変わらぬ想い:1
私の心の中に既にあなたはいる――
あなたの心に私はいるだろうか――?
孫権は関羽の額に静かな口付けを落とした――
色よい返事をもらえるまで、私は何度でもあなたに求婚をしよう――
「周瑜、何処に行くのだ?」
呉の国の君主、孫権が手に書簡らしきものを持って周瑜に歩み寄る。孫権に黙って出かけようとしていた周瑜は言葉を濁した。
「い、いや…… その、な…… 」
「何処に行く、と聞いている」
「だ、だからだな……」
大真面目な表情で問いかけてくる孫権に周瑜はたじたじ。何故ならば、周瑜は今から、猫族が暮らす新野に向かおうとしていたからであった。
久しぶりに長期間の休みが取れた周瑜は、猫族の関羽が大のお気に入り。初めて出会った頃から、赤壁の戦いが終わった後も関羽の気を引こうとしている。
呉と猫族の劉備軍が同盟を結ぶかどうか、まだ迷走をしていた時、孫権は呉の武将たちからの売り言葉を買ったのである。
まず、あの頃の呉と劉備軍には深い繋がりというものがなかった。そして、国を持たない劉備軍の居場所が不安定であり、いつ裏切られるかという恐れ、そして絶大な力を蓄えていた曹操軍と同盟を結んだ方が良いという者たちの間から、呉と劉備軍が同盟を組むに至ってある条件を出してきた。
いざという時に裏切らないという保証を、と――
呉と劉備軍がより強い関係をもつ為の条件――
例えば、双方に血縁者がいるとか――
今までの曹操軍と劉備軍の諍いの光景を目にしてきた孫権は、自身の心内では劉備軍と同盟を組んだ方が賢明だと考えていた。その時に保証と双方の血縁者という言葉を聞き、関羽の方へ視線を向けた。
「いいだろう。ならば私がその保証となる」
孫権のその言葉に周瑜が眉を顰める。そして、
「孫権、お前いったい何を……」
喜怒哀楽の感情を滅多に見せない孫権の表情を見つめながら問う中、孫権は背筋をすっと伸ばした。
「ここにいる劉備軍の関羽」
孫権に名を呼ばれ、関羽が孫権の方に顔を上げた。その表情は、今から何を言われるのだろうと不安げな色が醸し出されている。
何とかして同盟を成立させたいという願いもある中、孫権は目の前にいる関羽にも興味を持っていた。偵察の最中、周瑜がこの関羽をかなり気に入ったのか、ちょっかいばかりをかけていたものも知っている。周瑜は家族同然の男ではあるが、気に入った女に関しては、大切な家族と雖も譲ることはできない。
「私と、この者が結婚すればよい」
孫権は自分でも信じられないほどに、積極的な言葉を発していた。その言葉を聞いた周瑜が驚いている。それもそうだろう。政策などに関しては発言はするものの、こういうことに関しては自ら進んで行動をしようとはしないからだ。
「ええ!?」
関羽が大きな瞳を更に大きくさせている。
「なんだと!?」
周瑜も一瞬は口を噤んだものの、やはり気に入りの女の名前が出たものだから唖然としていた。
「孫権さま!」
親代わりのような重臣である黄蓋もまた、驚きを隠せないようであった。しかし、口から出てしまったものは既に防ぎようがない。
劉備軍の軍師を務めている諸葛亮は黙ったまま孫権を見つめていた。孫権が今放った言葉を聞いて、次の策を脳裏に描き始めているようにも思える。しかし、その隣に立っている関羽は、動揺して言葉が上手く綴ることができないのか、口をパクパクと開閉していた。
「ちょ、ちょっと待って!」
ようやく言葉が発せられるようになった関羽。しかし、続きの言葉は出されない。何故ならば、この会談の途中から口を挟んできた孫権の妹、尚香が笑みを浮かべながら、
「それは名案ですわ、お兄さま。それでこそ、この国の君主です」
と、関羽に何も言わせないかのように口を開いてきたからであった。そして、孫権の決意の言葉に、同席をしていた呉の大将たちも、関羽が猫族であるにも関わらず、ふむふむと納得の頷きを起こしている。
「確か、この関羽殿は、あの華雄、そして呂布を倒した武将でしたな。そのような娘が孫権さまの奥となれば、さぞ心強い」
「え、ちょっと……」
自分の言葉が聞き入られない上に、何故か他の武将たちまでもが孫権との結婚に同意をしている。
「ちょ、ちょっと……」
関羽が反論をしたい気持ちに駆られ、一歩前に進み出ようとした時、隣にいた諸葛亮が片手でそれを制止した。
「この機会を伸ばせば、呉との同盟はないぞ」
「諸葛亮!?」
関羽の意思など全く汲み取ってくれない、味方であるはずの諸葛亮にまで結婚をしろなどというような意味合いの言葉を投げかけられる。そして関羽の反対側隣りを陣取っていた周瑜も苦笑いを起こしながら、
「孫権の奴、相変わらず馬鹿まじめすぎて突拍子もないな。だが、確かにこのままだと同盟は難しい。ここは乗っておいた方がいいかもしれない」
と、やはり関羽の意思を汲み取るつもりもないような言い方で囁いてくる。
「そんな周瑜まで……」
周りには自分の味方が一人もいないことを知った関羽が困り顔で呟くと、
「安心しろ。形だけのものだ。この戦いが終われば、解消されるさ。というか、オレが無効にする」
周瑜が関羽の耳元で擽るような囁きを投じてきた。
「え、本当に……?」
周瑜の最後の言葉の意味を理解していないのだろう。関羽はこの場での形だけのものと聞いて多少安心したのか、先ほどまでの動揺の表情が幾分か柔らかくなっている。
周瑜の立ち位置が気に喰わない――
三人の会話はかなりの小声で、
孫権は無表情ながらにも、心の中は嫉妬の感情で溢れんばかりであった。ただ、
「…… わかりました、孫権さま。結婚のお申し出、ありがたくお受けします。不束者ですが、どうぞ、よろしくお願いいたします」
形だけのものと自分に言い聞かせるようにして、同盟の為の結婚の申し出を受け取った関羽。
形だけのもの――
孫権は今、それだけでも良かった――
これで周瑜から関羽を離すことができると考えた瞬間、孫権の中にあった苛立ちが多少、和らいだのであった――。
その時から、関羽は呉の孫権の城で暮らすこととなった。
途中から戦況はいささか危ういものとなったが、周瑜の故郷でもあった場所での戦いであったため、地理的状況、気候条件などを巧みに利用した戦いが行われ、同盟軍は見事、曹操軍を撃退することに成功したのであった。
その後、孫権と関羽の間に何があったのか、周瑜は知らない。ただ、同盟は結んだままで、関羽は新野へと、劉備たちの許へと戻って行った。その時の孫権は、少し寂しそうな表情を作り上げながらも、何も言葉を発しなかったのだ。
「俺は長期間の休みを貰ったんだ! だから、何処へ行こうがお前には関係ないだろ!」
周瑜の行く所など決まっている。勿論、関羽のいるあの新野だ。周瑜は何かと都合をつけては、関羽に会いに呉を留守にする。別に周瑜が自分の休みをどう使おうが、それは周瑜の自由だ。しかし、行く場所が孫権は気に入らなかった。
関羽と別れて以来、手紙のやり取りは頻繁に行っている。その手紙の内容は、関羽に求婚を続ける内容のものであった。それに対して関羽の返事はまだない。ただ、関羽の手紙の内容は、新野に以前から暮らしていた人間たちが戻ってきて、今は人間と猫族が共に暮らし始めたことや、曹操軍に荒らされた地が今、以前と同じような状態に戻り、平穏な毎日であることなど、新野に関する内容の言葉がびっしりと綴られていた。
別れてから既に一年が経とうとしている。その間に、妹の尚香は、関羽に会いたいと我が儘を言って、面倒臭そうな表情をした周瑜に連れられて新野に幾度か足を運んでいた。尚香のような女が気楽に旅をすることができるのも、この大陸が今、平穏になっている証拠。孫権はそれを喜びつつも、一人残された城の中で溜め息を放つ。
「俺は、まだ自由にはなれない……」
赤壁の戦いの後、孫権にはやらなければならないことが数多あった。周瑜はあの戦の後から、自分に代わる者を選んでみっちりと修練させ、今では自分がいなくても水軍の力が衰えないようにしている。しかし、孫権の代わりはいない。だから、君主がしなければならない仕事は、孫権自身が熟さなければならず、長期間の休みを取る暇さえなかった。しかし、今回はようやく自分の時間にゆとりが作られ、黄蓋に新野に行きたいと伝えたところ、快く了承をしてくれたのだ。
孫権が新野に行く決意をしたのには、今回の関羽の手紙の内容にあった。
手紙には書けないことがある――
そう書かれていたのだ。
「まさか、やっぱり結婚ができないとか言われるのではないだろうか……」
その手紙を最後まで読んだ後に、孫権は大きな溜め息を放った。しかし、断られようがそれでないであろうが関係なく、孫権は関羽のいる場所へ行かなければならない。どちらの答えを貰うにしても、会わなくてはならないから。
関羽の手紙を持ったまま、孫権は城の中を歩き回った。それは周瑜を探す為である。
数日前に、周瑜が休みを取って新野に行くという話を尚香から密かに聞いていたからである。そして、周瑜を見つけた。その時の周瑜は関羽に会える喜びからか、表情には弛みがあり、それがまた、孫権の感情を揺り動かす。
「周瑜、私も新野に行く。共に連れて行ってくれ」
「な、何でオレが新野に行くって知ってんだ!? あ、尚香だな!? 尚香がお前にちくったんだな!」
周瑜が叫ぶ中、孫権は煩いと思いながらも表情を変えずに言葉を続ける。
「私も新野に行く。いや、行かなければならないのだ。周瑜、明朝出立するぞ」
孫権は周瑜に有無を言わせないかのように、はっきりとした口調で伝えると、手紙を持っている手に力を加えた――。
「孫権、久しぶりだね。周瑜は何か、しょっちゅう会っているような気がするけど」
新野に到着をした時、先に知らせを受け取っていた劉備が満面の笑顔で出迎えてくれた。その彼の隣りに軍師である諸葛亮は寄り添っているものの関羽はいない。孫権が周囲に視線を巡らせていると、その動きで孫権が何を探しているのかに気づいた劉備が申し訳なさそうに口を開いた。
「せっかくの来訪で関羽も喜んでいたんだ。でも、国境沿いを監視する仲間たちの様子を趙雲と一緒に見に行っていてね。もうすぐ戻って来ると思うんだけど……」
「趙雲は確か……」
関羽に好意的な感情を持っている男、趙雲。劉備の話によると、関羽は共に戦った兵士たちの訓練などを任されており、かつて幽州での名武将であった趙雲と共に常に行動をしているのだと言う。
「あの優等生には負けられないな!」
恐らく、新野に赴いた時には趙雲と関羽の取り合いでもしているのだろう。周瑜の指の骨が鈍く鳴り響き、劉備が可笑しそうに笑った。
「周瑜、君はいつも趙雲とやり合っているからね」
孫権の予想通り、周瑜と趙雲で関羽の取り合いなるものをしているようだ。劉備の話の続きからでは、周瑜が新野に来た時にはいつも宴会が開かれ、そこで酒に酔った二人の男が関羽の取り合いをしているらしい。
「今日だって、周瑜たちが来るって知っていて、趙雲が関羽を連れ出したんだから」
「あんのやろう……」
周瑜の口元は笑っているがピクピクと痙攣を起こしている。そして金色の瞳は挑戦的な鋭い光を放っていた。
「ところで、孫権さまは何用でこちらに……?」
周瑜がこの地に来ることに違和感を持ちはしない諸葛亮だが、孫権がついて来るのは意外だというような表情を浮かばせている。しかし、孫権は関羽からの手紙の内容には触れずに、
「私も久しぶりに休みが取れたので、呉から外に出たいと思っていたところ、周瑜がこちらに行くと聞いてついてきたのだ」
と返すと、隣にいた周瑜は、
「オレはここに行くと、お前には言っていないぞ……」
ぶつぶつと文句を放っていた。
「遅い…… 遅い遅い遅い、遅い!」
暫く待った――
その後も待ち続けた――
しかし、関羽が戻って来る気配がなかなかしない。周瑜は国境沿いの方向を睨みつけながら苛立ちの言葉を叫ぶ。確かに普段よりも戻るのが遅いと感じた劉備が呟く。
「山賊退治をしているのかな?」
以前まで戦ばかりが行われていたこの地では、自身が生き残る為に山賊になる者が多い。呉でも海賊になる者が多く、赤壁の戦いの後はその始末に追われていた。
「山賊もかなり数を減らしてはきているのですが……」
諸葛亮も西に傾き始めている太陽を見つめながら、心配の言葉を零した。
戦が終わり、平穏な年月が過ぎた今、各国の自治も安定をしてきて、流れ者になる数も減少してきている。しかし、物取りに快感を覚えている者たちは、未だ山賊や海賊を続けていた。それに、猫族たちは山賊の他に恐れているものがあった。
曹操――
赤壁の戦いで軍力を削いだものの、あの男が再び南方の脅威となることは間違いない。今はまだ大人しくしているが、いずれは勢力を立て直して戦いを挑んでくるだろう。ただ、曹操との争いを止める方法が一つあることを孫権は知っている。
猫族―― いや、その中でも関羽を曹操に差し出せば、無駄な血を流すことはなくなるのだ。しかし、何故、あの男が関羽を特別視し、喉から手が出る程に欲するのか、孫権にはその理由が未だに謎であった。
他の者たちは皆殺しにしようとも、あの女に矢、一本当てるでない!
広陵から江夏に向かう為に用意した船に乗ろうとした時、後を追いかけて来た曹操が放った言葉。あの曹操にしては口調は動揺をしており、あの時も関羽を傷つけることがないように叫んでいたのが聞こえていた。
関羽の他は皆殺し――
その中には他の猫族も含まれている。つまり曹操は、猫族全てを欲していたのではなく、関羽だけを望んでいたことになる。そしてその後に赤壁の戦い前に送られてきた曹操の書簡の内容を思い出した孫権は、自分に向けられた視線に気づいて顔を上げる。と、諸葛亮の目とが合わさった。
少し、話しましょう――
諸葛亮の瞳が孫権にそう伝えている。孫権は無表情のままその場から立ち上がると、諸葛亮もそれに合わせて立ち上がった。
「おい、お前ら…… 何処に行くんだよ!?」
同時に立ち上がった孫権と諸葛亮に訝し気な視線を送る周瑜。
「…… 今後の呉と劉備軍の同盟について、少し話してくるだけだ」
「じゃあ、俺も同行する」
同盟の内容が気になるのか、周瑜がその場から腰を浮かすが、
「孫権さまは以前に、書簡で私と二人きりで話しをしたいと申し出られたのだ。だから、お前はついてくるな。そこで一人拗ねておけ」
諸葛亮に同行拒否を受けた周瑜は、大きく鼻を鳴らしながら、浮かしていた腰を再びその場に落ち着けていた――。
「最初の同盟のまま、ですからね…… 恐らく、呉のお偉方は皆、疑問をお持ちでしょう」
諸葛亮の政務室であろうか?
多くの書物や書簡などが部屋の中を埋め尽くしている中に孫権は通された。
「私の結婚相手である関羽がこの新野に戻る理由がこの地の再建の為だからな。こちら側もすぐに戻ることができないことくらいは理解している。何せ、あの人は猫族の中でも劉備殿の次に信頼が置かれているから仕方がないと言って、今は何も言ってはこない」
孫権の言葉を聞いた諸葛亮が首を傾げる。
「では、今回、孫権さまが新野にいらっしゃったのは、別の用事、ということになるのでしょうか?」
諸葛亮は、どうやら孫権が関羽を迎えに来たのだと勘違いをしたらしい。人の心を読むのが巧みな諸葛亮にとって、孫権は無表情が多い為に感情が読み取りにくいらしい。しかし、その方が君主には向いていると褒め言葉を投げかけてきた。
「それでは質問を変えさせて頂きます。孫権さま、あなたは何か心配事がおありですか?」
読み取りにくいと言いながらも、やはり雰囲気で何かを感じ取ったのか。諸葛亮は孫権に同盟とはまた違う悩み事があるのかと問いかけてきた。それに対し、孫権は軽い頷きを起こした後に二つの書簡を諸葛亮の前に差し出す。
「これは……?」
目の前に差し出したのだから開けばいいものを、諸葛亮はその書簡の内容があまり良いものではないと察したのか、丸められたその二つを見つめたまま。従って、孫権はその書簡の内容を話すはめとなってしまった。
「一つは赤壁の戦いが始まる前に曹操から送られてきたものだ」
「曹操から……?」
「戦が膠着状態の時、曹操軍は着々と水軍の戦力を上げていた。あの状態のままが長らく続けば私たち呉の国は負けると…… それを回避したいのであれば、猫族を曹操軍側に引き渡すよう命じてきたのだ」
「成る程…… 確かに曹操軍は猫族を特別視していましたからね」
諸葛亮はそう言いながらも、未だ納得し難い視線を孫権に流す。
猫族の身体能力の高さがいかほどのものか、劉備軍の軍師として仕えている諸葛亮には分かり切ったこと。それに曹操とて、戦力として猫族を幾度も利用してきたのだ。今まで戦の最中に猫族を生け捕りにしようとしていたことは幾度もあるが、書簡を通じて猫族を引き渡すよう伝えてきたのは初めてである。
「生け捕りにするならば、多少怪我をしたりする者たちもいるでしょう。しかし、書簡を通じて猫族を欲するとは…… 傷物にされたくないからとしか考えられませんね」
諸葛亮の最後の言葉に、曹操の狙いが猫族全体ではなく、関羽一人であることに絞られた。
「この書簡の内容には続きがある。猫族でも特に関羽…… 曹操は彼女を必ず曹操軍に引き渡すよう、書簡に書いて寄越したのだ」
「関羽を…… 曹操が……?」
「曹操が関羽を特別視する理由…… 何故にあれだけ執拗に手に入れようとしていたのか、あなたは分かるだろうか?」
諸葛亮は言わなくてもいいこと、言わなければならないことを頭の中で決定して言葉にする。だから、劉備軍の軍師とは雖も、彼らも知らない情報を諸葛亮は手に入れていることが多い。それならば、曹操が関羽を欲しがる理由も知っているのではないかと孫権は考えて質問をしたのである。
暫く黙っていた諸葛亮。しかし、これは答えなければならないと判断をしたのだろう。一つ、小さな嘆息を吐き出すと、
「曹操が関羽を欲する理由をお教えしましょう……」
と、小さな部屋の中で自身の声を響かせた――。
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