02
ポートガス・D・エース。
私にとってやけに親しみのあるその名前が頭の中で反響する。
その声もまた聞き覚えのあるもので、でも本当は目の前でこうして耳に入るようなものではないはずで。
『…あの、つかぬ事を聞きますが……』
「ん?」
ここはどこですか、なんて。
名前の次は馬鹿らしいような質問を目の前の“エースさん”にぶつける。
私は誰ですかとまで聞かないだけいい方か。
「お前迷子か?」と聞かれたのでそういうことにしておいた。というか多分私は迷子だ。
自分の知らない場所で帰り道が分からないのだから、きっと迷子の部類に入る。
「北の海のはずれにあるちっせー島だ。人もほとんどいねェ……お前なんでこんなとこで迷子になるんだ?」
不思議そうに首を傾げる彼に、そんなこと私が聞きたいですと喉まで出かかった言葉がそこでつっかえる。
「分かりません」とだけ言い捨てて、「なんだそりゃ」と言ったエースさんを横目に手と体に着いた砂を払って立ち上がった。
目に飛び込んだのはどこまでも続く青い海と青い空。
エースさんに気を取られていて周りの景色なんて今初めてまともに見た。建物ばかりが建ち並ぶ日常に生きてきた私には、それは些か眩し過ぎた。
心地よい風が吹き抜けるも未だ水分を含んだ洋服は重い。足にへばりつくスカートの裾を酷く邪魔に感じ、太ももの辺りでぎゅっと結ぶ。
探検気分で軽く見回りに行った短時間で分かったのは、ここは本来私がいてはいけない所なのだろうということだけ。
言うならば来てはいけないところに来てしまったような感覚。この世界そのものが立ち入り禁止ゾーンのような。
深く溜息をついてから元来た道を辿る。エースさんの隣に戻る頃には服はすっかり乾いていた。
彼の言うとおりここは自然いっぱいの小さな島で、暮らしている人も大した人数ではなさそう。
ただただ、「実際に」見たことないものがそこら中に散らばっている。共通してるのは「なんとなく見覚えはある」こと。
寝起きなのが幸いしたのか知らないが、大して喚きも騒ぎもしない自分に称賛を贈りたい。
つい昨日まで始まったばかりの楽しい夏休みを満喫していたはずだ、ということだけは頭の片隅で覚えている。
ショートした思考回路なんてとうの昔に使い物にならなくなっていて。
それでも僅かに残った精神で徐々に焦り始めた私とは対象的に、エースさんは呑気に欠伸なんてしている。ぼんやり見ていたら彼は「さてと」と立ち上がった。
思わずぎょっとする、もしかしなくてもこの人、もう行ってしまうのではないか。
『あ、あの!』
「なんだ?」
『エースさん、……わたしここの人間じゃないって言っても、…信じてくれませんよね……』
もし万が一この人が本当に“エースさん”であれば。人の良いあのエースさんであれば。
助けを懇願したら力になってくれるかもしれないと一抹の希望を抱いた。
「ここの人間?ああ生まれは違うってか、まァそりゃこのちっせーとこじゃ」
『違うんです、わたし…わたし、エースさんのこと、漫画で読んだから知ってるの…』
「漫画?なんだそれ」
『絵本とはちょっと違うけど…本みたいな、もので』
ぽつりぽつり、整理しきれていない頭の中で必死に散らかった言葉を拾い上げる。
立ち上がったエースさんは話をし始めた私の隣に座り直した。
ここは知る限り漫画の中の世界で、あなたもその漫画で出てきたから知っていた。
だからきっとここに私はいてはいけなくて、でもどうやって来たかもどうやって戻るかも分からなくて。
今の状況的にエースさんに見捨てられたらただここで死ぬだけだと。
最初は半信半疑で聞いていたエースさんが、泣きそうになりながら話す間に少なからず同情してくれたのか頭を軽く撫でてくれた。
「なんかよく分かんねえしそんなこと言う奴初めて見たけど……お前、このままおれがいなくなったら困るのか?」
『困る、……わたし、どうしたら』
膝を抱えてうずくまればエースさんは少し嬉しそうに苦笑いする。
彼の台詞に既視感を覚えて記憶を辿れば、ある一場面と重なった。
自分を必要とする人に弱いのだろう。
不意に「そうか」と立ちあがった彼を見上げる、自分より30センチ以上もある大柄なその人は、見下ろされる怖さなんて微塵も感じさせないほど無邪気に笑った。
「じゃあ、おれと一緒にオヤジのとこ行こう!」
『え』
「おれが言えば大丈夫だ、悪い奴じゃなさそうだし…そうだお前、名前は?」
『あ、…咲来、です』
「咲来な!よし、さっそく準備するぞ!ああそれと、敬語もいらねェからもっと気軽に話してくれ!」
『あ、ありがとうございます…?』
「だから敬語いらねえって。おれのことはエースでいいぞ!」
にっと笑うエースさんは本当に眩しくて。
その笑顔にいくらか不安が削がれて気分も軽くなる、同時にこの“エースさん”は私の知っている“エースさん”と同一人物だと悟る。
ああ良かった、最初に出会ったのがこの人で。
心からそう思った。
『本当にありがとう、…エース!』
呼び捨てにするのが慣れなくてちょっと照れてしまう。
感謝を精一杯声と表情に表せば、目の前の彼は硬直したのだった。
『…エース?』
「っ、何でもねェ」
ばっと顔をそらす彼に首を傾げつつ、彼の乗ってきたという乗り物に向かって足を進めた。
目の前にいたのはやっぱり大好きだったあの人。
(もうこの際夢でも天国でもいい)
END.
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