東海道-関宿→坂下宿
ここ関宿の特産物として火縄があり、新所を中心として数十軒の火縄屋がある。火縄は鉄砲に用いたため江戸の頃は大名の御用があったが、道中の旅人が煙草などに使う為に購入する事も多く大いに繁盛していた。
「千景さんは煙草などは吸わないんですか?」
「お前は俺が煙草などを吸っているところを見たことがあるのか?」
「見たことはありません……」
「見たことがないのならば、吸っている訳がなかろう」
「はい、全くその通りで……」
「ふん、馬鹿な質問ばかりしおって……」
千鶴を嘲るような言い方をする風間の顔をジッと見つめていた千鶴はムッとしながら小さく短い一言を投げ付けた。
「千景さんの意地悪……」
旅籠に戻った後で酒を呑み出した風間に何故に煙草を吸わないのかと千鶴が聞いてみたところ、あのような身体に害を与えるものは好まないらしく、大酒飲みの風間の口から健康を気遣うような言葉が出た時の千鶴の驚きようは大袈裟なものになってしまった。。
「千景さん、お酒も呑みすぎると身体に悪いって知ってます?」
「楽しく呑めば身体に悪くはない。」
風間は千鶴の耳元に酒の香りをプンプン匂わした吐息を一息掛ける。それによって酔ったように顔を赤くさせる千鶴の姿を楽しそうに見つめていた。
関宿に留まって数日後、雪はまだ少し積もってはいたが、西から旅をして来た人間が鈴鹿峠を超えて来たと聞いた二人は関宿を出立する事に決めた。
この宿場に留まっていた数日間の夜も風間は一通りの行為をするだけで、最後まで千鶴を抱こうとはしなかった。ただ、風間の口付けが千鶴の胸の周りや腹の辺りにまで移動いる為に、少しずつではあるが男女の行為の手前まで進んでいるのだろうと思わせる。
二人は西追分の所まで歩いて行った。ここからは伊賀を通り、松原(現東大阪市)にいたる道は加太越(かぶとごえ)奈良道(大和街道)と呼ばれる重要な街道である。その先を歩き続けると【転び石】という大きな石が旅人の行く先を邪魔するかのように置かれている。
風間の話によると、その石は大昔は山の上にあったらしいのだが、いつしか転がり落ちて夜な夜な不気味な音を立てて人々を恐れさせたのだという。そしてここを通りかかった弘法大師が石の供養をすると石は静かになったらしいのだ。ここまで歩いて来た旅人はなぜこんな大きな石を放置しておくのかと思うだろうが、何度片付けても街道に転がり出てしまい、鈴鹿川に落ちても自力でここに戻ったという伝説もあるやっかいな石らしい。
「困った石なんですね。この石にも自我があるって事ですか?」
「人間という者は、自然にある物全てに命があるように伝説を作るからな」
説明をした後の風間は、伝説とは作り話ばかりで信用性がないと大きく鼻を鳴らす。それを聞いていた千鶴が頬をプウッと膨らませた。
「面白いじゃないですか。私はそんな伝説は好きですよ」
「伝説というものは、時には面白可笑しく、時には恐ろしく作り上げる。しかし冷静に聞くとあり得ん話ばかりだ」
「もう……何でも否定するんだから」
千鶴は転び石を見つめた後に風間の方を睨み付けていた。
少し歩くと名勝である【筆捨山】が見えてきた。この山は室町時代の絵師である狩野法眼元信が、あまりの変化に富んでいるこの山を描くことができず 筆を捨ててしまったというのが その名前の由来らしい。
風間と千鶴は対岸の筆捨集落にある茶屋で一休みをしながらその山を眺めていた。勿論、未だに色気より食い気の千鶴の横には三色団子の乗った皿が置かれている。
千鶴は三色団子の中の桜色を特に好んでおり、嬉しそうな顔をしながらその桜色の団子の一玉をゆっくりと咥えた時、いきなり横から風間が顔を近付け、千鶴の口から少し覗かせているそれを奪い取っていた。
暫くの間、何が起こったのかが理解出来ずに千鶴は固まったまま動かない。そして、ようやく我に返ると頬を真っ赤に染めて怒り出した。
「千景さん! 私の桜の団子を返して下さい!」
自分の口から奪われた団子を取り返そうと風間の口元に手を伸ばそうとする千鶴だが、その攻撃を風間は軽々と避ける。
「返してやりたいが、食ってしまった。皿の上にまだあるだろう? それを食え」
風間は千鶴の反応を楽しみながら、千鶴の傍に置かれている皿を顎でしゃくり上げながら、口の中にあった団子を噛み砕いた後にごくりと音を立てて飲み込んだ。その音を聞いた千鶴が頬を膨らませて文句を放った。
「もうっ……私が好きなのを知っていて意地悪をするんだから! それに、こんな人の多い所で恥ずかしい事をしないで下さいよ!」
千鶴はプンプンと怒りながらまだ残っている団子を口に咥えるが、やはり先程と同じく、桜色の団子になると千鶴の口から風間が奪い取っていき、結局は桜色の団子を一度も腹の中に入れる事ができなかった。
「最悪……」
桜色の団子を全て風間に食べられた為に、茶屋の主にもう一本、その団子を頼んだ千鶴だったが、それは今日の旅人たちにかなりの人気だったらしく、既に売り切れていた。
悲しさと悔しさを交錯させた千鶴を、風間は喉音を小さく鳴らして笑いながら腰を下ろしていた場所から立ち上がった。
「さて、休憩もした事だしな。そろそろ行くとするか」
そう言ってしょんぼりとしている千鶴の腕を掴んで立たせると、一休みした茶屋から坂下宿へと歩んで行った。
この坂下宿は、鈴鹿峠を控える場所に位置している為に旅人たちで賑わっていた。その宿場の中の【金蔵院】の前に二人はやって来た。仁寿年間創建で、鈴鹿山護国寺とも呼ばれた古刹である。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息した。参勤交代の大名は山門前で駕籠から降りたという。今では廃寺となり、荒れ果てた建物が見えるだけだった。
「徳川の時代の繁栄した建物もどんどん寂れていきますね。江戸の時代が終わりを告げたとまざまざと見せ付けられているようです。時代の変化が目まぐるしく変わっていってしまって、少し寂しいものがありますね」
後期とは言えど、江戸という時代の中を生きた千鶴が小さな溜め息を吐き出しながらその古刹を見つめる。しかし、千鶴と同じ時代を歩んできたはずの風間は、江戸の名残が風化しても何も感じてはいないようで、
「江戸の時代であろうと新しい明治の時代であろうと、我ら鬼には関係ない。鬼には鬼の歴史ある時代がある。人間の歴史など興味はない」
と、素っ気ない言葉を外に吐き出している。それを聞いていた千鶴は、風間の顔をじっとりと睨みつけながら、
「……にしては人間の歴史をよくご存知ですよね?」
嫌味を投げ付けてきた千鶴を睨み返した風間は、
「前にも言ったはずだ。俺は鬼の頭領であり、上に立つ者は国のあらゆる事柄に対処できるようにせねばならんのだ。人間の歴史に興味があったのではなく、これは頭領として身の常識事だ」
何度も同じ事を言わせるな――
最後にそう呟くと、袂に腕を引き込ませて歩きながらふんっと鼻を鳴らしていた。
その先の大名行列を横切った子どもの身代わりになったという、今も地元の信仰が篤い【身代地蔵】でも、風間と千鶴は伝説に対する考え方の違いで言い合いをしていた。そして二人は互いに納得し合わないまま、【岩屋観音の清滝】と【観音の小堂】まで歩いて行った。
かなり高い位置の巨岩に穿たれた岩窟に万治年間に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の石仏が安置された。堂の隣のこの清滝と合わせて、【清滝観音】として知られている。
千鶴は上を見上げながら両手を合わせて、これから先の旅の無事を願いながら瞳を閉じていると、
「いつまで手を合わせているのだ。急がなければ峠を越えられんぞ」
風間はそう言い放つと袂から片腕を出し、千鶴の腰にその腕を回すと杉林の中で川のせせらぎの音が響く山道を歩いて行ったのであった。
二人は鈴鹿峠の途中の片山神社の前を通った。
この神社は由来が古代に遡る延喜式内社で、鎌倉時代にはここに鎮座していたという。斎王群行の際に皇女が休泊した【鈴鹿頓宮】ともいう。江戸時代には鈴鹿権現と呼ばれ信仰を集めている。
「このような寂しい場所に皇女が休泊したんですか?」
昼間でもその場所は閑静すぎて不気味だ。千鶴が全身を震わせながら風間に問うと、
「神社や寺という場所は穢れを祓う神聖な場所でもあるからな。休泊するには持って来いの所だ。今もそうなのだが、昔は物の怪に取り付かれるのが最も恐れられていた時代でもあったからな」
風間は説明をしながら片山神社を過ぎて石畳の坂道を歩いて行くが、足元は滑りやすく、千鶴は嫌がる風間の後ろの帯のところを必死に掴んでいた。
「千鶴、帯が解けるかもしれんから強く掴むな!」
「だって、足がツルツルと滑るんですもの!」
「全く、世話の焼ける女だ……。帯を解いてみろ、後で仕置きをしてやるからな!」
何とか風間の帯も解く事もなく最後の急坂を上りつめると、いきなり視界が開ける。その開けた場所は一面が茶畑で、まだ雪が残るその景色の中を二人は歩いて行った。
「前にも茶畑の場所を歩きましたけど、早く新茶の季節になって欲しいです。あの香りは何とも言えないくらいいいものですものね」
「新茶の季節には旨い茶を淹れる約束だからな」
「淹れますけど、約束というより、あれは命令でしたよね? 新選組の男たちに淹れた茶よりももっと旨いそれを淹れろとか何とか言ってましたけど、あれって約束だったんですか?」
千鶴の言葉に暫く二人の間に沈黙が流れる。この道中、色々な事がありすぎて風間の過去の記憶もごちゃごちゃになっているようだ。
「……よく覚えてはいないな」
風間は曖昧な言葉を放ちながら灯篭が両側にずらっと並んでいる灯篭坂を千鶴の腰に腕を回したまま歩く。この辺りは【鈴鹿流薙刀発祥の地】で有名であり、茶の話からそれの話題に風間は逸らしていた。そして、風間と千鶴は過去の記憶が不確かなまま、峠に広がる茶畑の中を歩き続けたのであった。
この鈴鹿峠は箱根峠に並ぶ程の難所であり、八町二十七曲と言われる程、急な曲がり道の連続する険しい峠である。松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋などの峠の茶屋で賑わっていて、二人はその中の一軒の茶屋で休憩をした後に峠道を歩いて行った。
峠の途中に【鏡岩】と呼ばれるツルツルに磨かれたような石がある。
鈴鹿峠の神体の磐座(いわくら)と言われているが、山賊の【鬼の姿見】の話の方が面白いと風間は千鶴に言う。古代から中世には山賊がこの辺りを横行していたのだそうだが、その山賊が鏡岩に映った旅人を襲ったという話であるらしかった。
それはこの甲賀の昔話で、山賊を鬼に例えて書かれているものであった。
昔、鈴鹿の山の中に鬼とその娘の鬼女立鳥帽子姫が住んでおり、その近くに大きな岩があった。二人は、その岩を朝晩毎日岩を磨き、岩に映る旅人や村人から金や物を取り上げては苦しめ、皆に【鏡岩の鬼】と恐れられていた。その話を聞いた武将の坂上田村麻呂は、強くて勇気のある男で、鈴鹿の峠の鏡岩の辺りまで行くと、鏡岩に映った彼を見た親子の鬼は何千もの鬼に変身して襲い掛かって来たが、彼は少しも驚きもせずその場に座り必死に祈ると、突然千手観音が現れ、光りを出しながら千の手の一つ一つに弓を持ち、鬼を目掛けて一度に矢を射つと何千もの鬼に全部の矢を当て鬼を全滅させた。鬼の親子は勝てないと諦め、今までやってきた悪い事を反省し、二度としないから命だけは助けて欲しいと願い出た後、この峠の守り神となって、旅人や村人を守ったと言われている。喜んだ村人たちは、坂上田村麻呂を神として拝むようになったらしい。
「この前も言いましたけど、何故鬼はいつも悪者みたいに扱われるんでしょうね? 私たちを見たら鬼だって人間と同じで普通だって分かるんでしょうけど……」
「前に鬼が不当に扱われているような事を言ったお前は厄除け団子を食わなかったからな。昔から信じられてきた鬼の姿は恐ろしいものとしか伝わっておらん。そのような昔からの人間の潜在意識というものも急には変わらんものだ」
鬼に対する人間の考え方に不満を持つ千鶴を宥めながらも、千鶴の中に【鬼】として生きる意志が見られる事に満足している風間は蟹坂を下って行った。
この蟹坂の名の由来は、平安時代蟹坂に大きな蟹が出没し旅人を苦しめていたが、京の僧恵心僧都が蟹討伐にやってきて、【往生要集】を唱えると、蟹の甲羅はバラバラに砕け散ったという事から名付けられたのだそうだ。僧都は、村人に蟹の供養をする為の石塔を建てるようにと願い、また、蟹の甲羅を模した飴を作り厄除けにするようにと言い残したという。
先程の【鬼の姿見】の話で気分を害していた千鶴ではあったが、風間に買ってもらった蟹坂の飴を舐めながら徐々に機嫌を良くしていき、蟹坂の集落を下って行った。
「全く単純な女だな、お前は……」
たった飴ごときで機嫌を良くする千鶴を見ていた風間は呆れ顔。
「この飴は本当に美味しいですから千景さんも食べて下さいな。はいっどうぞ!」
千鶴はその飴を風間の口の中に無理矢理放り込むと、ふんわりと微笑んでいる。そして飴を口の中に放り込まれた風間は、片頬をぷっくりと膨らませながら、
「……不味くはないな」
と呟く。
「そうでしょう、もう一ついります?」
「いや、いらん。一つで十分だ」
「じゃあ、残りは全部、私が食べちゃっていいんですね」
千鶴が飴の入った袋の開け口を覗き込みながら口元を緩ませる。
時折見せる千鶴の艶のある笑みや可愛げのある仕草に理性を失われそうになる風間は、それを押さえ込みながら先に続く道を千鶴と共に歩いて行った。
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