「私たちがこの命を全うし、もしくはその神の怒りによってこの世を去っても、天に召されて再びこの日の本に千景さんや私ではない別の者に生まれ変わっても、私はあなたを見つけ出します……。だから、だから……」


 風間が千鶴の言葉を最後まで聞かずに強く抱き締める。


 何と強く、意思の強い女なのだ――


 そう感じずにはいられなかった。


「だから……千景さんも……」
「無論、俺もお前を探し出し、見つけてみせる」


 内容的には悲しい言葉だ。鬼は人間と違って寿命が長いとは言え、死は必ず訪れる。しかし、この言葉は【希望】の光を照らしてくれている。生まれ変わっても一人ではないのだ。必ず共に添い遂げる相手が探してくれていて、自分も探し続ける。


「死とは、次に進む道の始まりなのかもしれないな……」


 風間の言葉に千鶴がキュッと襟元を掴んできた。


 死は怖い。
 自分がどうなっていくのかも分からない未来。


 まだ生きると分かっていても必ず訪れる暗闇を想像すると恐ろしく感じるのだろう。どちらが先に死ぬのか、それも不安の一部なのだ。風間の腕の中の小さな愛妻は震えていた。


「安心するがいい。俺はお前を離しはせん。逸れる事もない……。俺とてお前がどこにいようとすぐに見つけるのだからな」


 新選組と共にいた時もそうであったろう?


 風間がニンマリと笑って千鶴を安心させる。


 風間の言葉で千鶴が安心したようだ。身体の震えがゆっくりと止まっていった。


 二人の誓いの言葉が交わされた後、風間がふと思い出したように千鶴を見つめた。


「まだ、百まで言っておらんかったな」
「えっ、そうだったんですか?」
「ふんっ、あまりの気持ち良さに数えておらんかったのか。今は九十九だ」


 その言葉を放った風間の唇が千鶴の唇を奪う。風間の頭に絡まった千鶴の両手が黄金の髪の毛を優しく撫で上げた。


「千鶴……愛している……」


 互いの唇が少し距離を置いた時、風間が囁く――。
 緋色の瞳からは優しい輝きが放っていた――。


「嬉しい……」



 二人は再び長い口付けを交わしながら、熱く蕩けるような夜の世界に溶け込んでいった――。


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