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「よ、っと……ふむ、思ったより狭いんだな」
『そうね、二人でちょうどいいくらいかも』
一定の速さで回り続ける観覧車に乗り込む。毎回ここで躓かないかちょっとドキドキするけど無事に乗ることができた。
ドアが閉められて地上から離れれば、家を出たとき以来の完全な二人きり。
数ある乗り物の中でこれを最後に持ってきたのには、もうひとつ理由があった。
『杏寿郎』
狭いスペースに設けられた簡易的な椅子に腰掛ける。向かいにいた彼は窓の外を眺めていたけど、私に呼ばれて振り向いた。
まだ頂上までは時間がある。景色は後でゆっくり、存分に眺めてもらうとして。
言わなければ。今日、ここに一緒に来てくれたお礼を。
私のわがままを叶えてくれたお礼を。
『今日はありがとう、着いて来てくれて。わたしね…』
帽子の下から見える赤い瞳がこちらを向く。
ちゃんと向かい合って言いたかったし帰宅後にバタバタしてる中で言いたくなかったから、伝えるならここだと決めていた。
今日は本当に楽しかった。まさかこの人と二人で来られるとは思っていなかった。
行きたいと言ったときも実現するとはあまり思っていなかったから、今でもまだ気持ちがふわふわしている。
きっとこの後もしばらくは実感がないまま過ごすのだろう。…帰りたくないな。
言葉を紡ぎ始めて数十秒後、揺れ始めた視界に違和感を覚える。――あれ。
どうしたんだろう。上手く声が出せない。
『わたし、…』
絞り出した声が震えていることは静かな観覧車の中だとよく分かった。
でもまだ言いたいことが言えていない。どうしてもここに来たかった理由を伝えられていない。どうにか自分の口で伝えたい。
杏寿郎の姿が、滲む。
『…好きな人と二人で遊園地に行くのが、夢だったの……』
何とか言い切ったところで限界が来て、堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れ落ちる。
泣くつもりはなかった。泣いたらきっと杏寿郎が困るから。
泣くのは、帰って一人でお風呂に入ってる間にしようと思っていた。
杏寿郎が来てからずっと、我慢していない日なんてなかった。いつだってこの気持ちは胸の奥に封じ込めていた。
そんな生半可な気持ちで彼を好きなわけではなかった。本当に、この世にいる人間以上に好きだった。だからこそ絶対に嫌われたくなくて、頑張って表には出さないようにしていた。
いくらかは溢れちゃってたけど、私にしては抑えられている方で。最低限の理性は保てていたと思う。
今日もそのつもりだった。
『ごめん、……』
私はこの“今日”という思い出を、大好きな人と過ごした掛け替えのない時間を。彼が帰った後、自分一人しか写っていない写真を見るたびに思い出して。
この先ずっと、誰にも言えない想いを一生抱えて生きていくんだと。そう思ったら無性に悲しくて、彼がまだ目の前にいるのに涙が止まらなかった。
――どうして、ずっと一緒にいられないの。
ぐちゃぐちゃになった目元を拭う。…ああ、せっかく楽しく過ごせてたのにな。杏寿郎も楽しんでくれてたのに、最後の最後で雰囲気を壊してしまった。
もう今日も終わるからメイクがボロボロになるのは構わないけど、泣きながら観覧車から降りたらスタッフさんにびっくりされちゃうかな。変な勘違いもさせるかもしれない。
向かいにいる杏寿郎の顔も外の景色も、視界が霞んで何も見えなかった。ここまで彼はずっと無言。
困るを通り越して困惑しているのかもしれない。引いてたら申し訳ないな。重たい女でごめんね。
涙を拭っていたら、足元に彼の靴が映ったような気がした。
『え、…な、に……』
両肩を掴まれて驚いて顔を上げたら、今度は頬を手のひらで包まれて。
まだ視界が悪かったからあんまり周りの様子が分からなくて、でも至近距離に彼が居ることは分かった。
そのまま数秒の間を置いてから勢いよく抱き締められて、何が起きたのか分からず彼の服を掴む。
『きょ、…』
「君の夢が叶えられたのなら光栄だ。…でも、君に泣かれるとどうしたらいいのか分からなくなる」
頭を抱えるようにして抱き締められる。いつもより力が強い。
ごめんね、ともう一度謝ったら「君が悪いわけじゃない」と彼は言った。
「……“煉獄杏寿郎”が羨ましい」
ぼそり、呟いた言葉はそう聞こえた。
どういうこと、と返したけど彼は「何でもない」とだけ答えて私を解放する。大きな手が私の頭を撫でた。
「もうすぐ地上に着くぞ。もし良ければ、もう一度これに乗らないか?」
『…え?』
「これが特別好きなら、時間の許す限り何度だって乗ればいい」
「景色もあまり見られなかっただろうから」と彼が涙を袖で拭ってくれる。少しだけクリアになった視界で窓の外を見たら、ゴンドラが下降中なのが分かって。
そんなに時間が経っていたのかと思ったのと同時に杏寿郎に申し訳なくなった。景色が見れなかったのは多分彼も同じだ。
わざわざ夜景が見たいからとこの時間を選んだのにこれでは何の意味もない。何度目かの「ごめんね」を伝えたら、杏寿郎は「謝るな」と言って隣に座った。
「俺も今日はここに来れて楽しかった。明華と出会っていなければ、一生来れなかった場所だ。
ありがとう、誘ってくれて」
肩に腕を回されてぎゅっと抱き寄せられる。その温かい言葉と行為にまた、涙がひとつ落ちた。
ゆっくりと地上に向かって降りていく観覧車の中で、風の音と呼吸音だけが静かに響いていた。
夢 2
(このまま、時が止まればいいのに)
END.
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