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長いような、短いような。どちらとも思えるこの一ヶ月は、これまでの人生で間違いなく一番濃い時間だった。
『……』
「……」
ぱちり。
まんまるの大きな瞳が、こちらを見て瞬きする。
『何ともない?』
「…何ともない」
『そっかぁ……』
おはよ、とあくびをしながら杏寿郎に言う。眠そうに目を擦った杏寿郎が「おはよう」と呟いて、私と同じようにあくびをした。
今日でちょうど一ヶ月。記念日みたいな響きだけど全然そんなことはなく、彼が元の世界に帰れなくなってから今日で丸一ヶ月だ。
一週間目に「今日こそ」と思ったのと同じ気持ちが今さっきまであって、そして消えた。私の唐突な質問に迷わず答えた杏寿郎もそうだったんだと思う。
目が覚めて真っ先に浮かんだのは、「何か異変があるのでは」という根拠のない期待だった。
『それじゃあ行ってきます』
「うん、行ってらっしゃい」
寝転がったままの杏寿郎に顔を近付ける。
つい最近新しく日常に加わった“挨拶”を終えてから、鍵を閉めて家を出た。
――あれから一ヶ月経ったのか。
改めてそう考えてみて、実感があるような、ないような。今朝こそは何かが起こると思ったんだけど。
私が杏寿郎の恋人になれたことも、いわゆる“フラグ”だったんじゃないかなって思ったりしてたから。一気に上げて一気に落とされる…みたいな。
煉獄杏寿郎と付き合えるなんてそれこそ夢のような出来事だから、十分有り得る展開だと思ったんだけど――実際、そうでもないのだろうか。
『(いやいや、まだ今日は始まったばっかなんだから…)』
日中に何かが起こるのかも。杏寿郎を見付けたのが朝だったからどうしてもそのくらいの時間が気になっちゃうけど、元に戻るのも朝だって決まったわけじゃないし。
いろんな可能性に思いを馳せながら、今日も職場へ向かうためのバスに乗る。
始業までの間、ゲームアプリを開きながらも頭では彼のことを考えて。
昼休み、何の連絡もないスマホをただぼやっと眺めて過ごして。
夕方、やっぱり何の通知も来ていない画面をちらちら気にしながら定時になるのを待って。
鐘が鳴るのと同時にスマホを手に取って、いつものように「今から帰るね」とメッセージを送信する。
今日こそは返事がないかもしれない、と送信ボタンを押しながら考えた。それが期待なのか恐怖なのかは自分でも分からない。
最初の頃はメッセージを送るたびに身構えていたけど、今となってはその意識もだいぶ薄れていて。帰れば当たり前のように杏寿郎が出迎えてくれるのを一ヶ月も繰り返していれば無理もない。
でもきっとそのうち、返事の来ないスマホを握りしめながら帰宅して、彼が居なくなった自分の部屋で、私は一人愕然とする――そんな未来がやってくる。
“その時”がもし今日この後訪れるなら、少しは覚悟もできてるんだけどな。
数分もしないうちにポケットの中でスマホが震えて、急いで画面をチェックした。
《ああ、お疲れ様》
『……、はあ…』
並んだ文字列を目でなぞるなり思わず吐いた溜息は、落胆によるものか、はたまた安堵によるものか。
…ああ、やっぱり理解と感情は別物だなあ。
一ヶ月待ってこれなら、“期限”にはもう頼らない方が良いのだろうか。
週末出掛けるとしたらどこにしよう。すぐ行けそうなところで良さげな場所はあっただろうか。
明日は金曜日だし、明日の夜にでも杏寿郎に相談してみるかな。
「鬼滅の刃」「聖地巡礼」みたいな単語で検索した結果を眺めながら、バス停の列の最後尾に並んだ。
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