東海道-坂下宿→土山宿
難所と言われていた鈴鹿峠は箱根峠に比べればあまりにも楽だった為に、千鶴が風間にこの峠のどこが難所なのかを聞いてみた。すると、風間曰く、
「この鈴鹿峠が難所だと言われているのは、山賊の出没が頻繁だからだ」
らしい。
伊勢神宮に赴く皇女たちの行列さえも山賊に襲われて身ぐるみ剥がされたという話も残っている為、旅人たちの間ではその恐ろしさから【難所】だと考えたに違いない。それにこの鈴鹿峠。この場所を超える町人でも脇差を差すのを許されたのだそうだ。千鶴も風間の腰に視線を落とすと、そこにはしっかりと刀が差しこまれていた。
「まあ、この俺に立ち向かおうとする山賊などいる訳がないがな……」
風間がニタリと笑いながら周りを見回す。すると、誰かがいたのだろうか? 山道の脇の草むらが微かに揺れたような感じを千鶴は覚えたが、二人はその恐怖の者たちに出くわす事もなく、鈴鹿峠を下る事ができたのであった。
暫く歩き続けた二人は蟹坂古戦場跡に辿り着いた。
ここは、甲賀への侵攻を計る伊勢の北畠具教とそれを阻まんとする山中城主の山中秀国の戦いがあった場所である。その場所を通った風間と千鶴は土山宿へと進んで行った。
「この土山宿は忍者の里とも言われている」
風間のその言葉に千鶴は自分の胸の前で両掌を弾かせるように叩いた。
「忍者! 伊賀の忍者ですね!」
千鶴が答えた後に、風間が渋い表情を作って見下ろしてきた。
「阿呆……甲賀だ……」
少しは知識があるところを見せつけようとした千鶴ではあったが、その企みは見事に砕け散ってしまっていた――。
土山宿は鈴鹿馬子唄の
坂は照る照る鈴鹿は曇るあいのつちやま あめが降る
と唄われたところである。雪はまだ残ってはいるものの少し暖かみのある陽射しが先程まで照りつけていたが、それは闇が近づくにつれて次第に西の山へと傾きつつあった。
「今日はこの土山宿で足止めだな」
「かなりの道のりを歩きましたね」
風間と千鶴は、泊まる予定の旅籠【井筒屋】へと向かっていたが、何を思ったのか風間が少し寄り道をすると言ってある店に入って行く。その店の看板には【三日月屋】という文字が書かれていた。
「三日月屋……?」
一体何の店だろうかと、千鶴は訳の分からないまま風間の後からその店の中に吸い込まれるように入って行った。
千鶴が店の中に入ると、そこら中に綺麗な櫛が陳列されている。それらはどれも品があって迷ってしまいそうなほどであった。
「櫛の店だったんですか」
「お六櫛商【三日月屋】だ。この土山は【お六櫛】が名品だからな」
このお六櫛は上島鬼貫の句でも詠われている。
吹け波(ば)ふけ 櫛を買ひたり 秋乃風
この句の櫛は【お六櫛】の事である。その昔、伊勢参りを終えた木曽からの旅人が土山宿で急な腹痛に襲われた。通りかかった村人に助けられ何か礼がしたいと言うが、村人の夫婦は何も求めず旅人の髪をやさしく梳(す)いてくれた。櫛職人の旅人はお六櫛の作り方を教えたという。多い時で十数軒の櫛を売る店が並んでいたというが、今では数件にまで減ってしまっている。ここで旅人を看病したのも【お六さん】という名だったという出来すぎた話もあるらしい。しかし、何故に風間が櫛の店などに入ったのか? 千鶴が不思議に思いながらも、一つ一つ櫛の模様を見ながら時折こちらに視線を向ける風間を黙って見つめていた。
「これにするか」
ようやく決まったようだ。金を払い、品を受け取った風間が千鶴の方に歩み寄って来ると、
「……やる」
「え……?」
風間の短い言葉と共に櫛の入った包みをいきなり手の内に渡された千鶴は、唖然としてしまった。
「何をボーッと突っ立っている。行くぞ……」
その場に立ったまま動かない千鶴に振り向きもせずに声を掛ける風間。
「あっ、は、はい……」
ぎこちない雰囲気を持った二人は【三日月屋】の傍にある来見(くるみ)橋を渡って土山宿の中心部へ歩みを進めて行った。
土山は茶の名産地であり、味・色・香りのすべてが一級品として評価されていて有名である。そして茶葉を売っている店も数多く並んでおり、千鶴は一軒の店を指差しながら風間に問いかけてきた。
「千景さん、茶葉を買って良いですか?」
その時になって初めて千鶴の方に振り向いた風間は目を細めた。
千鶴を最後まで抱きたいと思う自分を押さえつけ続けているせいか、目の前に佇む千鶴があまりにも美しく、輝いて見えたのだ。しかし、できるだけ平静さを表に出して普通に言葉を返す。
「別に構わんが、買ってどうするのだ?」
「旅籠に着いたら美味しいお茶を淹れますから一緒に飲みましょう。櫛のお礼です」
「櫛の礼か……悪くはないな」
風間は自分を惑わすような笑みを溢している千鶴の顔から視線を外しながらも、千鶴の腰に腕を回すと茶葉を売っている店の中に入って行った。
茶葉の中でも最高級だというものを購入した後に旅籠の【井筒屋】に到着した二人。先程入った店で買った茶葉で茶を淹れる千鶴の姿を風間は食い入るように見つめている。
「何ですか、私の顔に何か付いてます?」
良い香りのする茶をポコポコと湯呑みに淹れる前から風間の視線を常に感じていて、戸惑いの表情を浮かび上がらせる千鶴に放ったのか、それとも独り言なのかと思われるような小さな声音で風間は呟いた。
「……良いものだな」
「えっ、何がですか?」
茶を淹れた湯呑を風間の前に置いた千鶴が不思議そうに首を傾げた。その仕草もまた男心をそそると感じながらも、風間は自分の中で暴走しようとする本能を抑え込んだ。
「いや、茶を淹れる音が良いものだと思っただけだ」
そう答えた風間の目の前で、千鶴は自分の手の中にある湯呑口を鼻の下に近寄せて茶の香りを嗅ぐ仕草を見せる。
「そうですね。お茶の淹れる音と香りは安らぎますからね」
フフッと小さく柔らかい笑みを漏らす千鶴の顔から視線を外す事ができないでいる風間は、自分の理性がどこまで保てるのかと不安になりつつあった。
千鶴が風間の名前を下で呼ぶようになってから、何故か千鶴の全身から醸し出される艶が風間の緋色の瞳の中に一段と鮮やかに映し出される。徐々に自分好みの心と身体にしていこうと思う風間だが、その思いとは反対に、風間の中で千鶴の好む男になろうとしている自分がいた。しかし、そのような腑抜けになってしまっては頭領として失格である。自分の本当の姿を見せずに冷静沈着に物事を治めていく。風間にとってはお手の物だったはずだ。長年風間が築き上げて来た姿形を一瞬にして崩す千鶴に、今まで感情に揺り動かされる事のなかった風間が、この目の前にいる千鶴だけには簡単に感情を右往左往に動かされてしまいそうになる。
「全く、鬼の頭領である俺がこのようになるとは……」
「千景さん、何か言いました? それに熱いうちに飲んじゃって下さいな」
風間は目の前にある香り良い湯気が立ち上る湯呑みを見つめながら尋ねたり急いたりしてくる千鶴を見ながら苦笑してしまう。
自分が男たちを魅了させる程の美しさを持ちながらも、それに全く気付きもしない千鶴の鈍感さには呆れ果てる。
「いや、茶が美味そうだと言っただけだ」
そのような言い訳をしながら千鶴の淹れた茶を啜った風間は、
心がこもった茶だな――
と、言葉には出さずとも心の中で呟いた。
西に辿り着いた後には、風間にとって今まで味わった事のない人生が待っているだろう。その人生の中には、先程目の前で千鶴が茶を淹れている光景も常に見られるのだ。そんな穏やかで安らぎある生活をしている自分を脳裏に浮かび上がらせながら想像をしてみる。
「千景さん……?」
いつの間にか自分の世界に入ってしまっていたようだ。千鶴が自分の顔を覗き込んでいるのに気付きもしなかった風間の顔は苦虫を潰したような表情を作り出して両手を千鶴の方に伸ばす。
「千鶴、こちらへ来い……」
不思議そうな表情を浮かばせながら自分のすぐ前に座ろうとした千鶴を抱き寄せた風間。
今宵はどこまで事を進ませようか――
胡座の上に向かい合わせに座らせた千鶴の襟元を少しずらした風間は、消えかけそうな微かな理性を保ちながら、安心感を生じさせる温かみのある胸元へ顔を埋めていった――。
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