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『動く階段、乗ったことある?』


「いや、ない」


『あれいろんなとこにあるから、ここで一回乗っておこう』




隣に普通の階段があるからそれを使ってもいいんだけど、都内に行くならどこかしらで乗るだろうから慣れておこう。顔を隠しているとはいえ人の目があるところで不自然な動きをしないように。

私が先に行くから続けて乗ってきて、黄色い枠の中に立てば大丈夫だから、と手を引いて先導する。




「お…っと」


『…!』


「すまない、一段空けるべきだった」




少しだけ前につんのめった杏寿郎が勢いでこちらへもたれかかってくる。
段差がある分先に乗った私の身長と彼の身長が同じくらいになって、彼が顔を上げたらすぐ目の前で視線がぶつかってびっくりした。

ち、近過ぎる。今は目元しか見えないけど、あの美しいお顔が15センチもない距離に。
思わず固まってたら「すまん」と顔ごと目を逸らされたので、ああ意外と気にするんだなと前にも思ったことをまた思った。




『あ、いや、近くにいてくれた方が安心はする…かも…』


「それは……そうか。じゃあ、次もそうする」




ニコリと笑った彼に先導のために何気なく重ねた手をぎゅっと握られて、繋ぎっぱなしだったことに気付いた。…傍目から見たら完全にカップルの距離感だな、これ。カモフラージュには良いのかもしれないけど。私もマスクしてくれば良かったと今更後悔する。
今すぐこのエスカレーター500メートル伸びてくれないかな、なんて馬鹿なことを考えている間に降り口まで来て、杏寿郎の手を引いて降りる。

ひとまずエスカレーターには乗れそうで良かった。次に向かったのは切符の券売機。




『お金を払わないとあそこで止められちゃうの。わたしが切符通すから、レンはみんなみたいに歩いて向こう側に抜けて。
抜けるときに機械から切符が出てくるから取ってね。すぐ後ろをわたしが追い掛けるから』




騒がしい構内の隅っこで改札の説明をする。切符なんて何年ぶりに買っただろうか。
“レン”という名前は他人のいる場所で彼を呼ぶために適当に考えたあだ名。ただの頭文字だけど、まあ分かりやすいから良いかなと。

「今は全部自動なんだな」と感心している彼についでに全部の改札が切符に対応しているわけじゃないことを伝えて、いざ多くの人が行き交うその場所へ。
一瞬だけど離れることになるから、絶対に見失わないようにと彼の背中を追う。




「…よし、明華、これはどうする?」


『わたしが持っとくよ。2番線だから、乗り場はあっち』




再び腕を掴まれた状態で駅のホームへ。ただ列に並んでるだけでもなんだか緊張する。きっと芸能人が一般人に紛れて出掛けるときはこんな感じなんだろうな。

風で帽子が飛ばされないようにね、と言ったら杏寿郎が帽子を片手で押さえて、その後まもなくして電車が来る。
端の席が空いてたらそこに座らせようと思ってたけどそんなに上手くはいかず、とりあえずドア付近を陣取って彼の顔が壁側を向くようにして二人で向かい合って立った。




『この電車で、あと……5駅分乗って、そしたら乗り換えね』


「分かった」




声のボリュームは抑えてるけどあんまり喋らせるのはまずいと思い、最低限のことだけ伝えて黙り込む。バスより静かなのにバスよりも人が多いからなかなか難しい。それでいて乗車時間は長いという。
こんなに近くにいるのにお喋りできないのは少し寂しいな。…近くにいれるだけ良いけど。
杏寿郎も初めて乗る電車だし、きっといろいろ話したいことがあるんじゃないだろうか。


ガタンゴトンと揺れる車内でただただ時間が過ぎていく。彼も同じことを思っているのか、話し掛けてくることはなかった。
状況が変わったのは3つ目の駅に着いたとき。多くの電車が通っているその駅から乗ってくる人が思いのほか多くて、ラッシュ時とまではいかないけどそこそこの満員電車になった。人の少ない端の車両を選んで乗ったのに。




「明華、大丈夫か?」


『う、うん……』


「人が多いな。俺が壁になるから、君は楽にしてろ」




――俺が君を守るから。


そう言って至近距離で笑った杏寿郎に、あ、違う意味で大丈夫じゃないな、と心から思った。






自宅訪問 前編


(え、いつまでこの体勢…?)




END.






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