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「なー咲来ちゃん、そういえば昨日大丈夫だったか?」


『へ?』




帽子が落とす影は濃い。太陽はちょうど真上。
壁に寄りかかって座っていれば出るのは欠伸ばかり。

視線の先に見えるのは船員らと一緒に甲板を掃除する咲来。
洗濯は終わったもののまだ彼女の仕事は残っているようで、遊び相手になってくれるのはもう少し先になりそうだ。


募る睡魔、夢の国に行くのも時間の問題かと思いきや耳に入った自分の名前に現実へ連れ戻される。




「ほらよ、火拳に襲われたりとかしてねえか?
部屋に連れてったのあいつだろ」


『エースさんがそんなことするわけないじゃない』




そこそこ名が知れてる自覚はあるからいつもはこれくらい気にしないのに、今ばかりは気になってしまうのはきっと彼女が関わってるからなんだろう。

目深にかぶった帽子はきっとおれの表情も、寝てるか起きてるかも彼女達には伝えない。




「まー、おれは酔ってる咲来ちゃんも良かったけどなー」


『え?…わたし何かした?』


「あれ、覚えてねェの?おれほっぺにちゅーしてもらったんだぜ!」




聞き耳を立てていれば風の音と共に入ってきた言葉。
――余計なこと言いやがって。
デッキブラシで床をこする彼には聞こえないであろう舌打ちをする。

帽子の影からちらりと見えたのは遠目でも分かるくらい赤くなった咲来で、またそれがおれの癇に障って舌打ちをして。




『うそ、わたしそんなことしたの?
…ごめんなさい、知らないうちにシャチに迷惑かけてたなんて……』


「いやいや、おれからリクエストしたんだからむしろ嬉しかったぜー?」


『え』




咲来の手が止まる。
彼女の反応は本当に分かりやすい、すべてが行動に出てしまうから。




『…シャチは、それで喜んでくれるの?』


「おう、そりゃあな!」


『じゃあ、…たまになら、……ほっぺなら、する』


「まじ!?」




ブラシがけを再開しながら彼女が問うたその内容はそういえば聞き覚えがある。
咲来は尽くすのが好きらしいと、おれが今朝昨日のことを問いただしたあの男は言っていた。

――“昨日?ああ、それがな、聞けよ火拳。おれちゅーしてもらったんだ!”
――“咲来ちゃんは癒しになりたいんだとよ。世話になってる代わりに”



酔っている間はなんだかんだ素が出やすいと聞く。
彼女も例外ではなかったようで、本当に尽くすことが好きなようで。
これまで見てきた行動にも思い当たる節があって、だからこそ生まれてしまう確信に嫌になる。

人に喜んでもらうのが好きなのはいい。でも、いきすぎてはいけない。それをあいつはきっと知らない。




『!』


「お前余計なこと吹きこんでんじゃねェ!」


「ぅぶっ!?」




立ち上がって他の船員から取り上げたホースの照準はキャスケット。
出しっぱなしだった水は勢い良く彼に命中する。
なんだなんだ、とざわつく周囲。




「つめてぇえええ!!何すんだよ火拳!!
酔ってない方の咲来ちゃんからも言ってくれたんだからいいだろ!?口出しすんな!!」


「わっ!?」


『きゃっ!』




おれからホースを奪った奴の考えることは全く同じ。
勢いのある水は容赦なく顔面に飛んできて、反射的に目を瞑る。

ただひとつ違ったのは、奪った際にホースがうねったおかげですぐ隣にいた咲来にも被害が及んだこと。




『…もう、冷たいじゃない!』


「うおっわりぃ咲来ちゃ、…」




謝罪の言葉が途切れたことに不審を抱いて振り返ってみれば見事にずぶぬれになった咲来。
それだけなら良かった、それだけなら。




「……っ、咲来今すぐ着替えて来い!」


『え?大丈夫よ、これくらいすぐ乾くから』


「いいから着替えて来い!」




船内を指さして命令するも、咲来は困ったようにおどおどするだけ。「今汚れてもいい服がこれ以外にないの」と眉を下げる彼女の言い分は筋が通っているものだから悲しい。

一度だけ行った買い出しで服を必要最低限しか買っていないのは事実、しかし放っておいたところで状況は良くならない。彼女の代わりにおれがどうにかするしかないと判断するのに時間はかからなかった。


ずぶぬれになった彼女の服はその体にぴたりと張り付いて。
幸い上下ともに黒だったものの、白だったら大惨事になっていたと思うと気が気でない。
髪から滴る水はやけに色っぽく見えて、ただ水をかぶっただけなのにこうも違うものかと。
変態は嫌いだと言う彼女に嫌われるのも時間の問題かなと、ふと頭に過ったのはそんなこと。




「タオル!シャチてめえタオル持ってこい!!」


「お、おう!」




わたわたするシャチにお前がやったんだろと言う暇もなく指示を出す。
そのまま慌てた様子で彼は船内へと消えて、ここでようやく周りがかなりざわついていることに気がついた。




『エースさんは少し心配性過ぎるのよ、暑いしこれくらいじゃ風邪も引かないって』


「別にそんな……ってお前何してる…!」


『くっついて気持ち悪いの』




慌てるのは常に周りばっかりで、本人はけろっとしているものだから全く。
襟もとに指をかける彼女は服が張り付いて嫌だと言う。
身長からして斜め上から見下ろすような形になっていたおれの視線は一瞬泳いだ。

見ていない、見えていない。何も考えてはいない、何も考えてはいけない。
馬鹿、とだけ言って彼女を抱き寄せる。




「お前は、ほんとに…!」


『……、エースさん?』




危機感が足りない。ここにきてから何度言っただろうか、そしてこれから何度繰り返せばいいのか。
ここで女はお前だけなんだからもっと気をつけろと、何度言えば分かってくれるのだろう。
おれがいなかったらどうなるかなんてきっとこいつは考えてくれていない。

抱き寄せた彼女の体は当たり前だが水でひやりとして、上着だけ羽織ってボタン全開のおれの肌にダイレクトに感触が伝わる。それに少なからずどきりとして、でも今はそんな場合ではない。


数分後大きめのタオルを持って現れたシャチからそれを奪い取ると急いで彼女にかぶせた。




『ぎゃっ』


「あーもう、風邪引いたらどうすんだ!」


『だからそんな簡単には………あ、』


「?」


『わたしより、エースさん』




濡れてる、そう言って背伸びした彼女は頭に被せられたタオルの端を掴むとおれの髪から滴る水滴を拭う。
「エースさんも風邪ひいちゃうよ」とそのまま両手でタオルごと顔を包まれて微笑まれて、もしかして毎回狙ってるんじゃないかとさえ思った。




『エースさん、端っこ行こ。しゃがんだ方が拭きやすい』


「お、おう」


「あ!まだ咲来ちゃん返すわけには…」


「うるせェ!お前のせいだ!」


「んだと!?水かけてきたのはお前だろうが!!」


「お前が余計なこと言うからだろうが!!」


『ふ、二人とも……シャチ、貴方もずぶぬれだから拭かなきゃ』


「おっ!おれにもそれやってくれ!!」




咲来の言葉にすぐに反応するシャチも分かりやすさは彼女並み。

結局船の端で二人して咲来に拭いてもらって、掃除は服が乾くまで一旦休憩。
拭いてもらっている最中常ににまにましていたシャチはとりあえず一回殴っておいた。




「ったく、火拳は何かあるたびに殴りやがって……。
なあ咲来ちゃん、男嫌いってほんとか?」


『……うん、わたしそんなこと言ってた?』


「おれらは平気とも言ってたぜ。嫌いって割に大胆だったからよ、なんかよくわかんねえ」


『大胆、ねえ……』




シャチとおれに挟まれた咲来はしばらく考える素振りを見せる。
くすり、目を細め口角をゆっくり持ち上げた彼女の顔と声がやけに心臓に響いた。




『好きな人には、そうかも』




――これが狙っていないと言うのだからタチが悪い。
ぼそりと呟くように言われたそれは脳内で反響してぐるぐると回る。

熱を帯びた頬はきっと赤くなっているだろうと、咄嗟に帽子を深く被り直したのは反対側に座ったあいつもだった。




「よーし、これから毎日ちゅーしてもらうか!」


「んなことさせるか!」


『…そんなにしてほしいの?』


「もちろんだ!おれは唇でも大歓迎だ!」


「だからさせるかっての!…あ、咲来」


『なーに?』




何を言い出すんだとシャチを止めながらも最終的に話しかけたのは咲来で。
どうしたの、と首を傾げる彼女はきっとおれの次の言葉待ち。




「……後で、おれにもしろ」


『…へ?』


「………、ほっぺに、ちゅう」




わざわざ言い直したその要件に彼女は最初こそきょとんとしていたが次第に飲みこんだのか目を丸くし出す。
目が合った瞬間になんとも言えない感覚に襲われて、顔ごと視線を逸らした。




『……いいよ』


「!」




再び目を合わせるわけにもいかなくて、ひたすら前を向きながら待った返事はYes。
「お前また妬いてんのか」とからかうシャチの言葉はなぜか遠くに聞こえて。

一人小さな約束を交わしたおれはすっかり満足して、帽子の影で口角を上げた。






なんとなく負けたくない。

(ちぇ、せっかくおれが勝てたと思ったのによ!)
(させねェ!)






END.








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