アイドル以上の存在を、この時初めて知った
「僕と一緒ににゃーちゃんのイベントに行ってくれませんか!?」
近所に越してきた女の子に言った初めての誘い文句が、これだった。
木下留衣ちゃん。2つ年上。ニートである僕らとは違って、ちゃんと毎日大学に通っている女子大生。
人が良くて見た目もかわいいから、僕ら兄弟の中ではだいたい引っ張りだこ状態になっている。
だから今回呼び出すのにも一苦労した。周りにバレないように、スマホで求人の広告を見るふりをしてメールを作って呼び出した。
『…にゃーちゃん?チョロ松が好きなアイドルの子だっけ?』
「そう!」
以前買ってきたグッズを偶然見られてしまったことがあり、留衣ちゃんは僕がアイドルオタクであることを知っている。
バレた時は焦ったけど留衣ちゃんは特に反応を示さなくて、「そうなんだ」としか言わなかった。熱中できる趣味があるっていいことなんじゃない、と。ドン引きされると思っていた自分はその反応にとても拍子抜けした。
知られているからといって積極的に推していくつもりはないのだけど、今回はどうしても彼女に頼むしかなかった。
『カップル限定……二人一組…なるほど……』
渡したチラシをまじまじと眺めながら留衣ちゃんが言う。
再来週に開催されるにゃーちゃんのイベントは、ライブの後に握手会がついてくるというファンとしては絶対に外せないイベント。
でもその参加条件が「カップルであること」。実際はカップルじゃなくても誰かと二人で一緒に行けばそれで良いらしいのだが、まさか兄弟を誘ったところで来てくれるはずがない。
他に当てがあるとすれば両親やトト子ちゃん、チビ太やイヤミだが、親を連れて行ける場所ではないし、他の人も断られるのが目に見えている。
一番望みがあるのが留衣ちゃんだった。
「おっ、お金はもちろん僕が出すから!!一緒に来てもらえればそれで…!」
『いいの?』
「えっ?」
『いや、握手会もついてるし結構高いじゃん、これ。なんか悪いなって…』
「いやいやいやいや全然!?えっ来てくれるの!?」
『いいよ。この日なら空いてると思う』
「……!!!」
にっこりと笑った留衣ちゃんはすぐに快諾してくれた。もうその姿は天使にしか見えなかった(いつも天使だけど)。
ありがとうと何度もお礼を言って頭を下げたら「大袈裟だなあ」と笑われた。
『じゃあその日までに掛け声とか覚えなきゃね!!曲も聴くね!!CD貸してね!!』
「えっ!?」
なぜかガッツポーズをした留衣ちゃんは思った以上にノリノリだった。
その後、家に来た留衣ちゃんがにゃーちゃんの曲を片っ端から聞いて一緒に合いの手を覚えるという我が家では異例な光景が広がった。イベントに一緒に行くことも当然のようにバレたが、留衣ちゃんが庇ってくれたため一応大惨事にはならずに済んだ。
――
『次は握手…!緊張してきた!』
イベント当日。
思っていた通りカップル限定という割にむさくるしい男ばっかりで溢れていた会場。女性がいないわけでもないが、ライブ中は後ろの方で静かにしている人が多く、少なくとも僕の隣で一生懸命ペンライトを振る留衣ちゃんみたいな人はほぼいなかった。
ライブ中暴れるけど引かないでねとは言ったものの、実際ドン引きだろうなと思っていた。が、今回も予想を裏切り、留衣ちゃんは僕と一緒ににゃーちゃんかわいいよ!と叫んでいた。ここまで来るとアイドルオタクとしては感動である。
ライブが終わって、今度は番号順に握手会。思いの外楽しそうにする留衣ちゃんにとても良い人選だったと心の中で思う。
カップル限定と聞いて最初こそ絶望していたが、結果オーライとはこのことだ。
「(留衣ちゃんがこんなに楽しそうなら、僕の時間あげちゃってもいいかな……)」
握手できる時間は二人合わせて30秒ほど。最初は留衣ちゃんが興味を示すなんてこれっぽっちも思っていなかったので、30秒で何を話そうかと事前にある程度決めていた。
でも今の留衣ちゃんを見たら、自分はまた機会あるだろうし、彼女に譲っても良いかななんて。いつもなら考えもしないようなことも考えてしまうから不思議なものである。
生のにゃーちゃんを見てそわそわする留衣ちゃんを眺めてたら、留衣ちゃんがそれに気付いて顔を上げた。
『30秒でしょ!?握手以外の時間はチョロ松が全部使っていいからね!』
「…えっ」
『えっ?チョロ松これが楽しみで来たんでしょ?後悔しないようにしてね!!』
「もうすぐだね」と言いながら前を向き直る彼女。その間にも列がひとつずつ動いていく。
僕達の番が来ると、留衣ちゃんは「行ってらっしゃい」と言って僕の背中を押した。
戸惑っている暇もなく目の前には大好きなにゃーちゃんが現れて手を差し出してくる。その手を軽く握って、シミュレーション通りにこの前発売されたCDの話とか、グッズの話とかをする。この30秒が何よりも楽しみで来たはずなのに、なぜか心のどこかがもやもやした。
あと数秒で時間切れというところで留衣ちゃんに交代する。留衣ちゃんはにこにこしてにゃーちゃんの手を握った。
『にゃーちゃん!すっごく可愛かった!!本物が目の前で見れるなんて嬉しい!応援してます!!』
「ありがとにゃー!こんな可愛い子が来てくれるなんて思ってなかったにゃ、嬉しいにゃん」
アイドルとしての営業スマイルというよりかは本当に楽しそうに笑うにゃーちゃんに、時間切れであるにもかかわらずスタッフはしばらく動かなかった。
ばいばい、と手を振った留衣ちゃんににゃーちゃんも手を振り返す。なんだか、そこの数秒だけ別世界のようだった。
『楽しかったー!わたしが楽しんじゃった!チョロ松大丈夫?任務は果たせた?』
「うん、付き合ってくれて本当にありがとう!!」
イベントも無事終了して帰路に着く。
ライブも楽しかったし、握手会でもいつもより長く話すことができた。どれもこれも留衣ちゃんのおかげだった。
行きはイベントのことで頭がいっぱいだったけど、それが終わった今、自分の置かれている状況を冷静に分析し始める。
「(留衣ちゃんって、可愛い上に優しくてこんな趣味にも理解あるって……どんだけ貴重な人材?)」
初めて見た時から可愛いと思っていた留衣ちゃんは人間としてもよく出来ていて、年上であるからなのか僕ら兄弟の面倒見はすごくいい。兄弟の素っ頓狂ぶりに常に振り回されることになる自分のフォローもよくしてくれる。
周りにまともな人間が少ないから自分がどうにかしないとと自負していたが、留衣ちゃんが来てから負担がかなり減った。
構ってちゃんなおそ松兄さんの相手も、言動が痛くてどうしようもないカラ松の相手も、周りと馴染めない一松の相手も、野球しようとうるさい十四松の相手も、甘えたがりなトド松の相手も、絶妙に上手くこなしてみせた。
それだけでも印象は頂点の頂点だったのに、今回彼女はアイドルオタクにも理解を示すという器のでかさを見せてきた。
おかげでもうどこが頂点なのかさっぱり分からなくなった。理想の相手とはこのことだ。運命すら感じた。
「あっ、あの留衣ちゃん!」
『なに?』
「また何かあったら…誘っても、いい?」
『いいよ?』
「こ、こういうのじゃなくてもいいかな…?」
『?』
「そのっ………お茶、とか、映画とか…っ」
留衣ちゃんを家まで送って、その門の前で意を決して切り出す。
最初こそ驚いていたようだけど、すぐに言葉を呑み込んだようで首を傾げた。
『なんで?普通に誘ってよ。わたしもチョロ松と出かけたいし』
「…!!」
笑顔で受け答えする留衣ちゃんと違って僕は余裕がなくて、ひたすら頷くことしかできなくて。
「じゃあまた明日」と家の中へ消えていった留衣ちゃんの笑ったその顔が、帰ってからもしばらく頭から離れなかった。
数年経った今でも、この時のイベントが一番楽しかったと、思い出すたびにそう感じる。
アイドル以上の存在を、この時初めて知った
(どう?留衣ドン引きしてた?アイドルライブってあれだろ、おっさんが集まってギャーギャーするやつだろ?)
(んー…♪)
(なんか良い結果だったみたいだね。チョロ松兄さんの顔めっちゃ緩んでる)
(十四松、卍固め!!)
END.
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