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「行ってらっしゃい、明華」




聞いたことのない甘さを含んだ声が耳に残っていた。

昼休み、自分の席でお弁当を食べながら悶々とする。今日は両隣の人が外食か何かで居なくて助かった。
多分、休み時間に一人で百面相してる変な人になっているだろうから。


どういう巡り合わせなのか知らないが、住んでいる次元すら違う想い人と両想いになってしまった。
人生何があるか分かったものではない。ただ普通に生きてきて、普通に就職して、普通に過ごしていただけのつもりだったのだけど。

ある日突然現れた異世界の人と恋に落ちる――いったいどこの御伽噺だろうか。




『(…ほんとに御伽噺だったら、最後はハッピーエンドで終わるんだろうけど)』




空になったお弁当箱を片付けて、あまり広いとは言えないデスクに突っ伏す。

これがもしよくある絵本の中の御伽噺だったら、私達はめでたく結ばれてハッピーエンドを迎えていたのに。そうはならないだろうという予想がついていることがとても残念だ。
杏寿郎が絶対に向こうに帰らないならそういう道もあったかもしれないが、今のところその可能性はお互いに考えていない。確かめる術がないのが厄介なところだけど、何かしらの方法でそのうちまた元の生活に戻ると踏んでいる。
それなら昨日の“告白”には頷くべきではなかったかもしれないけど、生憎私はそこまでできた人間ではないので。後で自分がいくら泣くことになろうとも、彼の今後の人生に少なからず悪影響が出ようとも、断ることなんてできなかった。

未来がどうなったって構わないくらい、あの人の恋人になってみたいと強く思ってしまった。




『(まあ…ぶっちゃけ、勘違いなんじゃないかなって思ってはいるけど)』




突っ伏したまま、はあ、と小さく息を吐く。

彼の方から「好き」だと言ってくれたのは本当に嬉しかった。でも杏寿郎、こっちに来てからずっと私といるわけで。
もし他の人とも交流があったら違う結果になっていたんじゃないかと、そう考えずにはいられない。

勝手な独占欲で彼を他人から遠ざけてたのは私だ。だからこの状況はある意味私が作ったようなもの。
ずっと一緒にいたからという理由だけで絶対に恋に落ちるかと言われればそんなことはないだろうけど、杏寿郎の場合は今まで近くに仲の良い女の子がいなかったと思うから。たまたま私がその「枠」に入り込んだんだ、多分。
他にも似たような立場の女の子がいたらここまで持って来れた自信はない。特別美人だとか、取り柄があるとかじゃないし。

告白された時点で何となく分かってはいたけど、本人に伝えないままYESの返事をしちゃう自分。改めて考えると汚いなと思う。
一応これでも杏寿郎より年上のはずなのにな。勘違いすら利用したいと思っちゃう人でごめんね。




『(…でも、誰にも渡したくない)』




少なくとも、杏寿郎がここにいる間は。


チャイムの音が鳴り響く。両隣の人が同時に慌てた様子で席に戻ってきた。
体を起こし、スマホをデスクの隅に追いやる。

午後の仕事も頑張ろう。残業になったらまた、彼が寂しい思いをするかもしれないから。

今何してるのかなと考えながら、パソコンの画面に並んだ文字に目を通し始めた。




――




「明華!」




ベッドに腰掛けた杏寿郎が、こちらに向かってバッと両手を広げた。




「ふふ!」


『…ご機嫌だね』


「明華の言っていた、“いてくれるだけでいい”が分かったんだ!」




杏寿郎に巻き込まれてベッドに横になる。もうあとは寝るだけだから、と私は彼の為すがままだった。

なんだか見るからに上機嫌な杏寿郎。今の言葉をそのまま受け取るならその理由は私ってことになるんだけど、自惚れても良いのだろうか。
勘違いでも何でも、彼が私を想ってくれるならこれ以上に幸せなことはない。

睫毛の長い瞳がじっとこちらを見つめてから弧を描くように薄く細められる。




「明華に、俺の知らない“恋”をたくさん教わるんだ」




ちゅ。
言い終わると同時に鼻先に軽く口付けられて、その部分が淡く熱を帯びた。




『…あんまり可愛いこと言わないの』


「可愛かったか?
結局先に寝ぼけて変なことをしたのは俺だったが、そのおかげで明華といろんなことが経験できそうで楽しみなんだ」


『(そういえば昨日、変な期待をさせちゃったような……)』




にこにこしている杏寿郎の頭を撫でながら、ふと昨日のことを思い出す。


昨夜は帰宅して早々に杏寿郎に捕まって、告白されて。そのまま流れでキスまでして、一旦お風呂を理由に切り上げた。
その後はご飯を食べてだらだらお喋りしてたら良い時間になったから、いつも通り寝る支度をしたのだけど。

ベッドに腰掛けた彼がそわそわした様子でこちらを見ていたのは、私の気のせいではなかった…のか?何も言わなかったから、とりあえず背中を向けて寝るのをやめておやすみのキスをひとつしてみたのだけど。
この言い分だともう少し先のことを望まれてたりするのだろうか。杏寿郎の言う「知らないこと」がどこからどこまでなのかが分からない。
恋をしたことがない彼からすれば私の方が当てになるのかもしれないけど、私だって知識が多少あるだけで経験は全くないんだけどな。

返事に困っているのがバレたのか、杏寿郎が私を見て「ふふ」と誤魔化したように笑った。





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