卑怯な女


少し海が荒れた日。
甲板では息子たちが帆を畳んだりロープで固定したりと慌ただしく動いているのだろう。
(実際、少しばかりラクヨウの怒号が聞こえやがる。)

荒れた海の音をBGMにベッドへと寝そべっていると……。
カサリ、と乾いた紙の音がした。

そちらへと視線を見やれば……俺の傍らで本を読むひとりの女。

昔は綺麗な栗色だった髪は白く染まり。
白くきめ細やかだった肌は少しばかり皺が寄った。
俺を見上げ、微笑む目元には笑い皺。

だが、その柔らかな雰囲気も。
真っ直ぐに俺を見る穏やかな眼も。
優しく紡がれるゆったりとした声も。

何一つ変わらねぇ、生涯で唯一俺が惚れ込んだ女。
俺の妻にして、俺の唯一無二の「宝」。


「何だか甲板の方が大変そうですねぇ。」
「……行くなよ?」
「行きませんよ。行っても足手まといになってしまいますから……。」


俺を見上げ、ほわりと笑う顔。
……これは、一番好きだと思う表情だ。


……ここ最近。
俺の愛する妻は何度か死にかけた。


冷たい氷の海へ落ち、生死をさまよった。
敵船のクルーに殴られ、打ち所が悪けりゃ死んでいた。
……俺たちは海賊だ。
いつ死ぬかなんてこたぁ解らねぇし、それに対しての覚悟もある。
それはもちろん、こいつも覚悟しているはずだ。

だが……なんでだろうなぁ。

こいつが死ぬなんてのは、何故か想像できやしねぇ。
それは単に、こいつが死にそうにねぇのか。
それとも死ぬなんてことを想像もしたくねぇほど脳が拒否しているのか。

アレ以来。
コイツの姿が見えなくなると、フと軽い焦燥感に駆られるようになった。
漠然とした不安。
無意識のうちにソレを消し去ろうとしているのだろう。

気がつけば、コイツを目の届く範囲に置くようになっちまった。


「あなた?……どうかなさったんですか?」
「……いや、なんでもねぇ。」


我ながら情けねぇな、と心底思う。
どうにも俺ぁ、コイツの事となると少しばかり視野が狭くなるようだ。

不思議そうに首を傾げるナマエに、俺は苦く笑った。










卑怯な女










海が荒れ始めてどれほど経っただろうか。
俺がウトウトと眼を閉じていると、フと隣で動く気配を感じた。

うっすらと目を開け盗み見れば……。
俺が寝ていると思っているのだろう。
起こさないように、ソッとベッドを抜け出したナマエが扉へと向かおうとしていた。


「どこに行く?」
「!」


ギシリ、と体を起こし、片手でその小さな体を抱き込むように停止させる。
驚いたように振り返ったナマエの表情に少しばかり笑ってしまった。


「あなた……起きてらしたんですか。」
「眠りかけてたんだが…急に隣が冷えちまってなぁ。」
「まぁ、人を湯たんぽみたいに……。」
「グララララ。」


クスクスと笑うナマエを、俺の隣へと戻す。
今度は抱きかかえたまま眠りに着こうとすれば……。
ナマエが困ったように俺の腕を軽く叩いた。


「あなた、離してくださいな。」
「あん?何処に行こうってんだ?」
「食堂ですよ。エースちゃんにオヤツを作ってあげる約束をしてますから……。」
「……そうか。」


大食いのエースの事だ。
今頃腹を空かせてコイツを待っているのだろう。
可愛い息子のことを思えば、自然と手の力も緩むってもんだ。
……ただ、手の力が緩むと比例して、眉間に皺が寄っていく。


「気を付けて行けよ。」
「……食堂まではここからすぐですから大丈夫ですよ。」
「グラララ。それもそうだ。」


誤魔化す様に笑えば……ナマエはジッと俺を見つめていて。
真っ直ぐに俺を見るその眼は、何処か胸の内を見られているようで落ち着かねえ。
……いや、実際には見透かしているのだろう。


「あなた。」
「ん?なんだ?」
「最近、とても心配性ですねぇ。」


困ったように笑う顔。
その表情も嫌いじゃねぇが……今はいただけねぇなぁ…。


「そうか?いつもと変わらねぇだろう?」
「あなた。」
「……。」


嗚呼、そうだった。
コイツにゃ嘘は通用しない。
長年ずっと一緒に居る夫婦なんだ。
俺のつまらねぇ嘘なんてお見通しなんだろう。

俺がふぅ、と息を吐けば……


「何がそんなに怖いんですか?」


ズバリ、と口にしたナマエに軽く眼を見開いた。


「……随分とハッキリ言うじゃねぇか。」
「ふふっ……うじうじしてるなんてあなたらしくありませんから。」


くすくすと笑う顔に、こっちももう笑うしかねぇ。


「お前が悪ぃ。」
「え?」
「俺が眼を離した隙に何度も死にかけやがって。」


なるほど、そういうことですか。
と穏やかな声が納得したように呟いた。
再び、手に力がこもる。
それに気付いたナマエが、ソッと手を添えてきた。


「あなた。私は簡単に死にません、とお約束したでしょう?」
「……あぁ。」
「もちろん、私にも寿命がありますし、限度はあると思います。けれど……近々死ぬつもりなんてありませんし、貴方を看取った後に逝く予定ですから。」
「……。」
「けれど……そうですねぇ……。もし、万が一、仮にも、私が先に死んでしまったら……。」


お互いにあまり好きではない”もしも”の話。
だが、今だけはナマエの言葉を中断させようなんて考えは浮かばない。
ただひたすら、俺の耳はナマエの声を拾っていた。


「私が死んだら、貴方は悲しんで下さるでしょう?」
「……当たり前だ。」
「でもきっと……貴方ならすぐ立ち直れますよ。」
「あ?そんなこたぁ……」

「          。」

「……。」
「ね?」


にこりと。
でもどこか自信をもって言われた言葉に目を見開いた。
絶対的な確信と信頼。
そんな目で俺を見てくるナマエに……俺は、ただただ苦笑した。


嗚呼、馬鹿言うんじゃねぇよ、と。


俺だって強いと言われるが、ただの人間だ。
これまでずっと俺を支えてくれたお前が死んだなりゃあ、もちろん泣くだろう。
嘆き、悲しみ……もしかすると、思った以上に立ち直れないかもしれねぇ。

俺がただの人間だってことも。
俺にだって弱い所があるってことも。
お前の事に関しちゃ自制がきかねぇってことも。
全部解っていやがるくせに、その発言か。


ったく……お前は卑怯な女だ。


お前にそう言われたら……
崩れ落ちそうになる膝を叱咤して。
涙を飲んで、無理にでも立ち上がらねぇといけないじゃねぇか。

惚れた女に、情けねぇところは見せられねぇからなぁ。


「嗚呼、本当に……意地の悪い女だなぁ、テメェは。」
「ふふ……ごめんなさいね。」
「謝るんじゃねぇよ。そういう所も全部含めて惚れちまったんだからな。」
「私はあなたのそういう心の広さに、何度も惚れ直してしまったんですよ。」
「……嗚呼もう良い、さっさと行ってこい。」


はい。と穏やかに笑って、ナマエは俺の腕から抜け出した。

……今夜は冷える。
きっと、この部屋に帰ってくる時には、その両手に温かな飲み物が入ったカップが二つもたれているのだろう。

そんなことを考えてフと気付けば、先ほどまで巣食っていた焦燥感が消えていやがった。


「……ナマエ。」
「はい?」
「早く戻ってこい。」
「……はい、あなた。」


ふわり、と微笑んで、部屋を後にしたナマエ。
気がつきゃ嵐の音は止んでいて。
一人の部屋に訪れた静寂。
でもどこか心が満たされている事実に、口の端を釣り上げる。


「グラララ……。」


小さく笑った声は、静かな部屋に小さく響いた。















(愛しいあなた)
(私が生きているうちは何があろうと私があなたを支えます)
(だけど)
(もし私が居なくなったその時は)
(どうかどうか)

(崩れないでください)
(折れないでください)

(例えどんなに嘆こうとも)
(立ち上がって前を見据えてください)

(子供たちの為に)
(何よりも貴方の信念の為に)

(どんな苦境にあろうと)
(前を向いて立ち上がってきたあなたの背中が)
(何よりも大好きだから)

囁くように伝えられた言葉
それはまぎれもなく
本心からの言葉だった


卑怯な女 END
2015/04/26


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ゆめうつつ