35


 




電話越しだけどエースさんの声を聞いたから、よく眠れる。
そう思っていた、数時間前までは。




『(…寝れない)』




なぜだろう、眠れない。眠れないと考えれば考えるほど眠れない。
眠れない日はなぜかとことん眠れないと経験上知っている。




『(海でも、見に行ってみようか)』




夜の海。都会育ちの私は見たことがない。
船に乗るなんて滅多にない経験だし、時間つぶしくらいにはなるかもしれない。
暗い所でぼんやりしていれば睡魔も来てくれるかもと考えつつ、ドアを押しあけて甲板へ向かう。

外に出た途端吹いた風がぶわりと髪を攫う。
つい今朝まで傍にいてくれたあの人は今誰と一緒にいるのかななんて、恋する乙女みたいなことを考えたりして。




「…こんなとこで何してる」


『!』




不意に聞こえた低い声にびくりとする。しかし馴染みのある声に振り返れば予想通りのその人。
金色のリング状のピアスがその耳元で光る。




『ローさん、…どうしてここに?』


「その音が鳴る靴はお前くらいしか履いてない」




言われて目を向けたのはヒールのついた私の靴。
女性向けに作られたそれは確かにここでは私以外履かないもの。

起こしてしまったかと聞けば否定され、では何故来たのかと問えば何も答えないローさんは相変わらず。
お前こそ何でここにいると、質問を質問で返される。




『ちょっと、寝れなくて』


「…ああ、火拳がいねェからか」


『な……違いますってば』




さも当然のように紡がれた言葉に慌てて反論する。
エースさんがいないからというのは半分あっているのかもしれないけど、少しばかり違う理由がもう一つ。




『わたし、いつ帰るのかなって。寝て起きたら戻ってるのかもって。
帰らなきゃいけないのはわかってるんだけど……やっぱり、どこかで帰りたくないって思ってて』


「………」


『わたし、みんなのこと、…ずっとずっと、大好きだったから……。』




体重を預けた船の柵。
項垂れるように顔を腕に埋めれば、船からは潮の香りがした。

こつりこつりという軽快な音と隣まで来た気配に顔を上げる。
黒で塗りつぶされた世界の一部に、わずかな船の明かりで見える彼が目に映った。




「……部屋、来るか」


『…え、……』


「一人じゃ寝られないんだろ?」




くつりと笑ってみせたローさんはどこか面白そうで。
まさかのお誘いに動揺していれば「お前が期待するようなことは起こらねェがな」と更に笑った。




『は、…な、何の話ですか』


「……クク、こっちの話だ」




「そんなとこ突っ立ってるくらいなら来い」と彼は一人船の中へと去っていく。
何気なく放たれた船長命令に、慌ててその後を追った。




――




「……案外軽く着いてくるんだな」


『つ、着いて来いって言ったのは誰よ』




行き先はやはりというか彼の部屋。
よりにもよって一人でこの人の部屋に来ることになるなんて、エースさんに知られたらまず怒られる。


言うことに矛盾が生じていると思わず反論。
断ると後が大変そうだから大人しく従ったのに。




「お前の反応が少し想定外だっただけだ。あまりにも警戒心が感じられなかった」


『……』


「まァ…おれとしてはその方が好都合だが」




――パタリ。
ドアを閉めれば、あれ以来の二人きり。
今更その状況を呑み込んで、ゆっくり息を吸い込んでから吐き出す。

どこか呆れたようにも見えるその人はベッドに浅く腰掛けて、長い脚を組んだ。




『多分、
ローさんじゃなかったら……来なかったと、思う』


「………」


『……多分、ね』




なんとなく口をついて出た言葉。深い意味は、ない。
部屋に来たもののどうすればいいかわからず、視線を彷徨わせていればふと立ち上がった彼に腕を思いっきり引っ張られる。

視界が反転して、背中にはベッド。手首でひとまとめにされた両腕は頭の上。
この前よりずっと危ないであろう状況にあの人はいなくて、でもなぜかやけに頭は冷静だった。




『……、なに?』


「咲来、おれが女を船に乗せない理由は知ってるか?」


『…?知らない』




何を言い出すかと思えば、そんなことを言い始めて。

戦闘面での不足、風呂だの化粧だの船で生活するにあたっての不都合。
つらつら理由を並べて最後に、「高確率で揉め事が起きるから」。




「所詮は本能…だがいちいち守ってやるほどおれは親切じゃねェ。
お前を乗せたのはちょうどいいボディガードが一緒だったってのがある」


『エースさん?』


「なのにそいつも今はいねェ。早くもシャチには相当気に入られてる様子だしな……おれは面倒なことは嫌いなんだ」




――いっそのこと、おれが手ェ出しちまった方が他は黙るのかもな。
並べられた単語を一瞬では理解できなかった。




『……、は?』




理解できたところで状況は変わらなかった。
笑っているように見えて真顔にも近い掴めない表情のローさんは本当に考えてることがわかりづらい。

手を出す、とは。まさかローさんに限ってそんなことが有り得るのだろうか。いや有り得ない。
しかし離される様子のない自分の両手と徐々に近づいてくる整った顔に、これがその「万が一」であることを理解する。心臓が高鳴るより脳が拒否反応を示すのが先だった。




『離して!!』


「…!?」




冷静だった頭で冷静に冷静なままではいけないと判断した。今回ばかりはセクハラでは済まない気がした。


掴まれた腕は足掻こうにもびくともしない、ならばと思いっきり体を捻って両足をローさんの体より外側へ。そのまま一気にその細い腰目掛けて振り下ろす。
細いといえど男の人で、単純に押し返すくらいでは意味がない。無遠慮にドカドカ攻撃すれば不意打ちだったのか諦めたのか、拘束されていた両手が解放される。

足で蹴り飛ばして手で体を押し返して、絶世の美女ならぬ絶世のイケメン相手に散々ではあるけど。




『からかうのもいい加減にして!それにシャチはそんなことしない!』


「………悪かった、本気で嫌がってるとは思ってなかった」


『…、!』




座り直して両手を挙げるローさん。
お前と不仲になるといろいろ都合が悪いんだと、気怠そうな声で彼は続ける。




「しかしあれだな……クク」


『…なんですか』


「おれの誘いを断ったのはお前が初めてだ」


『! ………』




不敵な顔して笑ってくつりと喉を鳴らす、漫画で見慣れた彼。
先程のやり取りを思い出しながら溜息をひとつ。緊張が一気に解けた。




『モテる男は言うことが違うね……』


「そうか?」


『…どうせローさんなんて何百人と付き合ってきたんでしょ』


「悪いが付きあった女ってのは覚えがねェな。
抱いた女は数えないだろ?」


『………、…何かの自慢ですか』


「フフ…」




騒ぎのせいで乱れた髪の毛に指を通す。なんだろう、とても疲れた。




『じゃ、おやすみなさい』


「…おい、どこへ行く」


『自分の部屋。お邪魔しました』




さっさとここを出よう。一応時間つぶしにはなったし、睡魔も疲れたおかげで少し戻ってきたから目的は達成。

一礼してから立ち上がれば、「待て」と腕を掴まれる。




『…なに?』


「一人じゃ寝れないんだろ?」


『や、確かにさっきは眠れなかったけど別に寝れないわけじゃ…』


「寝れないんだろ?」




ずい、と。近寄ってきた整った顔はとても綺麗だけど笑い方が怖い。
なぜだろうか、嫌な予感がする。




「よく考えてみろ。ここ以上に安全な場所はない。
お前に何かあったら責任は船長のおれにある。とばっちりは御免だ」


『……、それはつまり…』


「わかったらさっさと横になれ」




「おれの手を煩わせるな」とローさんは私に構わず睡眠体勢。嫌な予感は不思議とよく当たる。
要するに何かあったら困るからここで寝ろ、と。この人なりに心配でもしてくれているのだろうかとも思ったが、多分エースさんに暴れられないように考えた結果だと思う。

確かに安全上はここが一番だろう。この人に逆らうクルーはおそらくいないし。
しかしこの人の隣で寝るというのはちょっと心臓に限界を感じる。




『あのー…多分わたし大丈夫だから……』


「…お前はおれの誘いを二度も断る気か?」


『いや決してそんなつもりでは…』


「いいから寝ろ。余計なことは考えなくていい。
火拳屋には黙っておくから心配するな」




「クルーにも事情を話せばわかる」と続ける彼の言い分は私のとずれている。
エースさんはほぼ保護者と化してきているしこの人も似たような立場ではあるから、その点に関してはあまり問題ではないのだ。完全に個人的に、まだこの人に心臓が慣れきってないだけで。


かと言って逃げられそうにもない。
数秒考えた結果、諦めてごろんとベッドに横になる。もちろん彼とは距離をとって。

さすが船長の使うベッドというか、私が使ってる部屋のよりだいぶ質がいい。しかもこれはこの前来た時は意識しなかったがダブルベッドではなかろうか。船長特権なのか、女の子でも連れ込むのかは知りたくもないし聞きもしないけども。
とにかく時間ももう遅い、なんとか寝ようと目を瞑った。これだけ離れていればきっと大丈夫。



瞬間、ギシリという音の直後にのしかかってきた重みと背中に走ったぞわりという感覚で努力は無駄になることとなる。




「確かに抱き心地はまあまあだな……」


『――!!?』




暗闇といえど目の前にある手の甲の刺青くらい判別できる。
背中がじわりと温かい、頭にも気のせいではない確かな違和感。わけがわからない。




『くくくくっつかないで…!!ちょっと!離して!』


「? 何だ今更…これくらいどうせ火拳屋に毎晩やられてんだろが」


『されてない!なんか誤解してる!離れてください…!!』


「…普通なら、これじゃ済まねェかもな?」


『っ……、…』




例の人気声優のイケボとやらが頭のすぐ上から降ってきて脳を揺らす。顔が熱い、体中が熱い、ぐらぐらする。
私とは正反対に余裕らしい彼は感覚からすれば私の髪の毛に顔を埋めている。わけがわからない、なんでこんなに広いのにわざわざこっちに来るのか。


堪えるようにひたすら縮こまっていれば笑われて、その息が後頭部にかかってまた体がぞくりとする。エースさんに似たようなことをされてるからどうこうではないのだ、彼はこの人とはまた違うのだから。




「なんだ、敬語に戻って」


『何でもない、何でもない……!』


「クク…」




――“おやすみ”。
ただの挨拶なのにやけに色っぽく響くのは多分呟いたのがこの人だから。




『(寝れない……!!)』




しばらくすれば規則正しい呼吸音が聞こえてくる。こうなるんだったらさっき意地でも部屋を出て行くべきだったと後悔しても何も変わらない。

睡魔はもう姿すら見えず、暗闇の中へ溶けてしまったようだった。






寝不足確定です。

(これは気がついたら外が明るいコースですか)





END.






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