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『ごめんね!残業で遅くなっちゃった!』


「大丈夫だ、お疲れ様」




おかえり、といつもより一時間ほど遅れて帰ってきた明華を出迎える。焦って帰ってきたのか少し息が上がっていた。
彼女は荷物を置くと「あとちょっとだけ待っててね」と言い残して洗面所に消える。俺は待てるから、そんなに急がなくてもいいのに。


しばらくして風呂から出てきた明華を抱き締めようと思って立ち上がったら、明華は俺の方へ来ることなくさっさと台所へと向かった。




『ごめんね、すぐご飯の支度するから』




「お腹空いたでしょ」と言う明華の声が台所から聞こえる。
向かう先がなくなった俺は、座り直すことも忘れてただその場に突っ立っていた。


仕事から帰宅した彼女を出迎えて抱き締めてやるのが俺の役目だと思っていた。
帰ってすぐは嫌がられたので、やるのは彼女が風呂から上がった後。夕餉の前。つまり今だ。
俺ができる数少ない恩返しの中のひとつなのに。しかも多分、遠慮した理由が「俺に早く飯を食わせるため」だ。


俺を大事にしてくれていることは分かるしその気持ちは嬉しい。明華は今、遅れた時間を取り戻そうと頑張っているのだろう。
でも抱き締めるのくらい一瞬でできるのに。それを俺が「無駄な時間」だなんて思うはずがないのに。

それどころか、むしろ俺は、




「……」


『杏寿郎?』




台所まで行って、俺のことを不思議そうな顔で見上げてきた明華を横から抱き締める。
何やら料理を皿に盛りつけていたらしい彼女の手が止まった。




『…どうしたの?』


「その……なんだ。君が俺の為に急いでくれていることは分かるんだが…。
いつもしてるから、しないのは……少し、寂しい気がして」




ぎゅう、と腕に力を籠める。


いつからそう思っていたのかは分からない。俺に抱き締められることが好きだと明華が言ったからやり始めたのに、これではどっちの希望でやっているのか分からない。
…いや、今は間違いなく俺の希望、か。

こうしていると不安が消えていくことに気付いてしまった。前から何となくそう思っていたが、たった今確信した。
俺は毎日こうすることで心を軽くしていたのだ。これが自分の役目だと言いながら、俺は俺のためにもこれをやっていた。
明華は傍にいたら安心できる人。これはそれを最も感じられる行為。“あえてやらなかった”ことで気が付いてしまった。


腕の中の明華は押し黙っている。困らせただろうか。せっかく俺を気遣ってくれたのに済まない。
離れようとしたら、小さな手が俺の背中をぽんぽんと撫でた。




『ごめんね、杏寿郎。わたし、気が付いてあげられなくて』


「…いや、明華は悪くない」


『辛かったら言ってって言ったのはわたしなのにね。わたしが辛くさせちゃダメだよね』




「杏寿郎のことは人よりも詳しく知ってるはずなのにな」と明華が呟く。この人はどこまで俺を知っているのだろう。
不思議と安心できるのは、彼女があらかじめ俺を知っていたことも関係しているのだろうか。




『さ、ご飯冷めちゃうから食べよ?』


「…ああ」


『杏寿郎、』


「ん?」


『言ってくれてありがとう』




――私にできることなら何でもするからね。


そう言って微笑んだ明華に、俺の感覚はきっと間違っていない、と心から思った。






り所


(たとえ先が見えなくとも、)




END.






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