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『おはようございます』




職場に着いて上司に挨拶をする。何の変哲もない、いつもと変わらない日常。




『(……仕事って気分じゃないな)』




形だけデスクに向かってみるも、頭も手も思うように動かない。
朝だからまだ目覚め切っていないというのはあるだろうけど、集中できない主な原因はおそらくそれではない。


今日も彼は私の家で例の漫画を読んでいる。昨日時点で半分程度だったから、早ければ今日中に全部読み終わるだろう。
こちらの読み物にもだいぶ慣れてきたと思うし、杏寿郎は頭がいいから読むスピードも速いだろうし。

あの結末を知って、彼は何を考えるのか。どう動くのか。




『(きっと……もう、物語が変わることは避けられない)』




私が着いて行こうと、ここへ残ろうと。


彼は私を「救世主」と呼んだけど、私が行かなかったとしても杏寿郎が記憶を持ち帰れれば結果はあまり変わらない。彼が覚えている範囲で、より良い未来を作ろうと奮闘するはずだ。「救世主」には彼だってなり得る。
…やっぱり、知られちゃった時点で詰んでたんだな。そう思うものの、杏寿郎が長く滞在するのなら遅かれ早かれこうなってたのかもしれないとも思う。
漫画を処分しておかなかったのは私の落ち度だけど、「鬼滅の刃」なんてビッグタイトルをずっと隠し続けるのは難しい。私から話題に出すことは避けてたけど彼は前から気になってただろうし、そのうち街中でうっかり…なんてこともあるだろう。

それに――杏寿郎の言ってた通り、もし彼がこちらに来た理由が「未来をやり直すため」なら。
物語を知ることは最低条件であり、スタートラインだ。


“改めて言わせてほしい”
“やはり明華に、俺と共に来てほしいんだ”





『(わたしは…どうしたいかな)』




不意に上司から声を掛けられ、何でもないかを装って作っていた書類を差し出す。
この“日常”が終わるかもしれないなんて考えたこともなかった。無難な人生を死ぬまで続けるものだと、信じて疑いもしなかった。


私が「行きたくない」と言えば彼は諦めると思う。タイミングが合うと仮定するなら、あとは私次第だ。
不安も気掛かりも、怖さも後ろめたさも、挙げようと思えばキリがないくらいにたくさん出てくる。物語云々の前に向こうで普通に生活ができるのかとか、周りに馴染めるのかとか、そもそもちゃんと時空を超えられるのか、とか。

杏寿郎の誘いを断り、着いて行かないのであればこんなことは考えなくていい。ちょっと前まで過ごしていた“日常”にまた戻るだけだ。
仕事をして家事をして、ときどき家族や友人に会って、遊びに行ったり美味しいものを食べたりして。
平凡でありきたりで、特別すごいものじゃないかもしれないけど、平和で安全な国で、ささやかな幸せを積み重ねていく人生。


ただそこに、彼はいない。




『(…そうだよね。わたしなら――)』




昨日の夜から改めて一通り悩んで、考えてみたけれど。なんだかんだ最初から答えは決まってたのかもな、って。
デスクのパソコンに向かって苦笑する。物語がどうかとか、生活環境がどうかとか、難しいことをいくら並べたところで、私にとって一番大切なのは結局たったひとつだけ。
そのたったひとつが守られるのなら、きっと私の出す答えは決まっている。


彼への「返事」が定まり、胸につかえていたものがスッと消える。開き直りに近い気もするけど、この際それでもいい。あまり迷っていると取り返しのつかないことになる。
指輪をしていた方の手を、もう片方の手でぎゅっと握りこんだ。




『(帰ったら相談してみよう)』




あと少しだけ、彼がこちらの世界に留まっていてくれますように。
心の中で祈りながら、ようやく本格的に今日の仕事に取り掛かった。







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