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「明華、おかえり」
『ん』
ドアを開け、出迎えてくれた杏寿郎と軽いキスを交わす。ここだけ切り取ればまるで新婚さんのような幸せな日常だけど、実際に置かれた状況はそうではない。
彼の手には漫画の単行本。それがただ趣味で読んでいるだけのものだったら、一体どんなに良かったことか。
予兆があってから数日経ったが、未だにそれ以上の変化は起きていなかった。あれから頭が痛くなることもないらしい。
“鬼滅の刃”は順調に読み進んでおり、杏寿郎は今二周目に突入している。単行本以外のファンブックやスピンオフにも手を出し始めた。
私も復習を兼ねて無限列車を超えたあたりから読み直していて、仕事の合間の時間もフルで使っているせいか気付けばもう終盤だ。何度も読んで慣れているからか、難しい話ではあるけど案外サクサク読める。
いつものように上着と荷物を部屋に置き、杏寿郎に声を掛けてからお風呂場へ。
私は人より長風呂だと思うけど、ここのところは意識して早めに上がるようにしていた。
『(杏寿郎もだけど、わたしも素っ裸で飛ぶことにはなりたくないしね…。…手紙以外でやり残したことってあったかな)』
シャンプーを洗い流しながら、昨日のことを思い返す。
両親に真面目に手紙を書くなんて人生で初めてのことだった。もしかしたら記憶にないだけで小さい頃に書いたことがあったかもしれないけど、少なくともあんなボリュームで、しっかりした文章で書くのは初めてで。そして多分、もう二度とない。
向こうに飛んだら家族にも友達にも会えなくなる。手紙を出しても届かない。考えるとまた涙が出てくるけど、これは私が決めたこと。
私だってもういい大人だ。精神年齢は低いけど、それでも親元を離れて一人で暮らしている。独立した人間だ。
親と完全に離れたって、二度と会えなくなったって、一人で生きていけるだけの力は既に持っているはずだ。親に頼り切って生きていた学生時代とは違う。
実際家を出てからここまでどうにかなっているのだから。別の世界に行ったって、きっとどうにかやっていける。
何より、杏寿郎が傍に居てくれるから。
『(杏寿郎みたいに、すぐに強くはなれないけど……何とかなる。大丈夫)』
滲んだ涙を泡と一緒に水で流す。
みんなそうやっていろんなことを乗り切って生きているはずだ。うちの両親はたまたま二人とも元気だけど、事故や病気で突然大切な人を失う人はたくさんいる。それこそ、杏寿郎だって。
会う時間があって、手紙を用意する時間があって、私はとても恵まれている方だ。理由も話さず勝手に消えてしまうことだけが申し訳ないところだけど。
大好きな人の元で幸せになる予定だから、そこはどうか許してほしい。
お風呂から上がると、“その人”がにこにこ笑って私をぎゅっと抱き締めた。
――
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