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彼女が出て行った扉の前からしばらく動けずにいた。
昼餉を用意してもらって、好物まで買ってきてくれて。そして今度は俺の生活用品を買いに行くと言い始めた彼女。
突然押し掛けて来た初対面の男にどうしてそこまでしてくれるのかと、そう思いながらも嘘偽りなさそうなその厚意に甘えた。そして先程、彼女が初めて言った俺への頼み事を叶えてやった。
ただ「抱き締めて欲しい」という、金も手間も掛からない簡単な頼みだった。
一分にも満たない間黙って抱き締められていた彼女は、その後泣き出しそうな顔をして走り去るように家を出て行った。
「(泣くほど嬉しかった……のか?)」
向こうから頼まれたのだ、嫌だったわけじゃないのだろう。そうなると彼女は感極まって泣いたことになる。
部屋に俺の置き物があるくらいだからおかしなことではないのかもしれないが、元の世界ではまずないであろう体験にただ困惑した。
見合うことをしてやった後ならまだしも、俺は世話になりこそしたがその逆は何もしていない。
そんなに俺のことを好いているのか。本の中の俺は一体どんな人物なのだろう。人に泣いてもらえるほど立派な人間なんだろうか。
機会があれば聞いてみたいが、果たしてどこまで教えてくれることやら。彼女が俺に与える情報を手探りで選んでいることは見てて分かった。
「(これが此方の世界の読み物か…)」
机に積んであった本を手に取る。この家で手持無沙汰になることを見越して、中藤が手のひらくらいの小さな書物を貸してくれた。
幸い文字は読めそうだったので試しに読んでみる。あまり読んだことのない類の書物だ。出てくる人物も見たことのない格好をしていた。
単語の意味が分からず時々何のことを言っているのか分からないが、それでも面白かった。俺が出てくる本もこれと同じ“漫画”という本だったな。中藤が言うには俺の生きている世界にもあったかもしれないとのことだが、家に置いてなかったので読んだことがない。
そうして気付けば没頭していて、置いてあった本を読み切る頃には身体が痛くなっていた。
「(ずっと同じ体勢でいるものじゃないな…)……ふう」
立ち上がって伸びをして、本を机に戻す。時計に目をやったら三時間以上経過していて驚いた。そんなに読んでいたのか。身体も痛くなるわけだ。
書物は二種類借りたが、どちらも面白かった。続きを読みたいが俺は此処に遊びに来たわけではない。時間があるのなら帰るための手掛かりでも見つけておきたいところ。
せめて何か覚えていれば良かったのだが、困ったことにさっぱり覚えていない。一体何をどうしたら此処に来たのだろう。
世界を飛び越えるなど人間業じゃないし、やはり血鬼術の類だろうか。そうだとしたら誰と戦っていたかくらい覚えていても良いものだが。
そういえば、彼女は考えられる可能性として「寝て起きたら」というのを挙げていたな。試してみる価値はある。
そうと決まれば早速眠りに就こう。彼女もまだ帰ってくる気配がないし。確か、布団も勝手に使っていいと言ってくれていた。
念のため日輪刀を腰に差してから、教えてもらった彼女の部屋に移動する。
「……(人形が寝ている…)」
部屋の壁際に設置されていた寝床はやけに上げ底だったが、これが此方の世界では一般的らしい。病院の寝床に似ているな。
気にせず横になろうとして、先客が寝ていることに気付く。
やや大き目のくまの人形。彼女が普段一緒に寝ているのだろうか。
…女の子の一人暮らし、だもんな。詳しいことは知らないがもしかしたら寂しいのかもしれない。
俺が来て喜んでいたのはそのせいもあるかもしれないと思うと、さっさと帰ろうとしていることに少しばかり胸が痛んだ。
「(いや、それでも帰らなければ)」
どのみち近いうちに就寝はする。それが今か、後かの違いだ。
人形に少し横にずれてもらって布団に潜る。触ったことのない、柔らかな手触りの掛布団。
「(寝て起きて…戻っていたとしても……)」
君と出会ったことを忘れていないといい、と
心のどこかでそう思った。
――
「ん…?」
誰かの声がしたような気がして目を覚ます。
見慣れない天井。一瞬、此処がどこだか分からなかった。
しかしすぐに理解する。横にあった可愛らしい人形が目に入ったからだ。――ああ、俺はまだ此方の世界にいるのか。
しばらくぼんやりとしていたら何やら物音がしたので起き上がる。彼女が帰ってきたらしい。
寝起きで何と言っていたのか聞き取れなかったが、多分「ただいま」と言ったのだと思う。返してやらないと、そして抱き締めてやらないと。まだ俺が此処にいる以上は。
寝惚けたまま部屋を出て音がした方に向かい、彼女の姿を見つけたので勢いのまま抱き締めた。
『……っ!?』
ぎゅう。小さな体はすぐに腕の中に収まった。
このくらい望むならいくらでもしてやる。今俺にできるのはこのくらいだから。
俺のためにと出掛けて行った彼女の両手には、大きな紙袋がいくつもあった。…ああ、またそんなに。
しばらく抱き締めていたら中藤が動かなくなってしまったので、首を傾げながら様子を窺う。
『あの、…ちょっと、苦しい……』
「…!? す、すまない!!強過ぎた!」
『ど、どうしたの?』
喜んでもらえると思っていたらどうやら苦しめていたようで、か細く聞こえた声に慌てて離れる。女性を抱き締めることなんてないから力加減が分かっていなかった。
俺の一連の行動に中藤は疑問を持ったようで、「君がしてほしいと言っていたから」と返したら彼女は緩く笑った。
『無理しなくていいよ』
「無理はしていない!このくらい、いつでもしてやれる」
『…ありがとう。優しいね』
目を細めてふわりと微笑んだ中藤は、すぐに「買ってきたもの見て欲しいんだ」と部屋の奥へ歩を進めた。…あれ、あまり喜んでもらえなかっただろうか。さっきは泣きそうなほどだったのに、今は全然そんな風に見えない。
そういう気分ではなかったのだろうか。むしろお節介だったか。
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