似た者同士に感謝の意を込めて


「関羽は何処へ行った?」
  軍議を終えた曹操が関羽の部屋に行くと、部屋は蛻の殻で、暫くの間呆然と立ち尽くしていたが、曹操の傍を軽くお辞儀をして通り過ぎようとした女官に関羽の居場所を尋ねる。と、女官は首を傾げて、
「いえ…… 関羽さまがどちらへ行かれたのか存知兼ねます」
 そう言って、再び軽く頭を下げると曹操の傍から離れて行く。
 互いに愛し合っていると知ってから、曹操の関羽への束縛はかなり強い。特に三年もの間、関羽は曹操の前から姿を消しており、民に今までの戦のことについての説得を全て終えた曹操は関羽の居場所を突き止めることができ、ようやく傍に置くことができた。
 祝言を挙げてから二人は長い休暇を取り、ようやく政務に姿を現した曹操ではあったが、その間に関羽が度々部屋から抜け出すことはあった。が、曹操が戻る頃合いには部屋に戻って大人しくしていた為、そのことについては執拗に質問をしなかった。が、今日はあるはずの姿もなく、曹操の心の中に焦燥感が起こる。
 関羽は一度、曹操を狙う輩に襲われて連れ去られたことがある。
 曹操の弱点は関羽だ。関羽を敵方に奪われてしまっては、曹操には成すべきことがない。関羽の高鳴る鼓動の箇所に刃を突きつけられ、死ねと命令をされれば従うかもしれない。しかし、曹操がそこで命を落としたとしても、関羽の命が保証されるということではない。曹操がその場に倒れた瞬間に、関羽も突きつけられた刃で鼓動を止められてしまうだろう。
「夏候惇!」
 関羽の部屋の前に出た曹操が叫ぶと、夏候惇がすぐに姿を現す。
「曹操さま、どうされたのですか?」
「関羽がいない。すぐに探しに行くぞ。大軍は必要ないが、兵を出せ」
 曹操のその言葉に、夏候惇が呆れた言葉を零す。
「また、あの女は部屋を抜け出したのですか?」
 十三支蔑視はかなり薄らいだものの、関羽のことをまだ【あの女】扱いであり、曹操の妻となったことも実感が湧いていない様子。しかし、武人としての関羽は認めているようで、今までのように関羽に対して冷えた態度は殆どなく、手合わせなどもよくしている姿を最近は見かけるようになった。その理由を夏候惇は、
「あの女はいつもどこかへ姿を消すので、見張りがてらにやっているだけです」
 と、曹操には説明をしているのだが、【あの女】と言いながらも、夏候惇の表情は好ましいものになっていた。それが曹操にとっては少々苛立つのではあるが、家臣が自分の妻と仲違いばかりされても困ると考え、じっと耐えている。
「一体、何処へ行ったのだ?」
 曹操が足早に屋敷を出て、厩(うまや)へと足を運ぶ。すると、厩の中の関羽が主に乗っている白馬がいないことに気づく。
「遠乗りに出かけるからと言って、私たちが止めるのも聞かずに馬に跨って行かれてしまって……」
 馬の世話係が曹操にそう伝えてくる。これでは世話係に罰を与えるわけにはいかない。恐らく、いや、確実に関羽は世話係を言いくるめて自分の白馬を出させたはずだ。
 関羽ならやりかねない――
 猫族という特殊な種族でありながら、美貌と均整の取れた姿形をしている為、人間の男たちも、十三支の女だと思いながらも、関羽に強請られると弱いらしい。何せ、曹操軍の軍師であるあの郭嘉でさえも、関羽の魅力に吸い寄せられてしまって、骨抜きにされてしまったくらいだからだ。
「お前にも苦労を掛けるな……」
曹操は世話係にそう伝えると、馬具を装着させた愛馬に跨る。そして自軍を引き連れた夏候惇を伴い、目的のないまま、関羽探しに向かって行った――。


「ああ…… やっちゃった……」
 許都から少し離れた山の中で、関羽は一人空を見上げる。その空は関羽のいる場所からかなり遠くに感じた。
 今日は夏候惇が軍議に出席をしていた為、暇を弄ばしていた夏侯淵と共に手合わせを行った。夏侯淵もかなり強くなっており、急所を突くのにかなり手間取っていた関羽は、最近自分があまり動いていないことに気づいたのである。
 かなり体力が落ちている――
 曹操の妻となってからの関羽は戦にも参加させられず、部屋にいることが多くなった。たまに戦に付き添うことはあるが、決して前線へは参加させてくれない。
 人を殺したくはないという気持ちは大きかったが、曹操が治めている都を乱す者たちは粛清しなければならず、それにはできるだけ協力をしたいと考えていた。
 呉との戦もすることがなくなり、今では都を荒らす山賊などの粛清(しゅくせい)が殆どであり、そのような雑魚は夏候惇と夏侯淵だけで充分だと曹操は言って、偃月刀を持たせてはくれない。いや、持たせてくれないだけではなく、あの刀も関羽の目の前から姿を消し、曹操が保持している。そして、夏候惇や夏侯淵の手合わせの時だけ、彼らがそれを持って来てくれて、手合わせが終われば再び、彼らの手によって刀は持ち去られてしまうのだ。
 これでは駄目だと思い、静かに厩(うまや)へと向かった関羽は、世話係に強請(ねだ)って、強請って、強請って―― ようやく白馬に武具を装着させて城から脱出することに成功をした。
「今頃、曹操は怒っているわよね……」
 馬を走らせている途中で、関羽は馬の操縦(そうじゅう)を誤った。小さな獣が関羽たちの前に俊敏な動きで飛び出して来たのである。
「危ない!」
 そう叫んだ時、馬が驚き嘶(いなな)いた。そして前足を宙に浮かせて跨っている関羽を振り落としたのである。
 振り落とされた場所も悪かった。そこは片方が崩れかけの崖であったのだ。そこに落とされた関羽は全身を打ち、足を捻ってしまっていた。
 落とされた場所は都合よく背高の草が生い茂っていて、それの弾力によって命を落とすことはなかったのだが、痛いことには間違いない。全身を打ち、足を捻ってしまった関羽は、暫くの間意識を失っていた。そして気づいた時にも身体を動かすことが困難だと確信をしたのである。
「闇が迫って来る……」
 落ちた場所から動けずに辺りを見回す。雨は降りそうにないが、この辺りは夜になると強風が吹き、かなり気温が下がるのだ。少しの遠乗りをと考えていた関羽は、着るものにあまり意識をしなかった為、かなりの薄着であった。
「少しずつだけど、寒くなってきた……」
 口笛のような音を立てた風が耳元を撫でてくる。このままこの場所に留まっていれば、凍えてしまう。しかし、足を捻ってしまっている為に動くことができない関羽は、この遠乗りに少しだけ後悔をしていた。いや、遠乗りが悪いわけではない。ただ、一人で出掛けるのではなかったと考えた。
 関羽はもう、そこら辺にいる普通の女ではない。
 この大陸の大部分を支配する曹操の妻なのだ――。
 関羽の身勝手な行動一つで、周りの者たちに迷惑を掛ける。それを分かっていながら、自分が思うがままに行動をしてしまったことに後悔をしていた。
 曹操のことだ。きっと、兵たちを集めて関羽を探しているに違いない。しかし、関羽の口からは今までの鬱憤(うっぷん)を晴らすような言葉ばかりが衝いて出る。
「大体、曹操が悪いのよ! 私を囲うようなことばかりするから! 私が同じ場所でじっとしていられない性質だってことくらい分かっているはずなのに!」
 そう言った後すぐに、関羽の身体が一震い、二震いを起こす。とうとう恐れていた魔の時間がやってきたのだ。
 強風が吹き、関羽の身体から否応なしに熱を奪っていく。
「さ、寒い……」
 唇を震わせ、歯がカタカタと振動を起こし始めた時、関羽は少し先の方に視線を投じた。
 高く生い茂った草むらの狭間から光る、鋭さを持った二つの眼がこちらを見つめている。
 獰猛で名高い虎だと関羽は確信した。
 獰猛な虎を、確か劉備はいとも簡単に手懐(てなず)けて共に寝ていた時のことを思い出した関羽は、今この場所にあの劉備がいないことを心の中で嘆いた。
 虎が関羽のすぐ目の前までゆっくりと歩んで来る。
「もう、駄目かも…… 凍え死ぬ前に食べられちゃうんだわ……」
 と呟いた時には、虎は既に関羽の目の前にいた。その姿を見た関羽の目が大きく見開く。
「あなた……」
 関羽の脳裏に愛しい男の姿が浮かび上がる。姿形は異なるけれども、その虎と曹操の姿が重なった――。


「関羽はいたか!?」
「いえ、曹操さま…… 見つかりません」
 手分けをして探しても関羽の姿はなく、曹操の心の中の焦りが激しくなる。
 城内を出てからかなりの時間が過ぎたが、この地にとって一番恐ろしいと思う夜がやってきたのだ。
 強風が曹操の髪の毛と馬の鬣(たてがみ)を激しく揺らす。その風は砂塵(さじん)も混じっており、顔に細かな痛みが生じる。それでも曹操はまだ探していない場所に馬を走らせ続けた。
「これだけ探して見つからないとは……」
 夏候惇の表情にも不安の色が灯る。
 曹操にとって関羽がどれ程大切な存在かを、常に傍にいる夏候惇は理解できていた。もしも、関羽が再び曹操の前から消えてしまったとすれば――
 関羽を見つけるまでの三年間の曹操の姿を見続けていた夏候惇にとって、あの時のような暮らしを、主である曹操には二度と味合わせたくはないと考えていた。その為には、十三支の女ではあるが関羽の存在が必要。
「もう一度、手分けをして探しましょう」
 と伝えた時、曹操が暗闇の中の先に目を凝らした。
「蹄の音だ……」
 曹操の呟きを聞いた夏候惇も暗闇の先に視線を投じる。と、確かに蹄の音が微かに聞こえ、それは次第に大きな音となり、ついには二人の視界にぼんやりと白い物体が飛び込んできた。
「あの白馬は……」
 関羽がいつも乗っている白馬がこちらへ向かって駆けてくる。何かに慄いているのか、走りを止める様子がなく、曹操は自馬から咄嗟に飛び降りると、駆けて来る白馬の目の間に両手を広げて立ち塞がった。
「曹操さまっ!」
 これでは曹操が蹴り倒されてしまうと思った夏候惇も自馬から即座に飛び降りたが、その時にはもう、白馬は曹操のすぐ目の前。しかし何を思ったか、白馬は曹操の目の前で前足を大きく振り上げて動きを止める。
「よく戻って来た……」
 鼻息の荒い白馬の顔を両手で覆って優しく撫でると、白馬は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
 曹操は意外にも勝手なことをする男であり、その行動に夏候惇はいつも振り回されていた。そして今の出来事に対しても内心ひやりとしたものがあったが、今の今まで気を昂ぶらせていた馬が、曹操の行動一つで急に大人しくなった事に対して驚きを隠せないと同時に、
 やはり我が主君、曹操さまには俺たちには持ち得ない才があるのだ――
 と、何故か感動までしていた時、曹操が白馬の口元に顔を近付けて何かをしているのに気付き、
「曹操さま、一体何をされているのですか?」
 と、問いかけてみると、曹操は白馬の手綱を手に取った瞬間に、その馬上へと飛び乗った。
「関羽の居場所が分かった。すぐに向かう」
「えっ、ええっ!? 曹操さま! お待ち下さい!」
 夏候惇が馬上に跨った時には曹操の姿は既に暗闇の中に掻き消え、一体どちらの方向に向かったのかも分からなくなっている。
「曹操さま! 返事をして下さい!」
 兵たちに再び手分けして探すことを命じた夏候惇は、暗闇に向かって叫びを上げた――。



「ここ辺りか……」
 曹操を連れて来た白馬の動きが止まったのは、崖が続く細い道であった。
 片方は高い斜面の続く壁がまるで押し寄せてくるかのようにそそり立っている。その反対側は、下を覗いてみると底辺地がどこにあるのかも分からないほどに先は闇色であった。
「関羽はこの下にいるのだな?」
 曹操が白馬に尋ねると、白馬は大きな鼻息を鳴らして前足で地を蹴り上げる。敵に囲まれてしまえば逃げ場のないこの細い道の上空からは、広い原を吹くものよりも更に強さを増している風が滞りなく襲い掛かってくる。
 明るい時にも幾度か通ったことのあるこの場所の地形をよく知り得ている曹操は、迷うことなく崖の下に飛び降りる。このような造作は、関羽と同じく猫族と人間の血が混ざった曹操にとっては容易いものであった。
 飛び降りた瞬間に上体を低くさせて暗闇の中に目を凝らす。このような場所は夜になると獰猛な獣が多発するという情報も持ち得ていたからであった。
「獣の匂いがするな…… それと、この香りは…… 関羽か」
 曹操の鼻腔に獰猛な獣の匂いに混じって関羽がいつも放っている香りが流れてくる。
 もしかして――
 この辺りで獰猛な獣と言えば虎。その虎に襲われたのかと思いながらも、曹操はその香りのする方へじりじりと歩み寄って行く。と、少し先の暗闇の中に黄金の二つの光が灯った。
 ゆっくりと――
 腰に差している剣の柄に手を掛けながら、その二つの光の方に向かって近寄って行く。
 まだ血の匂いはしない――
 ということは、関羽はまだ襲われてはいないのだ――
 そう思いながら、更に二つの光との距離を狭めていった曹操は、ようやく見つけた関羽の傍に寄り添うようにして寝そべっている虎の姿に暫し、目を留めた。
「お、お前は……」
 虎の体毛に包まれて気持ち良さそうに眠っている関羽の寝息を聞いて、虎に襲われてはいないと安心した途端、曹操は関羽に寄り添っている虎の姿に目を奪われたのだ。
「お前は、耳がないのか……?」
 かなり以前に仲間か、他の獰猛な獣か、それとも人間かにやられたのだろう。その虎の両耳は根元から綺麗になくなっている。しかし耳介は損傷していないらしく、曹操の声にすぐさま反応を起こしていた。いや、曹操が崖を飛び降りた時から聞こえていたのだろう。そうでなくては、暗闇の中で曹操の方に二つの瞳を向けるわけがないから。
「お前が関羽を助けてくれたのか……?」
 そう尋ねた曹操だが、いきなり表情を曇った色に染め上げる。
 曹操がそう尋ねた瞬間、虎は視線を曹操の方に向けたまま、関羽の頬をザラリとした大きな舌で舐め上げたのだから。
 それも、何度も何度も――
 曹操に見せつけるように、だ。
「おい、虎……」
 曹操が肩を張りながら、関羽の傍に寄り添う虎に向かって横柄に口を開く。
「関羽はこの曹操のものだ。よって、お前にやるわけにはいかぬ。即刻、その場から立ち去れ」
 静かではあるがどすの利いた声音が闇夜に響くが、あらゆる苦難を乗り越えてきたのだろう、虎には曹操のその脅しも全く効果がないようだ。
 曹操にとって関羽の存在は弱点。それは人間だけとは限らないのだと今思う。
 獣にも曹操にとって何が弱点なのかを知られている。しかし、目の前の虎は関羽には何も害をなさないようだ。
 関羽のことを気に入っていると言ってもいい。考えを辿った結果が曹操の苛立ちと怒りを濃くさせる。
 虎がふいに曹操の方へと強い視線を飛ばす。それをじっと見据えていた曹操の表情に苛立ちの色が更に濃く浮かび上がる。
「取引、だと……?」
 やはり自分の中にも獣と呼ばれる血が混じっているせいか、目の前の虎の心の声が伝わってくる。そして、虎と睨み合っていた曹操が口元を歪めながら呟いた。
「…… 言ってくれる」
 虎は取引をしないと関羽を返さないと心の言葉で伝えてくる。その内容は、曹操にとって不本意なものではあるが仕方がない。いや、仕方がないと言うよりも、何故かそれを渋々ではあるが了承したくなってしまったのだ。
 耳を失くした虎。その姿はまさに今の自分のよう――
「分かった…… お前の願いを聞き入れてやろう……」
 仕方がないと嘆息を放ちながら返事をした曹操。すると、虎は自分に寄り添って眠っている関羽の傍から立ち上がり、曹操の横を通り過ぎた。その時に、虎の尾が曹操の腰辺りを軽く払っていく。
 まるで、感謝の意を述べているような――
 一瞬はそう思った曹操ではあったが、それはすぐに間違いだと悟る。
「あの虎…… 私の弱みに付け込むとは……」
 勝利を得たような表情を最後に曹操に向けた虎は、そのまま暗闇の中に静かに消えていった――。


 身体が規則正しい揺れを起こしている。そう感じた関羽だが瞼を上げることができない。ただ、温もりは先ほどと同じで、とても心地好い。
 あの虎がまだ温めてくれているのかしら――?
 そう思いながら、温もりのある場所に両腕を絡ませて強く抱き締める。しかし、あの虎の持つ毛の感触がない。関羽は重い瞼を薄らと開かせて自分の目の前にあるものを確認しようとした。すると、普段見慣れた色が曖昧な光景を映す瞳の中に飛び込んでくる。
「そ、曹操……」
 ああ、曹操が助けに来てくれたのだ――
 関羽は安堵した溜め息を吐き出し、
「有難う……」
 と、感謝の意を込めた言葉を紡ぐが、曹操からは返事がない。
 これは夢なの――?
 まだ、私は崖の下にいるのかしら?
 そのようなことを考えていた時、ようやく頭の上に曹操の声音が降り落とされてきた。
「この、お転婆が…… お前が余計なことをしたせいで、不愉快な思いをしたではないか」
「え……?」
 何を怒っているのだろうと思いながら、頭上にある曹操の顔を見上げると、そこには、かなり厳しい表情を浮かべた曹操の顔があった。
「ど、どうしたの? え、えっと…… 勝手に遠乗りに行ったのは悪かったとは思っているわよ」
 そう弁解するものの、曹操はどうやらそれに対して怒りを放っているのではないらしい。
「曹操さま! 女が見つかったのですか!?」
 白馬に跨った曹操の姿を捉えた夏候惇が傍まで駆けてくる。そして関羽を睨みつけると、
「お前はどうして、曹操さまのお手を煩わせることばかりするのだ!」
 怒りの言葉を放ってきた。
「だ、だって! 外に出たかったのだもの!」
 関羽が即応戦すると、夏候惇も怒りに任せている為に、負けじと言い返してくる。
「阿呆が! お前が外に出てこうして迷惑を掛けているというのが分からんのか! この能天気な女め!」
「能天気な女って、酷いことを言うのね!」
「能天気な女に能天気と言ってどこが悪い!」
 いつもならば、ここで曹操が間に入って仲裁をしてくれるのだが、何故だか今日はそれがない。ない上に、関羽にとって意味不明な言葉を夏候惇に伝えていた。
「夏候惇、耳のない虎が城門に現れたら中に入れろ…… 分かったな」
「はっ!?」
 耳のない虎と聞いた関羽が曹操に問う。
「み、耳のない虎って、私を助けてくれたあの虎に……」
 会ったの――?
 と聞こうとしたが、それは曹操の次の言葉に掻き消されてしまう。
「向こうから取引をしてきたのだ…… お前をこの私に返す代わりにな……」
 かなり不機嫌な表情で訳の分からない言葉を放ってくる。
「良いか、夏候惇。その虎が現れたら城内に入れ、この私に来たことを伝えに来るのだ」
「はあ……」
 夏候惇も意味が分からず、気の抜けた返事をする。
 それもそのはずだ――
 まさか、曹操が虎と心で会話をしていたなど、誰が信じようか?
 気まずい雰囲気の残る場所に暫し留まるものの、曹操がようやく城に戻る号令をかけ、夏候惇をはじめとした兵士たちが城に向かって歩みを始める。
「ね、ねえ、曹操。一体、何の取引をしたのよ?」
 先ほどの曹操の言葉が気になっていた関羽が、馬上でそっと囁きに似た声音で問いかけの言葉を放つと、曹操は眉間に皺を寄せながら言葉を返してきた。
「どうやら、あの虎もお前のことが気に入ったようでな…… 私にお前を返す代わりに、己が会いたい時にはいつでも会わせろと伝えてきた」
「え、ええっ!?」
 自分がまさか虎に気に入られたとは思いもしなかった関羽。しかし、あの雰囲気をどこかでいつも感じていたと、あの虎に遭遇した時にそう思った。
 そう、姿形は全く異なるが、あの虎は曹操に似ているのだ――
「曹操はあの虎が好きじゃないの?」
 ある言葉を頭に思い浮かべた関羽が尋ねてみると、曹操は機嫌を更に悪くさせて即答をしてきた。
「ああ、好きではないな…… いや、その言葉は間違いだ。私はあの虎が嫌いだ」
 やっぱり――
 似た者同士は気が合って、仲が良くなるような言い方もあるらしいが、必ずしもそうではない。似た者同士は、相手をまるで自分のように見てしまって、どうも気が合わない時もあるらしいから、曹操とあの虎は後者の方なのだろう。しかし、関羽はあの虎が嫌いではない。何故ならば、曹操に似ていて、傍に寄り添ってくれていた時にはとても安心したから。だから、虎が自分に会いに来てくれると聞いて喜んでしまったことに、曹操は更に輪をかけて機嫌を悪くさせた。
「言っておくが、虎と共にいる時は私の監視下に置くからな」
「え? 別に曹操がいなくても大丈夫だと思うけれど…… だって、曹操は忙しいでしょ?」
 曹操の手に渡る仕事はかなり多く、虎と自分の監視などしていては、その時間が無駄ではないのかと考えた関羽が、曹操に無理をさせないような言い方をしたつもりだったのだが、それはそれで、曹操の気に入らないものになってしまう。
「仕事部屋で過ごせばいいことだ。あの虎はお前と二人きりにさせろとは言ってこなかったからな」
 しかし、虎にまで気に入られるとは――
 関羽の人を引き寄せる力は感心せざるを得ないが、まさか獣の心まで掴まえてしまうとは――
 穢れのない濡れ羽色の瞳、そして真っ直ぐな心がそうさせてしまうのか――
 ただ、虎がいつ来るのかは未定。
「虎はいつ来るの?」
 そう尋ねてきた関羽に、曹操が首を横に振る。
「さて…… 決まった日を虎は伝えてこなかったからな。私にもいつ現れるのかは分からぬ。だから、城で大人しく待っていることだ」
「ああ、そうね…… 外に出掛けちゃうと、虎が来た時に約束を破ったことになってしまうものね」
 曹操の言葉に納得をした関羽。
 この取引、もしかすると、あの虎が関羽を城内から出さないようにする為に伝えてきたのではなかろうかと、今になって曹操は思う。
 自分に似た曹操が、この小娘一人に振り回されているのを憐れんでくれたのだろうか?
 その後、虎は城門前に一度も現れもしなかった為に、あの時の心の言葉の意図は分からず仕舞い。しかし、曹操は心の中で、あの虎が自分の為に関羽を城内に閉じ込める為の口実を作ってくれたのだと確信をしていた――。



「いつまで経っても来ないじゃない!」
 ずっと城の中で虎の来訪を待ち続けていた関羽ではあったが、ひと月後、二月後になっても姿を現さない為に苛立ちを起こしている。
「虎にも来ることができない事情があるのだろう」
 曹操がそう答えると、関羽がいきなり曹操の顔を覗き込んできた。
「どうした……?」
 曹操が関羽の顔を見つめると、
「ねえ、あの時の虎との会話って嘘だったんじゃないの?」
 と、訝かし気な質問を投げかけてくる。
「私が嘘を吐いていると……?」
「そうよ! 私を城内に閉じ込める為にそのような話を作ったんじゃないの?」
 自分は嘘をいてはいない。しかし、関羽の言いたいこともよく理解できる。だから曹操は怒ることはせずに、すぐ目の前にいる関羽を自分の胸に押し込めた。
「ちょ、ちょっと! 曹操!」
 曹操の胸の中で関羽が暴れる。しかし、曹操は抱き締めている両腕の力を緩めずに、すぐ目の前にある耳に囁きを投じる。
「お前はあの虎を見てどう思ったのだ?」
「え……? どう思ったって…… ちょっと、曹操に似ているかなって思ったけれど……」
「そうであろう? と、いうことは、あの虎の考えていることも私のそれと同じだということだ」
「ええっ!? そんなこじつけみたいなこと言わないでよ!」
「いや、きっとそうであったのだ…… お前があまりにもお転婆なことばかりするから、あの虎も私のことを憐れだと思ってくれたのだろう」
 権力者の妻一人に数十人にも及ぶ、それも曹操軍の中でも襟抜きの兵士が揃っている夏候惇が率いる軍を捜索に出させるのだから――
「そ、それは……」
「兵士というものは国や民を守る為に在る者だ。それなのに、私の愛する妻、一人だけの為にその兵士たちを駆り出すのはいかがなものかと、この前の軍議の最中にも言われてな…… お前は国に対して迷惑を掛けているのだぞ? 少しは己の立場を理解し、私の妻であるという示しをつけてもらわねばならぬ」
 この言葉の一部は今、曹操が考え出した虚言。しかし、関羽には自分の立場をしっかりと把握してもらいたいのは事実。
 外に出られてしまって、敵に捕まりにでもすれば、曹操にとっては弱みを握られたもの。
 そろそろ外に出たいと関羽は思っているのかもしれない。しかし、なかなか外に出ようとしないのは、恐らく来ないであろう虎がいつ来るだろうかと思って、待ち続けているからなのかもしれない。それに対して多少の嫉妬はあるものの、関羽が外に出ないということで曹操は安心するのだ。
 あの虎には感謝せねばならぬ――
 曹操はあの時に出会った虎の姿を脳裏に思い出しながら、心の中で感謝の言葉を紡ぐのであった――。


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