東海道-亀山宿→関宿
亀山を出た二人は大岡寺畷(たいこうじなわて)と呼ばれる松並木の続く道を歩いて行く。その途中から冷たい雨がポツポツと空から降り落ちてきていた。
「雨……」
千鶴が暗い空を見上げながら小さな呟きを漏らす。と、風間も同時に空を見上げて呟きを漏らした。
「降ってきたか……」
まだ小降りの中、二人は速度を上げながら関宿へと踏み込んで行った。
雨は次第に雪へと変わっていく上に風も強く吹き始め、全身に冷気が染みこんでくる。
「さ、寒い……」
ガタガタと震えながら歩く千鶴を見ながら嘆息を吐いた風間が自分の身体に千鶴の身体を引き寄せた。風間の大きな身体にピタリと身を寄せた千鶴の身体は強い風からも少しは逃れらる事ができて、ほんわかと温かみを感じてきた。
「あ、有難うございます……」
千鶴の素直な礼の言葉に対して、風間は優しい態度を見せながらも口元からはそれを誤魔化すかのような言葉を投げ返してきた。
「ふん、手間の掛かる女だ……」
身体を寄せ合った二人は、今夜泊まる旅籠の中へと吸い込まれるように入って行った。
冷えた身体を温める為に先に風呂に入れさせてもらった二人は、案内されていた部屋でようやくのんびりと寛げる事ができた。外は吹雪に変わり、どんどん地面や屋根に降り積もっている。
温かい夕食も腹の中に入れた二人は疲れた身体を癒す為に早々と布団の中に潜り込んでいた。
「明日は鈴鹿峠を越える事ができるでしょうか?」
「さあ……どうだろうな。この場所でこれだけの雪が降り積もっているのだ。あの峠にはここ以上の雪が積もっているはずだからな。もしかすると超す事は無理かもしれん」
風間は返事をした後すぐに千鶴の唇を塞いできた。その行為に応えるかのように千鶴の両腕が自然と風間の頭に絡められた。長い口付けでフラフラと意識が遠退いていきそうになる。
もう少し――
千鶴がそう思った瞬間に、風間は千鶴の心の中を読み取ったのか唇を離し、首元から胸元へと顔を埋めていった。温かい吐息と共に痛痒い口付けの音が響き渡り、千鶴の身体の中心が疼きの悲鳴を上げ始めた。
「あぁ……」
この先に進みたい――
千鶴が心の中で叫んだ時、風間の唇が離れて千鶴を優しく抱き締めてきた。
「寝るか……」
少し荒い息を残している千鶴の気持ちを無視するかのように目を閉じていく風間。千鶴の身体には欲の塊が弾けそうな程に膨らみを起こしていて冷めそうにもない。
「あの……千景さん……?」
千鶴が呼び掛けても返事をしない。
もう寝てしまったのだろうか?
千鶴は物足りなさを感じて悲鳴を上げている身体を宥めつけながら風間の胸の中に顔を強く押し付けるように埋めていき、ゆっくりと夢の中へと入り込んでいった。
「寝たようだな……」
自分の胸の中で規則正しい寝息を立て始めた千鶴の髪の毛を撫でながら、風間の顔に綻びが浮かび上がった。
千鶴が自分に抱かれたいという意思表示は見え見えだが、風間は一度にその行為を行うつもりはなかった。性格が悪いと言われても構いはしない。ゆっくりと事を進めていくのが風間のやり方である。
「……先が楽しみだ」
風間は意地の悪い笑みを浮かべて呟いた後、明日の朝の千鶴の顔色を先読みしながらゆっくりと意識を落としていった――。
夜中にかなりの雪が降ったようだ。朝起きて見てみると辺り一面は真っ白な雪景色であった。
関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か――
と謡われた関宿で有名な旅籠の一つ【会津屋】に泊まった二人は豪雪の為に暫らくこの宿場に留まることになった。
この【会津屋】はもとは山田屋といい仇討の孝女、小万が育った家だそうだ。
関の小万は孝女の仇討ちで知られ、鈴鹿馬子唄にもうたわれている。人の恨みをかって殺された久留米藩の剣道指南役だつた夫の敵を追って関まで来た身重の妻が、旅籠屋山田屋で出産のあと亡くなってしまい、主は女児を小万と名づけて育てあげ、亀山まで剣術修行に通わせた。十八の時、亀山に来た敵を探し当てて本懐を果たした。孝女の誉れ高く、嫁にしたいとする者が多かったそうだが、山田屋に奉公すること二十年、亡くなって福蔵寺に葬られたという。江戸時代では至高の美談らしい。
ここの女将から関宿の名物だと餡入りの志ら玉団子が運ばれて来た。何でも旅人の茶請けとして、江戸の昔から親しまれた関の銘菓らしい。新粉の餅で餡を包み、餅の上には三色の飾りが施されており、可愛らしい菓子であった。
「可愛いし、美味しい!」
千鶴はパクパクとその菓子を口に運び続けて、気付かない間に風間の分も食べてしまっていた。何か悪巧みを考えているような顔付きでそんな千鶴を見つめ続ける風間は、千鶴が全て食べ終えた後にこの時を待っていたかのように問い掛けてきた。
「千鶴……その菓子を全て食したのか?」
「えっ? あっ、千景さんの分まで食べちゃったみたいです……」
風間の分も食べてしまった事に申し訳なさそうな視線を送ってくる千鶴に、風間は残念そうな表情を浮かべた。
「それは俺も食した事がないのだが、どうしてくれよう?」
「どうしてくれようって言われても、お腹に入った物は出す事ができませんし……」
風間は、袂を指で摘みながらもじもじとしている千鶴の腰へ咄嗟に片腕をまわした。
「ならば、こうしてもらおうか」
「ん、っふ……!」
風間は千鶴を抱き寄せると口付けを始める。舌を滑り込ませて千鶴の口内の菓子の香りを全て吸い取っていくように弄り始め、それが終わると唇を離すと満足気に、
「こういう味か……」
と呟いている。
「いきなり何するんですか! 食べたかったのならここの女将に頼みに行ったのに、わざわざこんな意地悪なやり方で口付けしなくてもいいじゃありませんか!」
「ほう……では、素直に口付けさせろと言えばお前はするのだな?」
風間が千鶴の唇に再び自分のそれを近づけようとした時、千鶴の両手が狭まってくる風間の胸を押し留めた。
「そ、それは時と場合……」
「お前の時と場合は殆どが拒絶ではないか。昨夜は俺の行為を素直に受け入れていたというに、今こうして素直に口づけをしようとすると嫌がる素振りを見せる。お前は一体この俺にどうして欲しいのだ?」
「うぅっ……」
千鶴は昨夜の気持ち良さと、今の自分の唇に残る風間のそれの感触を感じ、頬を朱に染めながらも文句をつらつらと言い放つが、見事に言い負かされてしまう。
「既に味も分かった……十分だ。さて、晴れてきたようだな。この旅籠の前にある地蔵院にでも行くか」
風間は先程の口付けの香りを味わうかのように自分の唇を舌で舐め取ると、立ち上がって歩いて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
急いで羽織を片手に持った千鶴は、既に姿が消えてしまっている風間を追って部屋を飛び出して行った。
関宿の地蔵院は【関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿にとる】と俗謡に唄われた地蔵を祭る九関山寶蔵寺、というより地蔵院の名で知られている。日本最古の地蔵とされ、木像であり、奈良東大寺で知られる僧行基が天平十三年諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵を刻んで安置されたのが、始まりと伝えられている。
その地蔵院の【愛染堂】の愛染明王は「良縁」と「商売」の仏様であり、古くから女性と商人の信仰を集めてきた。厨子は太閤秀吉の寄進によるもので銀箔を押しその上から透かし彫りの模様をはめ込んだ非常に珍しいものらしい。その地蔵院の庭には【蝦夷桜】と呼ばれる八重の桜を咲かせる木が根を張って伸びていた。
えぞすぎぬ これや鈴鹿の関ならん ふりすてがたき 花のかげかな
藤原定家もこの桜を題材にして詠んでいる。
「春にはきっと綺麗な桜が咲くんでしょうね。蝦夷桜……懐かしい言葉ですね」
「この蝦夷桜はソメイヨシノよりも寿命が長く、汚らしいと言われる事が多い。その理由の一つに開花と同時に葉芽も開いてしまう為に満開状態においても美しい桜色だけの木にならない。満開を過ぎると茶の葉が花に紛れ台頭してしまい、汚く見えるからな」
「そういえば、ソメイヨシノは桜が散った後に葉芽が出てきますものね」
「しかし、花自体は濃い紅の色をしていて美しい。開花も早いしな」
「もうすぐ蝦夷の地も美しい紅色に染まるのでしょうね」
「……ああ、そうだな」
二人はその大木を見つめながら、半年前の蝦夷の地を思い起こしていた。そして旅籠に戻った二人を歓迎してくれたのは――
「千景さん、それを私にも下さい……」
「ならん。お前は先ほど俺の志ら玉を食ったではないか」
「で、でも……それって高級品なんですよね?」
「ああ、【関の戸】という和三盆だ。これが作られた当時はまだ砂糖が珍しかったからな。高級菓子として参勤交代で往復する大名の土産品として使われていた」
風間が美しい箱の中に入っていた関の戸を口の中に放り込む。
「この砂利(じゃり)とした歯ごたえが堪らんな」
千鶴の顔を見つめて意地悪そうに笑む風間の口元が上品に動く。それを見ているだけで千鶴の口内は唾液でいっぱいになってしまった。
「も、もう……! そんなに意地悪するならこうします!」
風間が望んだわけでもない。強要したわけでもない。それにこのような行動を千鶴が起こすとは考えてもみなかった。
風間の薄い唇に千鶴の弾力ある唇が重なる。突然の事、そしてこの上なく珍しい出来事に、風間の両目が大きく開いた。
二人の口元から薄桃色の舌が自然と現れる。二枚の上舌がぴたりと吸い付くように合わさった。
そしてそのまま――
二人の行為は濃厚な口づけへと変化を起こし、その場へ縺れ込みながら倒れ込んでいく。口づけ以上の行為はなかったものの、風間と千鶴は旅籠の女将が夕食を持ってくるまでの間、昨日の雪のようにそれを降らせ続けていた――。
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