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『杏寿郎?』
腕の中で、明華がやや気だるげに俺の名を呼んだ。
『そろそろ買い物行きたいんだけど……』
「む」
後ろから閉じ込めて早数十分。
大人しく捕まってくれていた彼女もさすがに痺れを切らしたのか、首を捻って此方を見上げる。
記憶を取り戻してから一日が経過した。夜中に飛ばされるかと思っていたがそんなことはなく、ここ一ヶ月と変わらない朝を迎えた。
早朝に目が覚めて真っ先に視界に入った明華の寝顔。いつまで続くか分からない幸せに浸りながら、微睡みに身を任せてもう一度目を閉じた。
二度目の覚醒後に二人で軽く朝食をとり、もうすぐ昼食の時間というところで先程の明華の言葉。昨日買い出しに行かなかったから食材を仕入れに行きたいのだろう。
これまでだったら帽子を深く被って大きな声を出さないようにしていれば着いて行けていたが、今日からは一緒に行くことができない。どのみち別れるのなら最後くらいきちんと挨拶してから行きたいから、明華が出掛けている間に向こうへ戻るのだけはどうしても避けたい。
だからどこにも行ってほしくなくて捕まえておいたのだけど、そろそろ限界か。そもそも昨日行くはずだったわけだしな。
今から明華が出掛けてその間に飛ばされる確率、数刻後に出掛けたときに飛ばされる確率。どちらが高いかなんて俺には分からない。
分かるのは、今この時この場所にいるという事実だけで。
いっそのこと今すぐ飛ばされてくれれば、ちゃんと別れの言葉を言えるかもしれないのに――なんて、この子を放す気のない体勢で思ってみても説得力に欠けるか。
『夜より昼間に行っておいた方が良いでしょ?』
「うむ、そうだな。仮説ではあるが」
『そういうわけだから、さくっと行ってくるよ』
「すぐ戻ってくるから」と明華が俺の腕を軽く叩く。放せ、と。
頭では分かっているが体が動かない。帰り際にこんなことになるとは。
相手が明華だから、本気で嫌がられない限りつい我儘を言いたくなってしまう。今だって、彼女は俺と離れたくて言ったわけじゃないと分かっているから。
ぎゅっと抱いたまましばらく動かないでいると、不意に頬に柔らかいものが押し付けられた。
『…なるべく急いで帰るようにするから』
――ね。
宥めるように、それでいて愛おしそうに明華が目を細める。何度口付けられてもそのたびに胸が甘く鳴った。
力を緩めると彼女が少し遠慮がちに俺の腕から脱出する。すぐに出掛ける支度をした明華は再度部屋に戻ってきて、布団に腰掛けていた俺に顔を寄せた。
『愛してるよ』
にこりと微笑んで彼女が部屋を出て行く。
唇に残る明華の体温に、見送りも忘れたままただその場で呆けていた。
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